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支える人

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

問題解決の落とし所

2020-12-02
 国家再建最高会議議長朴正煕が、1961年11月11日に訪日し池田勇人首相と直接会談し、請求権問題は賠償的性格でなく法的根拠を持つものに限るとして、池田首相も、法的根拠が確実なものに対しては請求権として支払い、それ以外は無償援助、長期低利の借款援助を示唆することで、経済協力方式による解決が提示された。
 この日韓首脳会談が契機として、歴史認識問題や竹島の帰属問題は棚上げとなり、条約の締結に至った。最終的には韓国の朴正煕大統領が、賠償なのか支援なのかは問わず、日本からの無償3億ドル・有償2億ドルの提供を受けるということで決着することになった。
 両国とも、国内で反対運動が起きて難航したが、年内にはともに批准が済み、条約は発効した。当条約と付随協約により、日本は朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を放棄し、当時の韓国の国家予算の2年分以上の資金を提供することで、日韓国交樹立、日本の韓国に対する経済協力、日本の対韓請求権と韓国の対日請求権という両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく日韓関係正常化などが取り決められた。

JALの名前入りのハッピ

2020-12-01
日航機のタラップを降りるときのJALの名前入りのハッピは、JALが事前に用意して、スチワーデスに仕掛けさせたらしい。
美形のスッチに、これをまとって降りると日本人が喜びますと言われて、全員ご機嫌でハッピーな姿で降りたようだ(笑)

遺言

2020-11-26
リーダシップとは
「ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録」より
「リーダーシップとは、直面する難題から逃げないことである。
 リーダーが逃げないから部下も逃げないし、前のめりで戦う。
 経営の責任者とはそういうものではないだろうか」

「日本はずっと危機の時代にいた。
 (中略)
 平時であったことのほうがはるかに少ないのである。
 にもかかわらず、私たち日本人は打ち続く危機を次々と克服して、
 若い世代に未来を託
そうと懸命に努力してきた。
 現下の危機もきっと克服できる」
 

「デヴィ・スカルノ」第三夫人の誕生

2020-11-13
Facebook佐々木信雄さんの投稿

インドネシア初代大統領スカルノは、この時期絶頂期でインドネシア建国の父と称えられた。スカルノはその後、容共路線を取り自由主義諸国と疎遠になったが、日本とだけは良好な関係を保ち、何度も来日した。日本からインドネシアへの莫大な戦後開発援助は、日本からそれに対応した輸入をするという紐付き多く、その裁量権はスカルノが握っていたため、それをあてにした日本の商社が、スカルノ来日時の夜の接待をすることが多かった。

 

 そのような流れの中で、赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で働く根本七保子を、貿易商社「東日貿易」の社員が斡旋して、スカルノ大統領のもとに送り込んだと言われている。それがのちの「デヴィ・スカルノ」第三夫人ということである。ちなみにインドネシアはイスラム教国で、複数の妻が認められており、スカルノも「正妻多数」となっている。

隠元禅師

2020-11-04
Facebook平野めぐみさんの投稿
今日は黄檗宗の宗祖隠元の誕生日です。
隠元というと、どんなことを思い出されますか?やはり、お野菜のインゲンでしょうか?
【隠元とは】
隠元(いんげん)(1592―1673)
江戸前期に来朝した中国明(みん)代の禅僧。黄檗(おうばく)宗の祖。法諱(ほうき)は隆(りゅうき)。諡号(しごう)は普照(ふしょう)国師など。福建省の生まれ。幼時より行方不明だった父を捜して、21歳のとき旅に出、有名な観音霊場、舟山(しゅうざん)列島の普陀山(ふださん)に至って出家を志した。29歳のとき、福建省黄檗山万福寺(まんぷくじ)(古黄檗)にて剃髪(ていはつ)。勧進(かんじん)の旅をし、また諸寺を訪れ『法華経(ほけきょう)』『楞厳経(りょうごんきょう)』などの講説を聴聞。33歳より臨済(りんざい)宗の密雲円悟(みつうんえんご)に就いて参禅した。42、43歳のころ密雲下の兄弟子費隠通容(ひいんつうよう)に印可されて嗣法(しほう)し、1637年(崇禎10)46歳で古黄檗の住持に請(しょう)ぜられた。ここで一切蔵経(いっさいぞうきょう)を閲読、また1555年倭寇(わこう)の変で焼けて以来宿願であった伽藍(がらん)大復興を完成し、さらに隠元自身の語録も出版している。古黄檗を退院して2年後に再住、この間多数の修行僧を指導した。しかし退院中の1644年祖国の明は事実上滅びた。
出典日本大百科全書(ジャポニカ)
⚫隠元の渡来
1652年(承応1)より長崎・興福寺(こうふくじ)の逸然性融(いつねんしょうゆう)(明僧)や長崎在留の唐人が臨済宗や曹洞宗に代わる新しい禅宗の日本への伝来を熱望していました。そこで多くの唐人や 隠元の渡来を促す逸然らの招請状は1652年(計4回出され、1654年(承応3)ついにその渡来が実現しました。1回目の招請状には老齢を理由に辞退、2回目の招請状は海賊に奪われ届きませんでした。ようやく3回目の招請状に対し監寺の良者(後の大眉)を長崎に遣わし実情を調査した上4回目の招請に最終的に渡来をしたといいます。
一行には慧林など30人もの弟子のほか、仏師や絵師などの工匠も含まれていたので、まさに教団ぐるみの渡来であったといわれています。
⚫ 日本への永住と萬福寺の創建
隠元は、3年後には帰国するつもりでいたが、万治元年(1658)、4代将軍家綱から日本にとどまるようにとの命を受け、日本に永住する決心をしました。
翌年には京都の近郊に寺地が与えられ、一寺を建立することになりました。その寺地は山城国字治郡大和田(現在の京都府宇治市五ケ庄)にあり、1661年(寛文元)から新しい寺院の建立が行われました。隠元はこの寺院を出身地にちなみ、黄檗山萬福寺(これ以降、中国の黄檗山萬福寺は古黄檗と呼ばれた)と命名しました。これは隠元が中国の黄檗山萬福寺から来たということを忘れないようにということで、同じ命名がなされ、ここにわが国における黄檗宗が誕生しました。
⚫もたらされた中国文化
隠元以後、唐僧は隠元の法統の黄檗僧のみが渡来を許されたが、彼らによって最新の黄檗文化、すなわち南中国の文化がわが国にもたらされました。
隠元が日本にもたらした物には以下のものもあります。
隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚・もやし・茄子・落花生・胡麻豆腐・胡麻和え・精進揚げ・けんちん汁・印鑑・明朝体文字・普茶料理・円卓・・・・・中国との深いつながりを感じることが出来きます。
*隠元豆のこと
マメ科のつる性一年草。さやは細長く、未熟果をさやのまま、あるいは熟した種子を食用とします。
隠元が来日した際に日本に持ち込んだため、その名が付いたとされる「インゲンマメ」は、中南米原産のマメ科の作物です。ヨーロッパに伝わった後、ユーラシア大陸を横断して中国から日本に伝来しました。
別名は「五月ささげ」「三度豆」などがあります。未熟果をさやごと食べるものは「さやいんげん」と呼びます。
ちなみに、関西地方では隠元豆は藤豆の別称であることから、隠元禅師がもたらしたのは藤豆という説や、二種類の豆をもってきて、関東には五月ささげを、関西には藤豆を広めたとする説もあります。
*普茶料理とは
普茶料理は江戸時代の中国で食べられていた「素菜」(スーツァイ、いわゆる中国式の精進料理)のことです。「普茶」とは「普(あまね)く衆人に茶を施す」や「茶礼に赴く赴茶から」という意味とされています。茶による接待のことです。法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、供えられた季節の野菜や、乾物や豆、特に大豆を調理し、幼長男女の別なく食卓を囲み煎茶や抹茶などと楽しむ食事のことです。
基本的に一つの長方形の座卓(卓袱台、ちゃぶだい)を4人で囲み、一品ずつの大皿料理を分け合って食べるという様式が当時、非常に珍しがられました。禁葷食の精進料理であり、薬膳に通じる医食同源の料理でもあります。料理においても中国風のものが多く、巻繊(野菜や乾物の煮物や餡かけ)・油糍(下味をつけた野菜などを唐揚げにしたもの)や雲片(野菜の切れ端を炒め、葛寄せにしたもの)・擬製料理(肉や魚に擬した「もどき」料理です。麻腐、すなわち胡麻豆腐も白身魚の刺身に擬した「もどき」料理です)などがあります。炒めや揚げといった中国風の調理技術には胡麻油が用いられ、日本では未発達であった油脂利用を広めたと言われています。
こうした普茶料理は、異国情緒を味わうものとして黄檗宗の寺院ばかりでなく、料理屋や文化人など、民間でも広く嗜まれ、特に民間で行われた普茶料理は、長崎の卓袱料理とも影響し合いました。
現在も、萬福寺周辺に普茶料理を食べられるお店があります。日本料理の精進料理とは違う味を楽しまれてはいかがでしょうか?
普茶料理が食べられるところ。
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