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聖徳太子1400回忌

聖徳太子1400年忌法要のベージ

2023-02-22
facebook 土田龍樹さん曰く
今日2月22日は猫の日だの竹島の日だのと言われているが、日本人なら忘れてはいけない聖徳太子の御命日!
京都にいる倅に頼んで六角堂に代参してもらいました。

浄土真宗における聖徳太子―千四百回忌を迎えて―

2021-04-25
真宗本廟阿弥陀堂の荘厳
聖徳太子の千四百回忌を記念し制作した動画です。 
2021年は、日本仏教において宗派を問わず尊ばれ、親鸞聖人が「和国の教主」と仰がれた聖徳太子の千四百回忌にあたります。
 時代とともにイメージは変わりながらも、真宗門徒のなかで尊敬され続け、大切に受け継がれてきた聖徳太子について、浄土真宗の視点から紹介します。
聖徳太子・二王子像(唐本御影) 宮内庁蔵

「聖徳太子」の最古の肖像画、「唐本御影」
 「唐本御影」は、「聖徳太子」を描いた最古のものと伝えられる肖像画。
「聖徳太子二王子像」と呼ばれたり、百済の阿佐太子の前に現れた姿を描いたという「伝説」から「阿佐太子御影」とも呼ばれたりする。
帯刀して立つ「聖徳太子」の脇に描かれている二人の人物は、左が「聖徳太子」の弟の殖栗皇子(えぐりのみこ 用明天皇の第5皇子で母は穴穂部間人皇女)、右が「聖徳太子」の長子である山背大兄王と言われている。
こうした侍童を従えた三尊形式で描かれていることから、明らかに信仰の対象として描かれたものと見なされている。
 「唐本御影」は、眉や目などの筆法から、八世紀の制作とするのが通説である。
 なお「あご髭」は後世に、二度に渡って書き加えられたことが明らかになっている。
 「唐本御影」は、「法隆寺伽藍縁起資材帳」を始め、平安時代時代以前の記録にはない。
当初の伝来等、その由来が明らかでない。

「唐本御影」は中国渡来の画風」
 衣文に沿って軽い陰影のあるこの画風は、西域から中国に流入した陰影法であり、六朝時代の肖像画に使われていた画風である。
 また、中央に本人、左右に二王子が並ぶ構図は、7世紀に活躍した唐の宮廷画家、閻立本の描いた『帝王図巻』との類似性が指摘されている。
 閻立本『帝王図巻』とは、前漢昭帝から隋煬帝まで13人の帝王を描いた伝閻立本《帝王図巻》(ボストン美術館蔵)で、勧戒の意や尊崇の意をこめたものでもあり,軸物は寺観など別に場所を設けて掲げ礼拝の対象とされた。
 ちなみにボストン美術館蔵の『帝王図巻』は後代の模作である

聖徳太子孝養図

2021-04-25
大谷派寺院本堂の余間には、こちらが奉懸されています。

◎蘇我氏の興隆

2022-09-24

facebook 佐々木 信雄さん曰く

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【7th Century Chronicle 621-640年】
◎蘇我氏の興隆
*623.-.-/ この年、蘇我馬子が新羅征討軍を派遣し、新羅は服して調を貢進する。
*624.10.1/ 蘇我馬子が葛城県を求めるも、推古天皇は拒む。
*626.5.20/ 蘇我馬子(76)没。馬子の子 蝦夷が葬儀を仕切るも、馬子の弟 境部臣摩理勢と軋轢が生じる。
*626.-.-/ 蘇我馬子の子 蝦夷が大臣(おおおみ)になる。
*628.9.-/ 推古天皇が崩御したあと、皇位継承をめぐり紛糾する。蘇我蝦夷は田村皇子(舒明天皇)を擁立し、山背大兄王(聖徳太子の長子)を推す叔父の境部臣摩理勢を殺害する。
*643.11.1/ 蝦夷の子 蘇我入鹿が、山背大兄王を襲撃して一族を滅ぼす。
 蘇我氏は、河内の石川および飛鳥の葛城県蘇我里を本拠としていた土着豪族であったとされる。具体的な活動が記述されるのは、6世紀中頃の「蘇我稲目」からで、それ以前に関してはよく分かっていない。渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、渡来人の持つ当時の先進技術が、蘇我氏の台頭の一助になったと考えられる。
 また蘇我氏は仏教が伝来した際にいち早く取り入れ、朝廷の祭祀を任されていた物部氏、中臣氏に対抗した。稲目の代の頃には、過去に勢いのあった葛城氏や平群氏が衰退し、大臣の蘇我氏は、大連の大伴氏や物部氏にならぶ三大勢力の一つとなる。やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部尾輿と大臣の蘇我稲目が二大勢力となった。
 蘇我稲目・馬子父子は、娘を次々と天皇に嫁がせ、大王(天皇)の外戚となって勢力を強めていった。二大勢力の構図は次代の「蘇我馬子」と「物部守屋」に引き継がれ、用明天皇崩御後に後継者をめぐる争いが起こった。
 蘇我馬子は、物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、続く戦いで物部守屋を討ち滅ぼし、泊瀬部皇子を即位させ「崇峻天皇」とした。さらに崇峻天皇と対立すると、蘇我馬子は、天皇を暗殺させる。馬子は、初の女帝「推古天皇」を就任させるも、その推古天皇にも葛城県の割譲を要求するなど、思うままに振る舞うようになった。
 推古天皇34(626)年、馬子が死去すると馬子の子「蘇我蝦夷」が跡を継ぐが、馬子の弟で叔父の「境部摩理勢」との対立が生まれ、推古天皇36(628)年、推古天皇が崩御すると皇位継承者の選定で意見が対立、山背大兄王を推薦した叔父 境部摩理勢を殺害し、蝦夷は田村皇子を「舒明天皇」として即位させた。
 蘇我蝦夷は、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせたり、子である「蘇我入鹿」に勝手に紫冠を授けて大臣とするなど、自らを大王に擬する行為があったという。さらに入鹿は、皇極天皇2(643)年、聖徳太子の継嗣「山背大兄王」を襲って一族を滅亡させるなど、蘇我氏一族の横暴が際立った。
 皇極天皇4(645)年7月10日、三韓(新羅・百済・高句麗)使者による進貢の儀式が大極殿で行われ、儀式に出た蘇我入鹿は、潜んでいた「中大兄皇子」(天智天皇)と「中臣鎌足」らに討ち取られ、入鹿の死を知った蝦夷も館に火をかけ自害した(乙巳の変)。
 皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)へ譲位し、中大兄皇子は皇太子に立てられ、内臣となった中臣鎌足らとともに、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。以後蘇我氏は、かつての勢いは戻らないまま歴史の表舞台から姿を消す事になる。
 これらの歴史は、日本書紀など天智・天武の治世以降に編纂された史書の記述に基づいており、皇統に滅ぼされた蘇我氏は、意図的に悪者にされている点に留意しなければならない。事績だけから見れば、蘇我氏は半島事情に詳しく、当時の先端技術や大陸の仏教をいち早く取り入れた革新派であり、開明的な政策を展開したとも考えられる。
(この時期の出来事)
*622.2.22/ 聖徳太子(49)没。
*623.3.-/ 聖徳太子追善供養のため、太子妃が鞍作鳥に法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像をつくらせる。
*630.8.5/ 犬上御田鍬・恵日らを唐に派遣する(第1次遣唐使)。

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日

2022-04-20
大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。「中外日報」より

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。

宮内庁が管理する各陵墓では毎年の没日に正辰祭が営まれており、節目の年には式年祭がある。天皇陵の式年祭のような奉幣は皇族墓では行われておらず、儀式内容は例年の正辰祭と変わらない。磯長墓は考古学的には「叡福寺北古墳」と呼ばれ、没年とややずれる7世紀後半の様式を示すが、太子の墓の可能性が高いと考えられている。

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