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仏教美術

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2020-04-26
管理人は釋 大仁、当山住職です。

京都世界遺産を深掘り【07.宇治 平等院】

2023-08-03
facebook 佐々木信雄さん曰く
京都世界遺産を深掘り【07.宇治 平等院】
 「宇治平等院」は、琵琶湖南端から流れ出した瀬田川が、南郷から笠取の山間を通り、峡谷が開けて扇状地となる左岸に位置する。京都南郊の宇治の地は、平安のはじめから貴族の別荘が営まれており、9世紀末頃左大臣源融が営んだ別荘が、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、やがて摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となった。
 道長の没後、その子 関白藤原頼通が、末法の世における浄土信仰の高まりのもとで、宇治殿を寺院に改め平等院とした。かくして宇治の平等院は園城寺(三井寺)の末寺として創建され、天喜元(1053)年には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような「阿弥陀堂(鳳凰堂)」が建立された。
 釈尊入滅から二千年を経過したあと「末法」の時代に入るとされ、永承7(1052)年に末法の世になると言われた。本来「末法」は、仏の在世から遠く隔たり、教法が正しく伝わらず、仏法がその効力をなくしてしまう時期とされ、正法・像法・末法という仏法上の区分だったが、平安時代末期には災害・戦乱が頻発し、終末論的な思想として捉えられるようになった。
 「末法」は世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯え、末法では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなった。まさに末法が到来する永承7(1052)年、関白藤原頼通は、浄土信仰の象徴である阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立することにした。
 阿弥陀堂は、浄土三部経などに説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。末法思想の広まりとともに、阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになり、平等院鳳凰堂の他にも、中尊寺金色堂・法界寺阿弥陀堂・白水阿弥陀堂などが現存している。
 平等院は創建以来、藤原氏ゆかりの寺院として栄華を誇っていたが、その後何度も戦乱に巻き込まれている。治承4(1180)年の以仁王の挙兵の際に、以仁王側の源頼政が「橋合戦」で敗れ当院の「扇の芝」で自害している。寿永3(1184)年にはすぐそばで「宇治川の戦い」が行われた。承久3(1221)年の「承久の乱」の際には、鎌倉幕府軍の本陣が置かれ、付近で合戦が行われている。
 建武3(1336)年「建武の乱」の一つとして、足利尊氏と楠木正成の合戦があり、阿弥陀堂(鳳凰堂)以外のほとんど焼失してしまった。室町時代には平等院は次第に荒廃し、文明17(1485)年に山城国一揆が発生し、南山城の国人衆や農民らが当院に入って評定を行っている。
 平等院はのちの歴史的経緯から、天台宗最勝院と浄土宗浄土院が共同管理していて、現在は特定の宗派に属しておらず、昭和28(1953)年に「宗教法人平等院」となっている。近年には、庭園の発掘調査や・鳳凰堂堂内装飾の復元などが行われ、それまでの「宝物館」に代わり「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンしている。平成26(2014)年、鳳凰堂の大修理工事が完了し、あざやかな朱塗りと金色の阿弥陀如来坐像が再現されている。

聖地 南山城 ―奈良と京都を結ぶ祈りの至宝―

2023-07-10
国宝 阿弥陀如来坐像(9軀のうち その1) 京都・浄瑠璃寺[木津川市]
浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念 特別展

京都府の最南部、奈良市に隣接する地域は旧国名のやましろのくににちなんで、いま「みなみやましろ」と呼ばれています。なだらかな山間を木津川が流れる風光明媚な地であり、仏教の伝来後、7世紀にはこの地域でも寺院の建立がはじまりました。

 南山城が歴史の表舞台に登場するのは、しょう天皇のきょう造営によってであり、木津川への架橋や寺院の建立などにぎょうの活躍がありました。平城京から長岡京・平安京へのせん以降も南山城は新旧両都をつなぐ回廊的な役割を果たす地域として、重要性を増すことになります。東大寺や興福寺といった奈良の大寺との深い関わりのなかで寺院があいついで建立され、また木津川流域の山々は俗世を離れた聖地としてさんがくしゅげんの拠点とされました。

 鎌倉時代には、はじめ興福寺に学んだだつしょうにんじょうけいかさてらからかいじゅうせんへと拠点を移し、しゃにょらいろくさつかんのん菩薩に対する信仰を深めるとともに、南都のかいりつふっこうに努めたことが特筆されます。さらに江戸時代には、各地でねんぶつを広めたたいちゅうしょうにんが晩年にみかのはら(木津川市加茂町)を拠点とするなど、南山城は各時代を通じて文字どおり日本仏教の聖地でありつづけました。  

 本展は、5か年に及ぶ保存修理が完成した浄瑠璃寺九体阿弥陀像のうち2を修理後初公開するとともに、その優美な姿を寺外で拝することのできるまたとない機会となります。さらに南山城とその周辺地域の寺社に伝わる仏像や神像を中心に、絵画や典籍・古文書、考古遺品などを一堂に展観することで、この地に花開いた仏教文化の全貌に迫ります。多彩な作品を通して南山城のゆたかな歴史と文化を再認識していただくとともに、緑深いこの地域にいまもなお受け継がれる聖地の息づかいをご堪能ください。

日本最古刺しゅう復元 奈良・中宮寺に奉納、一般公開へ

2023-05-31
facebook Sumie Nagakusaさん曰く

聖徳太子の没後、追慕する妃の願いでつくられた日本最古の刺しゅう「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう、7世紀、国宝)」の一部を復元して装飾した「被衣(かつぎ)」を京都の伝統工芸、京繍(きょうぬい)の第一人者である長艸(ながくさ)敏明氏が制作した。繍帳を所蔵する中宮寺(奈良県斑鳩町)に6月1日に奉納し、2日から一般公開する。

被衣とは頭からかぶる着物のこと。絹製で着丈は約90センチあり、同寺に伝わる聖徳太子二歳像(13世紀)がまとう。紫色の羅(ら=薄い網目状の織物)に鳳凰(ほうおう)や亀、天人、日月などの図像が色鮮やかな糸で表現されている。奈良国立博物館の三田覚之主任研究員による監修のもと、古代の素材や技法、色調を復元し京都市にある長艸氏の工房で6人がかりで仕立てた。

長艸、三田両氏は約20年前から繍帳の復元研究に取り組んでおり、中宮寺が聖徳太子二歳像の被衣を新調するのを機に作成した。奉納に先立つ5月17日、奈良に私的旅行で訪れた上皇ご夫妻がほぼ完成した状態を同寺で観賞されたという。

長艸氏によると、復元した刺しゅうは現代の糸と違って強い撚(よ)りをかけているのが特徴で「生地が硬く、再現が難しかった」。三田主任研究員は「一歩ずつ研究を積み重ねてきた成果を形にできた」と話している。

『中宮寺』|

2023-05-17
【上皇ご夫妻】中宮寺を訪問 修復終えた本堂へ 奈良・斑鳩町
日本が誇る美しい仏像が残る尼寺『中宮寺』|奈良観光コンシェルジュが斑鳩町のお寺をご紹介:Chuguji-Temple in Ikaruga Town|Nara
中宮寺 - 菩薩半跏像 Buddha
特別展「奈良・中宮寺の国宝」担当研究員が展示を紹介
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