兵戈無用(ひょがむよう)
「兵戈無用」(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)
原爆裁判の歴史的意義とは?
1963(昭和38)年12月7日、東京地方裁判所第十一号法廷。当時の民事裁判では異例だった主文後回しで、裁判長である汐見(平埜生成)が判決文を読み上げる。
「原子爆弾の投下が仮に軍事目標のみをその攻撃対象としていたとしても、その破壊力から無差別爆撃であることは明白であり、当時の国際法から見て違法な戦闘行為である」
しかし、被害を受けた個人には国際法上損害賠償する権利はない。ここまで聞いた記者たちは速報のためいっせいに立ち上がるが、
「人類始まって以来の大規模、かつ強力な破壊力をもつ原子爆弾の投下によって被害を受けた国民に対して心から同情の念を抱かない者はいないであろう」
汐見が続けた言葉に再び着席する。
「国家は自らの権限と、自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。原爆被害の甚大なことは、一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは多言を要しないであろう」
ただしこれはもはや、裁判所だけではなく立法と行政の存在意義にも関わる問題であるという。
「終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげた我が国において、 国家財政上、これが不可能であるとは到底考えられない。我々は本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである」
汐見はこう締めくくった。
実に4分におよび読み上げられた判決文は、実際の裁判でのものとほぼ同じだという。一般的なイメージの「朝ドラ」としては異例の尺に、マスコミもSNSも大きく盛り上がったが、あの東京裁判でも問われることのなかった原爆投下の責任を、国際法違反と断じたこの判決文をそのまま流したこと、それは「虎に翼」というドラマが歴史に刻んだ大きな役割だと言えるだろう。
結果的に、原告らの請求は棄却され、訴訟費用は原告らの負担とすると主文が読み上げられる。こうして8年におよび原爆裁判は国側の勝訴で幕を下ろした。この裁判の存在が、のちの原爆特別措置法(1968年)、被爆者援護法(95年)などへとつながっていくことになる。