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ファイトの系譜 

【 オールラウンド編  含TOKYO2020の記録】

巨人・原監督「僕はまだまだ新米」監督通算1181勝で星野仙一氏に並ぶ歴代10位も謙遜

2022-05-25
© デイリースポーツ 8回、ウォーカーの左前適時打で二走・湯浅が生還。出迎える原監督(左)=撮影・佐々木彰尚
デイリースポーツ 2022/05/24 21:28

「巨人4-2オリックス」(24日、東京ドーム)

 巨人が競り勝ち、連敗を2で止めた。幸先良く交流戦初戦を白星で飾った。

 原監督は監督通算1181勝目を挙げ、中日、阪神、楽天を率いた星野仙一氏に並ぶ歴代10位となった。

 原監督は試合後、親交も深かった星野氏について「やっぱり尊敬する指導者であり、尊敬する先輩であり、尊敬する人間であったというところですね」と敬意。続けて、「(星野氏は)いろんな意味で、やっぱり年々変わっていかれたというかね、やっぱり一口でこうだったということは語れない。それくらい監督というお仕事、まあわたしは一年生のつもりでやっているんだけど、特に球団も3球団にわたってやられたということもあるしね」と、語った。

 監督16年目、球界を代表する名将だが「もう1年目なのよ、自分はいつでも。振り返るにはまだ早いと思うしね」とし、「僕が今日並んだ、まあ、並ぶに値するものではないよ。僕はまだまだ新米で、道のりを含めて、僕はまだまだだと思います」と謙遜しながら先を見据えた。

 この日、名将が手腕を発揮したのは2-2で迎えた八回。無死一、二塁の好機で、ウォーカーの打席で強攻策。左前適時打で決勝点を呼び込み、さらに岡本和の二ゴロの間に1点を追加した。指揮官は「非常に厳しいゲームではありましたが、それぞれがいい形でバトンを渡して、つないだというところですね」と評価した。

「どうした!?」「大丈夫?」力士が突然土俵に倒れ込み視聴者困惑

2022-05-23
元若乃花“呼吸ができない”解説に合点「なるほど」「極め技だったのか」(ABEMA TIMES)

  豊昇龍の負け方に視聴者からは「どうした!?」「大丈夫?」といった心配する声が寄せられていたが、ABEMAで解説を務めた花田氏は「霧馬山が抱え込んだ時点で、首がきまっちゃってるんです。関節技ですね。あまり呼吸をさせなかったので、最後、豊昇龍は苦しくなってしまって(倒れ込んだ)。なんといっても呼吸ができない状態ですからね」と状況を説明。これを受け、視聴者からは「解説わかりやすい」「お兄ちゃんの解説最高に良かった」といった声が続々と寄せられていた。 (ABEMA『大相撲チャンネル』)

こうした話が美談として語る必要のない“環境整備”が必要だ!!

2022-02-22
高木姉妹、スケートの場合・・・。 「週刊文春」編集部 2022/02/21 11:55
© 文春オンライン 北京五輪での高木美帆 ©JMPA
高木菜那・美帆姉妹を新聞配達、レジ打ちで支えた母「お金の苦労は確かにあったけど…」笑顔で続けた“さすがの一言”

 昨夜閉幕した北京オリンピック。日本は金メダル3個、銀メダル6個、銅メダル9個と冬季オリンピック史上最多となる18個ものメダルを獲得した。2大会連続での記録更新となった。

 ただ、夏のオリンピック競技に比べて、冬季競技は厳しい競技環境にある。用具や練習、遠征にかかる費用も高額だ。選手たちの活躍は、家族の支えがあってこそだった。日本女子史上最多となるメダル7個を獲得した高木美帆、その姉で今回、銀メダルを獲得した菜那の姉妹も例外ではない。平昌五輪の際、高木姉妹の家族たちのサポートを報じた記事を再公開する。(初出:週刊文春 2018年3月8日号 年齢・肩書き等は公開時のまま)

高木姉妹を支え続けた「両親の献身」

 活躍は両親の献身なしには考えられないと、一家の知人は語る。

「父の愛徳(よしのり)さんは会社勤め、母の美佐子さんも美帆ちゃんが幼稚園の頃に新聞販売店の託児所に預けて、新聞配達を始めました。スーパーのレジ打ちと掛け持ちしている時期も長かった。お兄さんも含めて子ども三人がスケートをやっていましたから、走るように歩く、いつもそんな感じで忙しそうでした。でも笑顔を絶やさない素敵な人なんです」

「お金の苦労はですね、確かにありました(笑)。でもそれを苦労だと思ったことは、一度もないんです」

子供たちも中学に上がると母の新聞配達を手伝った。

「早朝に新聞を配って、それからトレーニングを兼ねて高校まで自転車で通っていました。お正月はお父さんも一緒になって配っていましたよ」(近所の人)

 妹の美帆は中学生でバンクーバー五輪出場を果たし、注目を集めたが、決して天狗になることはなかった。姉妹が小学生の頃から通った「高橋まんじゅう屋」の高橋美哉さんが語る。

「美帆ちゃんが高校三年生の夏休みですね。私が体調悪くしていたら、『三日間オフがあるから、何かお手伝いできることありますか?』って。お金ほしいとかそういうことじゃなくてね。働いていても、常に目が動いてて、他の人の動きを見て判断してる。美帆ちゃんの場合は一個言ったら十わかる。普通の子なら一カ月かかるような仕事を三日ですぐ覚えて。計算も一度も間違えなかった」

 姉の菜那は高校卒業後、スピードスケートの名門・日本電産サンキョーに就職した。帰省した際、家族ぐるみで交流のあった「竹葉寿司」に一家で出かけた。

「もう胸いっぱいという感じで、お鮨も喉通らない(笑)」

「菜那ちゃんが食べる前に『今日は私が払うから』って言ったもんだから、お父さんはもう胸いっぱいという感じで、お鮨も喉通らないみたいだったね(笑)」(店主の杉山雪男さん)

 姉妹がスケートを始めるきっかけを作った兄の大輔さんは語る。

「スケートってすごくお金かかる競技なので、両親は大変な思いをしたと思います。前々から両親にメダルをかけたい、いろんな方に恩返ししたいって言っていました」

 娘たちの快挙達成を、母の美佐子さんは笑顔でこう振り返る。

「お金の苦労はですね、確かにありました(笑)。でもそれを苦労だと思ったことは、一度もないんです」

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2018年3月8日号)

NHK廣瀬アナ、大乃国推しだった「優しいお顔立ちが他の力士にはなく」

2022-04-30
© サンケイスポーツ 廣瀬智美アナウンサー
2022/04/30 08:00
NHKの廣瀬智美アナウンサー(40)が29日、ラジオ第1「ハッキヨイ!もっと大相撲~昭和の日 昭和名勝負・名力士スペシャル~」(前10・05)に生出演。元横綱大乃国推しだったことを明かした。「私事ですが、現役時代、一番の推し力士が大乃国でした。小学生ぐらいだったんですけど優しいお顔立ちが他の力士にはなく、ちょっと大相撲を近くに感じられたのが…。ひたむきに土俵に上がる姿、毎日楽しみに拝見してました」と告白していた。

金メダルだけが柔道か 井上康生氏「ブランド価値を高めたい」

2022-04-30
© 産経新聞 柔道のブランド向上へ、最高責任者に就任した井上康生氏
金メダルだけが柔道か 井上康生氏「ブランド価値を高めたい」 (msn.com)

東京五輪で柔道日本男子監督を務めた井上康生氏が、柔道のブランド価値向上を目指した活動に着手している。昨年秋、全日本柔道連盟が新設した「ブランディング戦略推進特別委員会」で最高責任者のチーフストラテジーオフィサーに就任。産経新聞のインタビューにオンラインで応じ、柔道の間口を広げる取り組みの必要性を強調した。
© 産経新聞 日本男子代表監督の鈴木桂治氏(左)も子供向け教室を立ち上げるなど、柔道の普及に努めている=さいたま市大宮区

「いつも頭を抱えながら、悩みながらいろいろと勉強させてもらっています」。オンライン取材の画面で笑顔を見せた井上氏はこう語った。東京五輪後、強化の最高峰に位置する日本男子監督を退任し、柔道の価値向上の最前線に立つ覚悟で新ポストに就いた。

「選択肢や価値観が多様化する現代社会において、柔道がどのような役割を担い、価値を提供できるのか。さまざまな意見を聞きながら社会貢献を目指していきたい」。井上氏は就任直後にこうコメントした。

井上氏に柔道界の現状を改めて聞くと、こんな答えが返ってきた。

「歴史的な背景でいえば、『一つの観点』にこだわりてすぎたために、(価値を)うまく引き出せなかった現状があるのではないかと感じるところがある。継承と同時に、時代の変化に合わせた新しい何かが付け加えられてくることが大事な要素だと思っている」

日本柔道は、五輪競技の中でも金メダル獲得への期待が高く、日本代表の選手たちは厳しい鍛錬を積んで期待に応えてきた。井上氏自身も2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、監督に就任した16年リオデジャネイロ五輪では全階級メダル、東京五輪は史上最多5階級での金メダル獲得に導いた。

五輪での頂点に立つための「強化」は、井上氏が「一つの観点」と評した部分に含まれる。日本柔道が五輪で金メダルを量産しても、競技人口は減少傾向にある。井上氏は「世界最高峰の戦いに勝つという期待に応えていくことはもちろん、大事なことです。しかし、誤解を恐れずに言えば、五輪の金メダルは『点』にすぎない」と語り、別の観点も、ブランド価値の向上には必要ではないかと投げかける。

その一つとして目を向けたのが、子供たちやシニア世代と柔道の「接点」の拡大だ。

「道場の畳はすごく安全で、子供たちが走り回ったり、転げ回ったりするにはすごく適している。公園でのキャッチボール禁止など、遊び場が制約されている子供たちに、遊びの部分を柔道に取り入れて子供らしく遊べる環境があってもいい」

シニアについても「高齢者が健康で長生きできるために運動する場としても、柔道が還元できるものはあると思っている」という。

「道場はどうしても、正座をして厳しい稽古を積む場という敷居の高さがネックになっているかもしれない。もちろん、伝統を重んじる厳しい道場や施設があってもいいですが、そうじゃない面もあっていいのかなと思う」と伝統を重んじつつ、間口を広げることで柔道に親しむ機会の拡大を見据える。

井上氏自身、幼少期にはソフトボールや水泳にも励んでいた。現在の日本男子を率いる鈴木桂治代表監督も柔道と同時にサッカーに熱中した時期がある。子供のときには柔道一本ではなく、「スポーツ界の横の連携があってもいい」と他の競技と並行して柔道にも打ち込める環境作りの重要性も訴える。

柔道の裾野は変革の時期に差し掛かっている。その一つが小学生の全国大会の廃止だ。

「勝負や戦いから学ぶことや、自分が成長できることはあります。ただ、例えば小学生の全国大会廃止には過度な減量や、審判や相手選手に対して激しいやじを飛ばしたりすることなどが背景にあり、柔道の魅力や価値が引き出されていない現状や、子供たちの成長における最適化がなされていないのではないかと危惧する現状があった」

海外の競技者育成指針などでは、子供の時代にはスポーツから楽しみや喜びを育む重要性が説かれているとし、「モチベーションは段階を踏んで自分自身が求めていく中で作り上げていけばよく、子供たちにはまず柔道の楽しさを感じ取ってもらうところからスタートしてほしい」と願う。

井上氏は現職に就き、全柔連加盟の団体の人たちと意見交換する中で、「たくさんの方々が全国で頑張っている」ことを改めて実感したという。「そのことに感銘し、今後も共に良きカルチャーを作っていくことが不可欠だと思う」。同時に活動を周知し、柔道のブランド価値を高めるためには、「発信力」という課題も痛感した。名実ともに柔道界で群を抜く存在の自身が「広告塔」になる覚悟で新ポストの責務を全うするつもりだ。(運動部 田中充)

【 オールラウンド編 】(アーカイブス)

スポーツテーマ曲

2021-04-09

ボストンマラソン

2022-05-27

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1966(s41)年】-2
◎ボストン・マラソンで日本選手が上位独占
*1966.4.19/ ボストンマラソンで君原が優勝し、1位から4位まで日本人が独占した。
 世界の代表的なマラソンの一つボストンマラソンで、1位から4位までを日本人が占めた。1位君原、2位佐々木、3位寺沢、4位岡部、この時期日本マラソン陣は、世界を牽引する勢いであった。このときの優勝タイムは 2時間17分11秒。その後も日本人ランナーは世界のマラソンをリードしたが、近年のスピードマラソン化に付いてゆけず低迷することになる。
(この年の出来事)
*1966.4.20/ 日産自動車とプリンス自動車工業が合併、自動車業界の再編成が始まる。
*1966.9.3/ 荒船清十郎運輸相が、自分の選挙区に急行を停車させるように国鉄に指示したとして、国会で追及され辞任に追い込まれる。
*1966.11.13/ 全日空のYS11型機が、愛媛県松山空港への着陸に失敗して海上に墜落、50名が死亡する。(戦後初の国産機事故)

原田と野村

2022-05-27

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1965(s40)年】-6
◎スポーツ界で快挙 二選
*1965.5.18/ ファイティング原田が、ボクシング世界バンタム級で、日本人初のチャンピオンとなる。
 1965年5月18日、名古屋市愛知県体育館で、プロボクシング世界バンタム級タイトルマッチが行われた。軽量級でも最強のボクサーが集まるとされた「黄金のバンタム」で、50戦無敗の王者エデル・ジョフレ(ブラジル)の9度目の防衛戦に、元世界フライ級王者ファイティング原田が挑戦した。試合は、ジョフレが圧倒的有利と予想されていたが、2-1の僅差の判定で原田が勝利するという番狂わせが生れた。
 ファイティング原田は、1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦し、当時の世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に激しい連打を浴びせ、11Rノックアウト勝ちをおさめた。1952年の白井義男以来、10年目の世界チャンピオンだったが、3ヵ月後のポーンとのリターンマッチで、減量に苦しんで判定で敗れた。
 バンタム級に転向した原田は、1963年9月、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦する。5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開だったが、6R、メデルに一瞬の隙をついたカウンターをヒットされ、3度のダウンの末にKO負けした。しかし原田はすぐに再起し、1964年10月、ライバルの東洋王者青木勝利に3R KO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権をつかんだのだった。
 ファイティング原田のラッシングパワーは、当時テレビジョンの普及とともにブームを迎えつつあったプロボクシングを、一挙に人気スポーツに押し上げた。と同時に、日本のプロボクシング界を世界レベルに引き上げ、次々と原田に続いて世界に挑戦する選手を生み出した。
*1965.10.-/ 南海ホークス野村克也捕手が、戦後初の三冠王に輝く。
 野村克也は名監督としても名を馳せているが、現役時代の生涯記録はざっと挙げても、2901安打(歴代3位)・657本塁打(歴代2位)・1988打点(歴代2位)・ 3017試合(歴代1位)・11970打席(歴代1位)とすごいものが並ぶ。さらにこの年、戦後二リーグ制になって初の三冠王に輝いた。
 1962年、当時シーズン最多本塁打52本を記録するも、翌年、王貞治が55本を打ってあっさり抜かれる。三冠王も、王が73・74年と連続獲得してその栄光は後退、ずっと更新し続けてきた通算最多本塁打・最多打点なども、ことごとく王に抜かれて歴代2位にあまんじることとなる。
 記録面では王に立ちはだかられたが、それ以上にライバル心を焚き付けられた相手は、「記録より記憶に残る男」長嶋茂雄であった。京都府北部の寒村に生まれ育ち、甲子園には無縁な地方公立高校を出て、テスト生として辛うじてプロ野球選手に潜り込んだ野村にとって、東京六大学のスター選手として華々しく巨人に入団、いきなり本塁打王と打点王の二冠を獲得して新人王、そんな長島はまばゆいばかりの存在であった。
 野村が節目の600号本塁打を達成したときの観客は七千人程度、その時のインタビューで、長嶋ら(王も含めて)をヒマワリにたとえ、そして自らをひと目につかずひっそりと咲く月見草に擬したのであった。
(この年の出来事)
*1965.3.20/ 河野一郎国務大臣から、記録性に欠けると批判された市川崑監督「東京オリンピック」が公開され、大ヒットとなる。
*1965.6.12/ 新潟大学の植木幸明教授らが、阿賀野川流域で水俣病に似た有機水銀中毒患者が発生していると発表する。(第2水俣病)
*1965.10.21/ 朝永振一郎博士が、ノーベル物理学賞を受賞決定。

第18回オリンピック東京大会

2022-05-24

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1964(s39)年】-6
◎東京オリンピック開幕
*1964.10.10/ 東京オリンピックが開幕する。
 1964(s39)年10月10日、前日の雨を忘れたかのように、当日は抜けるような青空の秋晴れとなった。午後1時50分、音楽家団伊玖麿作曲のオリンピック序曲が演奏され、オリンピック旗および参加国旗が一斉に掲揚された。 天皇陛下のご臨場、さらに君が代の演奏の後、オリンピックマーチに合わせ選手団の入場となった。
 選手団の入場は、古代オリオンピックの歴史に従って、ギリシャ選手団を先頭に、アルファベット順に各選手団が続き、開催国日本の大選手団が最後に入場した。各選手団には縦列行進の際、歩度・歩幅と細かな指示が与えられていたといい、とりわけ日ごろから慣らされている日本戦日本選手団は、整然と入場行進をした。
 フィールド中央に縦列で整列した選手団を前に、ブランデージ国際オリンピック委員会(IOC)会長らのあいさつが続き、最後に昭和天皇の開会宣言(午後2時58分)が行われた。式の終盤に、聖火を掲げた最終ランナー坂井義則が、スタジアムの階段を駆け上がり、トーチをかざして聖火台に点火した。
 1964年東京オリンピックの公式記録映画は、市川崑が総監督を務め「オリンピック東京大会 世紀の感動」として一般公開された。だが、東京五輪担当大臣で自民党の実力者だった河野一郎が、試写会を見て「こんな記録映画はない、作り直せ」と発言し、「芸術か記録か」の大論争となった。結果的には、公式の記録映画として公開されると、観客動員約2千万人という空前のヒットとなった。
 競技では、陸上男子100mでボブ・ヘイズが圧勝し、水泳競技では米国のドン・ショランダーが金メダル4個獲得、体操女子ではチェコのベラ・チャスラフスカが華やかな演技で優勝するなど、話題を呼んだ。
 日本選手では、お家芸と言われた柔道の無差別級では、オランダのアントン・ヘーシンクに神永が敗れるという残念な結果に終わったが、女子バレーボールでは東洋の魔女と呼ばれた日本チームがソ連を破り優勝し、マラソンでは円谷幸吉が銅メダルを獲得し、メイン競技場に唯一の日の丸が掲揚された。
日本オリンピック委員会公式ペ-ジ https://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/
開会式・名場面ダイジェスト動画(NHK) https://sports.nhk.or.jp/tokyo2020/1000days/chronology/1964/
映画「東京オリンピック」(市川崑監督1965)の閉会式 https://www.youtube.com/watch?v=bp1O5c_oJC4
(この年の出来事)
*1964.8.2/ 北ベトナム軍がトンキン湾で米軍間を攻撃、米空軍が報復爆撃に出動、ベトナム戦争が急拡大する。(トンキン湾事件)
*1964.1014/ ソ連最高会議とソ連共産党中央委員会が、フルシチョフ首相兼党第1書記を解任する。
*1964.1016/ 中国が、初の原爆実験に成功する。
*1964.11.12/ 米原子力潜水艦の佐世保入港し、13日反対デモが警官隊と衝突。
1964.10.10、夜来の雨は上がり、東京は日本晴となりました。
東洋の魔女、ついに頂点へ・・・。
オリンピックの光と影

『沢村 忠』

2022-01-07
Facebook 高村雪子・Syoko さん曰く

【 プロレス編】

三冠ベルト (Triple Crown Championship Belt)

2021-08-03
Facebook ジャンボ鶴田さん曰く

ジャイアント馬場さんにコブラツイストをかけてみせるアントニオ猪木さん

2022-05-20
Facebook Masaaki Sasaki さん曰く

【73’ 創立1周年ジャイアント・シリーズ/パンフレット 鶴田友美紹介】

2021-08-11
Facebook ジャンボ鶴田さん曰く

ラテンの魔豹

2021-08-02
人間発電所 B.サンマルチノの後継者
ドロップキックの名手として知られ、日本では彼がジャイアント馬場に、この技を教え32文ロケット砲が誕生したというエピソードでも有名。

ペドロ・モラレスPedro Morales1942年10月22日 - 2019年2月12日)は、

アメリカ合衆国プロレスラー
プエルトリコクレブラ島の出身だが、少年期に家族と共にニューヨークブルックリンに移住。主にWWWFおよびWWFで活躍していた。
ニックネームは「ラテンの魔豹」。

ドロップキックの名手として知られ、日本では彼がジャイアント馬場に、この技を教え32文ロケット砲が誕生したというエピソードでも有名。

http://kuro.pinoko.jp/pro/w685.htm


All Japan Pro-Wrestling / Madison Square Garden Series

2021-08-02
当時のMSGのチャンプは“ラテンの魔豹”ことP.モラレス、G馬場に32文を伝授した師匠

【 ボクシング編 】

伝説は、ここから始まった・・・。

2022-01-20
井上尚弥でも今回は”負ける”と言われたWBO世界王者と対戦した結果…ヤバ過ぎ!?

2団体王者井上尚が防衛 谷口はミニマム級新王座に

2021-12-15
© 産経新聞 【ボクシングダブル世界戦】4回、ディパエン(左)を攻める井上尚弥=東京・両国国技館(代表撮影)
2021/12/14 21:06

ボクシングのダブル世界タイトルマッチ各12回戦は14日、東京・両国国技館で行われ、世界ボクシング協会(WBA)、国際ボクシング連盟(IBF)バンタム級チャンピオンの井上尚弥(大橋)がIBF5位のアラン・ディパエン(タイ)と対戦し、8回TKO勝ちした。2年ぶりの国内試合でスーパー王座のWBAは6度目、IBFは4度目の防衛となった。

世界ボクシング機構(WBO)ミニマム級1位の谷口将隆(ワタナベ)は王者ウィルフレド・メンデス(プエルトリコ)に11回TKO勝ちし、新王者になった。谷口は2度目の世界挑戦だった。

谷口将隆が新王者!猛ラッシュで11回TKO 2度目の挑戦で悲願「2年前の自分よりずっと強くなった」
© スポーツニッポン新聞社 11回TKOでウィルフレッド・メンデスを破った谷口将隆(撮影・島崎 忠彦)
スポーツニッポン新聞社 2021/12/15 05:30

◇WBO世界ミニマム級タイトルマッチ12回戦 〇谷口将隆 TKO11回1分8秒 ●ウィルフレド・メンデス(2021年12月14日 両国国技館)

 WBO世界ミニマム級タイトル戦は同級1位の谷口将隆が王者のウィルフレド・メンデスを11回1分8秒TKOで破り、王座奪取に成功した。

 「まだ夢見心地ですね。2年前の自分よりずっと強くなったと、ようやく自信が持てた」。会心のTKO勝ちが信じられないかのように、ベルトを巻いた谷口が興奮気味につぶやいた。

 「挑戦者らしく」がテーマ。それを貫いた。判定で敗れた19年2月の初の世界挑戦。気負って力を発揮できなかった反省が原点にあった。いかにして相手の中に入って接近戦に持ち込むか――。インサイドワークという王者の持ち味を消す作戦を徹底的に練った陣営の執念が実った。序盤から決して下がらず前に前にと圧力をかけ、2回に左フックでダウンを奪うと、中盤以降も果敢に前へ出る。11回。左の振り下ろしで相手の動きを止め、コーナーに追い詰めて畳みかけるとレフェリーが試合を止めた。

 同じジムには同学年のWBA世界ライトフライ級スーパー王者、京口紘人がいる。アマチュア時代からのライバルに先を越されたが、ようやく同じ「世界」の称号を手にした。青コーナーで励まし続けた盟友は「申し分ない内容。これから2人で引っ張っていこう」と激励。これに谷口も「勝利の女神ならぬ、男の神様」と感謝した。

 「僕は(メインイベントの)井上君のおまけ」と控えめに話していたモンスターの“前座”が、存在感を十分に見せつけた。27歳の新王者は「来年は谷口の試合を見にこようと言われるボクサーになりたい」とさらなる成長を約束していた。

 ◇谷口 将隆(たにぐち・まさたか)1994年(平6)1月19日生まれ、神戸市出身の27歳。中1でボクシングを始め、神戸第一高ではインターハイ8強入り。龍谷大ではボクシング部主将を務め、国体で2度準優勝。アマ戦績は74戦55勝16KO19敗。16年4月プロデビュー。18年11月にWBOアジアパシフィック・ミニマム級王座、20年12月に日本同級王座を獲得。身長1メートル62、リーチ1メートル64の左ボクサーファイター。

PXB WORLD SPIRITS ~井上尚弥 WBA・IBF世界バンタム級タイトルマッチ~ 12.14

2021-12-06

井上尚弥の最も衝撃的な瞬間!

2021-07-06

井上尚弥ラスベガス防衛戦2 2021年6月20日

2021-06-30
【~WBA_IBF世界バンタム級タイトルマッチ:井上尚弥×マイケル_ダスマリナス~】



【 ボクシング編 】(アーカイブス)

「エディ・最後の挑戦~老トレーナーと19歳の世界チャンピオン~」

2022-01-31

日本で6人の世界チャンピオンを育てた名ボクシングトレーナー、エディ・タウンゼント。病魔と闘いながら19歳の若者に夢を託す、老トレーナーの最後の挑戦を追う。

エディ・タウンゼントは、1962年にハワイから来日して以来、四半世紀にわたってチャンピオンを世に送り出すことで、日本の少年たちに夢と勇気を与え続けてきた。彼が最後に育てたのは、19歳で世界チャンピオンとなった井岡弘樹。その初防衛戦に向けて、エディは大病を患いながら車いすで指導、試合の日は担架に乗って会場へ向かった。井岡は激闘の末、最終ラウンドで逆転勝利。最後まで情熱を燃やし続けるエディの姿を描く。

【出演】エディ・タウンゼント,井岡弘樹,藤猛,ガッツ石松,海老原博幸,友利正,柴田国明,田辺清,【語り】千田正穂

Facebook 井岡 弘樹さん曰く

Facebook 井岡 弘樹さん曰く


2月1日(火)午後6:10〜NHK BSで放送される井岡弘樹とエディタウンゼントトレーナーとの奇跡のドキュメンタリーの放送のお知らせです。
この感動的な
命懸けのストーリーを
是非多くの方に見ていただきたいので#拡散 宜しくお願い致します
放送日はエディさんの命日。大切な日を忘れない為、エディさんが亡くなった午前1時に妻と入籍しました。
また感想など聞かせていただけると嬉しいです


Facebook 井岡 弘樹さん曰く

ボクシング レジェンド王者伝説 畑山隆則 編【vs 坂本戦、鮮烈KO 6連発】

2021-07-06
■ 2000年10月11日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者 畑山隆則 vs 挑戦者 坂本博之 ■ 畑山隆則 強さの証明 KO 6連発!

大場政夫

2020-10-07
【 昭和の大ヒーロー ♪ 伝説のボクサー:大場政夫 大特集 ♪ 1998年放送 】
https://youtu.be/07POis-2g2k

1973年1月25日、3週間ほど前に逆転KOで5度目の防衛を果たしたばかりの大場は、首都高速5号線でカーブを曲がり切れずに中央分離帯を乗りこえ対向車のトラックと正面衝突。 愛車のシボレー・コルベットと共にチャンピオン・ベルトを巻いたままあの世へと旅立ちました。23歳でした。

永遠のチャンプ

2020-06-25
永遠のチャンプ・大場政夫。

私が最も敬愛するボクサーです。

1949年10月21日東京都足立区生まれ。

実父がギャンブル好きで、幼少期の暮らしは相当に貧しかったようです。

その実父がボクシングファンだった影響から、なんと小学校の入る頃には既に、将来は世界チャンピオンになり、両親に家を贈ろうと決めていました。

その後も決意はブレることなく、1965年の中学卒業と同時に帝拳ジムに入門、プロボクサーへの第一歩を踏み出すことに。

翌年には、渡辺和喜に1回KO勝ちでプロデビュー。

以降は、持ち前の負けん気と豊富な練習量で頭角を現し、次々と難敵を退けて世界ランキング上位へと駆け上がりました。

そして、プロ28戦(25勝2敗1分8KO)で、念願の世界タイトル初挑戦の切符を手中にします。

1970年10月22日、タイのベルクレック・チャルバンチャイを13回KOで倒し、WBA世界フライ級王座を獲得。

この時、大場は21歳。

プロキャリア4年で小学生の頃抱いていた夢を叶えました

その後、2年半足らずで王座を4度防衛。

そして1973年1月2日、WBA世界フライ級5度目の防衛戦を迎えます。

相手は「稲妻小僧」の異名を持つ元WBC世界フライ級チャンピオン、タイの英雄チャチャイ・チオノイ。

大場は1Rにチオノイの豪快な右フックを食いダウン。

その際に右足首を捻挫し、以降は足を引きずりながらのファイトを強いられます。

しかし、大場は驚異的な粘りで劣勢を挽回、8Rからは優勢に立ち、12Rを迎えます。

前半は打ちつ打たれつでしたが、中盤に機を見て大場が猛ラッシュ。

ロープ際で連打を浴びせられたチオノイは、遂に崩れ落ちます。

その後、チオノイは半ば戦意喪失状態になり、最後はレフェリーが試合を止め、大場は大逆転で5度目の防衛に成功しました。

1月2日のゴールデン枠に、人気ボクサーの世界戦生中継とあって、祖母の家に集まっていた親戚一堂はTVに釘付け。

終盤は皆が「大場〜っ!」と絶叫するほどの大熱戦でした

小学校3年生だった私も、感動で泣きそうになりました。

決して器用ではなく、打たれて強いわけでもなく、スピードもそれ程ではない……が、

猛練習で培った旺盛なスタミナと折れない心で、ただ愚直に左右のワンツーを繰り出す。

いつまでも、いつまでも、相手が倒れるまで繰り出す。

その闘志を前面に押し出したボクシングスタイルは、観る者の心まで奮い立たせる迫力がありました。

この試合の23日後、1973年1月25日。

大場は愛車シボレー・コルベット・スティングレーで首都高速5号池袋線を走行中、大曲カーブを曲がり切れず中央分離帯を乗り越え、反対車線に出たところを大型トラックと正面衝突。

現役世界チャンピオンのままこの世を去りました。

大場は3度目の防衛戦後に、それまでで得たファイトマネーで埼玉県に一戸建を新築購入し、両親に贈っています。

また、実弟の高校までの学費も全額支払い終えていました

中学卒業後、ボクシングに総てを賭けてきた大場が、4度目の防衛成功後に生涯で初めて自分自身へ贈ったご褒美が、当時日本に2台しかなかったシボレー・コルベット・ステイングレーでした。

大場政夫 
プロボクシング生涯戦績
38戦35勝16KO2敗1分
第25代WBA世界フライ級王座5度防衛

大場政夫  VS  チャチャイ・チオノイ (1973年)

2021-06-30
【昭和45年】大場政夫 vs.ベルクレック・チャルバンチャイ
1970年10月22日 WBA世界フライ級タイトルマッチ
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