ファイトの系譜
【 オールラウンド編 含TOKYO2020の記録】
巨人・原監督「僕はまだまだ新米」監督通算1181勝で星野仙一氏に並ぶ歴代10位も謙遜
「巨人4-2オリックス」(24日、東京ドーム)
巨人が競り勝ち、連敗を2で止めた。幸先良く交流戦初戦を白星で飾った。
原監督は監督通算1181勝目を挙げ、中日、阪神、楽天を率いた星野仙一氏に並ぶ歴代10位となった。
原監督は試合後、親交も深かった星野氏について「やっぱり尊敬する指導者であり、尊敬する先輩であり、尊敬する人間であったというところですね」と敬意。続けて、「(星野氏は)いろんな意味で、やっぱり年々変わっていかれたというかね、やっぱり一口でこうだったということは語れない。それくらい監督というお仕事、まあわたしは一年生のつもりでやっているんだけど、特に球団も3球団にわたってやられたということもあるしね」と、語った。
監督16年目、球界を代表する名将だが「もう1年目なのよ、自分はいつでも。振り返るにはまだ早いと思うしね」とし、「僕が今日並んだ、まあ、並ぶに値するものではないよ。僕はまだまだ新米で、道のりを含めて、僕はまだまだだと思います」と謙遜しながら先を見据えた。
この日、名将が手腕を発揮したのは2-2で迎えた八回。無死一、二塁の好機で、ウォーカーの打席で強攻策。左前適時打で決勝点を呼び込み、さらに岡本和の二ゴロの間に1点を追加した。指揮官は「非常に厳しいゲームではありましたが、それぞれがいい形でバトンを渡して、つないだというところですね」と評価した。
「どうした!?」「大丈夫?」力士が突然土俵に倒れ込み視聴者困惑
豊昇龍の負け方に視聴者からは「どうした!?」「大丈夫?」といった心配する声が寄せられていたが、ABEMAで解説を務めた花田氏は「霧馬山が抱え込んだ時点で、首がきまっちゃってるんです。関節技ですね。あまり呼吸をさせなかったので、最後、豊昇龍は苦しくなってしまって(倒れ込んだ)。なんといっても呼吸ができない状態ですからね」と状況を説明。これを受け、視聴者からは「解説わかりやすい」「お兄ちゃんの解説最高に良かった」といった声が続々と寄せられていた。 (ABEMA『大相撲チャンネル』)
こうした話が美談として語る必要のない“環境整備”が必要だ!!
昨夜閉幕した北京オリンピック。日本は金メダル3個、銀メダル6個、銅メダル9個と冬季オリンピック史上最多となる18個ものメダルを獲得した。2大会連続での記録更新となった。
ただ、夏のオリンピック競技に比べて、冬季競技は厳しい競技環境にある。用具や練習、遠征にかかる費用も高額だ。選手たちの活躍は、家族の支えがあってこそだった。日本女子史上最多となるメダル7個を獲得した高木美帆、その姉で今回、銀メダルを獲得した菜那の姉妹も例外ではない。平昌五輪の際、高木姉妹の家族たちのサポートを報じた記事を再公開する。(初出:週刊文春 2018年3月8日号 年齢・肩書き等は公開時のまま)
高木姉妹を支え続けた「両親の献身」
活躍は両親の献身なしには考えられないと、一家の知人は語る。
「父の愛徳(よしのり)さんは会社勤め、母の美佐子さんも美帆ちゃんが幼稚園の頃に新聞販売店の託児所に預けて、新聞配達を始めました。スーパーのレジ打ちと掛け持ちしている時期も長かった。お兄さんも含めて子ども三人がスケートをやっていましたから、走るように歩く、いつもそんな感じで忙しそうでした。でも笑顔を絶やさない素敵な人なんです」
子供たちも中学に上がると母の新聞配達を手伝った。
「早朝に新聞を配って、それからトレーニングを兼ねて高校まで自転車で通っていました。お正月はお父さんも一緒になって配っていましたよ」(近所の人)
妹の美帆は中学生でバンクーバー五輪出場を果たし、注目を集めたが、決して天狗になることはなかった。姉妹が小学生の頃から通った「高橋まんじゅう屋」の高橋美哉さんが語る。
「美帆ちゃんが高校三年生の夏休みですね。私が体調悪くしていたら、『三日間オフがあるから、何かお手伝いできることありますか?』って。お金ほしいとかそういうことじゃなくてね。働いていても、常に目が動いてて、他の人の動きを見て判断してる。美帆ちゃんの場合は一個言ったら十わかる。普通の子なら一カ月かかるような仕事を三日ですぐ覚えて。計算も一度も間違えなかった」
姉の菜那は高校卒業後、スピードスケートの名門・日本電産サンキョーに就職した。帰省した際、家族ぐるみで交流のあった「竹葉寿司」に一家で出かけた。
「もう胸いっぱいという感じで、お鮨も喉通らない(笑)」
「菜那ちゃんが食べる前に『今日は私が払うから』って言ったもんだから、お父さんはもう胸いっぱいという感じで、お鮨も喉通らないみたいだったね(笑)」(店主の杉山雪男さん)
姉妹がスケートを始めるきっかけを作った兄の大輔さんは語る。
「スケートってすごくお金かかる競技なので、両親は大変な思いをしたと思います。前々から両親にメダルをかけたい、いろんな方に恩返ししたいって言っていました」
娘たちの快挙達成を、母の美佐子さんは笑顔でこう振り返る。
「お金の苦労はですね、確かにありました(笑)。でもそれを苦労だと思ったことは、一度もないんです」
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2018年3月8日号)
NHK廣瀬アナ、大乃国推しだった「優しいお顔立ちが他の力士にはなく」
金メダルだけが柔道か 井上康生氏「ブランド価値を高めたい」
東京五輪で柔道日本男子監督を務めた井上康生氏が、柔道のブランド価値向上を目指した活動に着手している。昨年秋、全日本柔道連盟が新設した「ブランディング戦略推進特別委員会」で最高責任者のチーフストラテジーオフィサーに就任。産経新聞のインタビューにオンラインで応じ、柔道の間口を広げる取り組みの必要性を強調した。
「いつも頭を抱えながら、悩みながらいろいろと勉強させてもらっています」。オンライン取材の画面で笑顔を見せた井上氏はこう語った。東京五輪後、強化の最高峰に位置する日本男子監督を退任し、柔道の価値向上の最前線に立つ覚悟で新ポストに就いた。
「選択肢や価値観が多様化する現代社会において、柔道がどのような役割を担い、価値を提供できるのか。さまざまな意見を聞きながら社会貢献を目指していきたい」。井上氏は就任直後にこうコメントした。
井上氏に柔道界の現状を改めて聞くと、こんな答えが返ってきた。
「歴史的な背景でいえば、『一つの観点』にこだわりてすぎたために、(価値を)うまく引き出せなかった現状があるのではないかと感じるところがある。継承と同時に、時代の変化に合わせた新しい何かが付け加えられてくることが大事な要素だと思っている」
日本柔道は、五輪競技の中でも金メダル獲得への期待が高く、日本代表の選手たちは厳しい鍛錬を積んで期待に応えてきた。井上氏自身も2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、監督に就任した16年リオデジャネイロ五輪では全階級メダル、東京五輪は史上最多5階級での金メダル獲得に導いた。
五輪での頂点に立つための「強化」は、井上氏が「一つの観点」と評した部分に含まれる。日本柔道が五輪で金メダルを量産しても、競技人口は減少傾向にある。井上氏は「世界最高峰の戦いに勝つという期待に応えていくことはもちろん、大事なことです。しかし、誤解を恐れずに言えば、五輪の金メダルは『点』にすぎない」と語り、別の観点も、ブランド価値の向上には必要ではないかと投げかける。
その一つとして目を向けたのが、子供たちやシニア世代と柔道の「接点」の拡大だ。
「道場の畳はすごく安全で、子供たちが走り回ったり、転げ回ったりするにはすごく適している。公園でのキャッチボール禁止など、遊び場が制約されている子供たちに、遊びの部分を柔道に取り入れて子供らしく遊べる環境があってもいい」
シニアについても「高齢者が健康で長生きできるために運動する場としても、柔道が還元できるものはあると思っている」という。
「道場はどうしても、正座をして厳しい稽古を積む場という敷居の高さがネックになっているかもしれない。もちろん、伝統を重んじる厳しい道場や施設があってもいいですが、そうじゃない面もあっていいのかなと思う」と伝統を重んじつつ、間口を広げることで柔道に親しむ機会の拡大を見据える。
井上氏自身、幼少期にはソフトボールや水泳にも励んでいた。現在の日本男子を率いる鈴木桂治代表監督も柔道と同時にサッカーに熱中した時期がある。子供のときには柔道一本ではなく、「スポーツ界の横の連携があってもいい」と他の競技と並行して柔道にも打ち込める環境作りの重要性も訴える。
柔道の裾野は変革の時期に差し掛かっている。その一つが小学生の全国大会の廃止だ。
「勝負や戦いから学ぶことや、自分が成長できることはあります。ただ、例えば小学生の全国大会廃止には過度な減量や、審判や相手選手に対して激しいやじを飛ばしたりすることなどが背景にあり、柔道の魅力や価値が引き出されていない現状や、子供たちの成長における最適化がなされていないのではないかと危惧する現状があった」
海外の競技者育成指針などでは、子供の時代にはスポーツから楽しみや喜びを育む重要性が説かれているとし、「モチベーションは段階を踏んで自分自身が求めていく中で作り上げていけばよく、子供たちにはまず柔道の楽しさを感じ取ってもらうところからスタートしてほしい」と願う。
井上氏は現職に就き、全柔連加盟の団体の人たちと意見交換する中で、「たくさんの方々が全国で頑張っている」ことを改めて実感したという。「そのことに感銘し、今後も共に良きカルチャーを作っていくことが不可欠だと思う」。同時に活動を周知し、柔道のブランド価値を高めるためには、「発信力」という課題も痛感した。名実ともに柔道界で群を抜く存在の自身が「広告塔」になる覚悟で新ポストの責務を全うするつもりだ。(運動部 田中充)
【 オールラウンド編 】(アーカイブス)
ボストンマラソン
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原田と野村
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第18回オリンピック東京大会
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【 プロレス編】
ラテンの魔豹
【 ボクシング編 】
伝説は、ここから始まった・・・。
2団体王者井上尚が防衛 谷口はミニマム級新王座に
ボクシングのダブル世界タイトルマッチ各12回戦は14日、東京・両国国技館で行われ、世界ボクシング協会(WBA)、国際ボクシング連盟(IBF)バンタム級チャンピオンの井上尚弥(大橋)がIBF5位のアラン・ディパエン(タイ)と対戦し、8回TKO勝ちした。2年ぶりの国内試合でスーパー王座のWBAは6度目、IBFは4度目の防衛となった。
世界ボクシング機構(WBO)ミニマム級1位の谷口将隆(ワタナベ)は王者ウィルフレド・メンデス(プエルトリコ)に11回TKO勝ちし、新王者になった。谷口は2度目の世界挑戦だった。
◇WBO世界ミニマム級タイトルマッチ12回戦 〇谷口将隆 TKO11回1分8秒 ●ウィルフレド・メンデス(2021年12月14日 両国国技館)
WBO世界ミニマム級タイトル戦は同級1位の谷口将隆が王者のウィルフレド・メンデスを11回1分8秒TKOで破り、王座奪取に成功した。
「まだ夢見心地ですね。2年前の自分よりずっと強くなったと、ようやく自信が持てた」。会心のTKO勝ちが信じられないかのように、ベルトを巻いた谷口が興奮気味につぶやいた。
「挑戦者らしく」がテーマ。それを貫いた。判定で敗れた19年2月の初の世界挑戦。気負って力を発揮できなかった反省が原点にあった。いかにして相手の中に入って接近戦に持ち込むか――。インサイドワークという王者の持ち味を消す作戦を徹底的に練った陣営の執念が実った。序盤から決して下がらず前に前にと圧力をかけ、2回に左フックでダウンを奪うと、中盤以降も果敢に前へ出る。11回。左の振り下ろしで相手の動きを止め、コーナーに追い詰めて畳みかけるとレフェリーが試合を止めた。
同じジムには同学年のWBA世界ライトフライ級スーパー王者、京口紘人がいる。アマチュア時代からのライバルに先を越されたが、ようやく同じ「世界」の称号を手にした。青コーナーで励まし続けた盟友は「申し分ない内容。これから2人で引っ張っていこう」と激励。これに谷口も「勝利の女神ならぬ、男の神様」と感謝した。
「僕は(メインイベントの)井上君のおまけ」と控えめに話していたモンスターの“前座”が、存在感を十分に見せつけた。27歳の新王者は「来年は谷口の試合を見にこようと言われるボクサーになりたい」とさらなる成長を約束していた。
◇谷口 将隆(たにぐち・まさたか)1994年(平6)1月19日生まれ、神戸市出身の27歳。中1でボクシングを始め、神戸第一高ではインターハイ8強入り。龍谷大ではボクシング部主将を務め、国体で2度準優勝。アマ戦績は74戦55勝16KO19敗。16年4月プロデビュー。18年11月にWBOアジアパシフィック・ミニマム級王座、20年12月に日本同級王座を獲得。身長1メートル62、リーチ1メートル64の左ボクサーファイター。
【 ボクシング編 】(アーカイブス)
「エディ・最後の挑戦~老トレーナーと19歳の世界チャンピオン~」
日本で6人の世界チャンピオンを育てた名ボクシングトレーナー、エディ・タウンゼント。病魔と闘いながら19歳の若者に夢を託す、老トレーナーの最後の挑戦を追う。
エディ・タウンゼントは、1962年にハワイから来日して以来、四半世紀にわたってチャンピオンを世に送り出すことで、日本の少年たちに夢と勇気を与え続けてきた。彼が最後に育てたのは、19歳で世界チャンピオンとなった井岡弘樹。その初防衛戦に向けて、エディは大病を患いながら車いすで指導、試合の日は担架に乗って会場へ向かった。井岡は激闘の末、最終ラウンドで逆転勝利。最後まで情熱を燃やし続けるエディの姿を描く。
【出演】エディ・タウンゼント,井岡弘樹,藤猛,ガッツ石松,海老原博幸,友利正,柴田国明,田辺清,【語り】千田正穂
Facebook 井岡 弘樹さん曰く
ボクシング レジェンド王者伝説 畑山隆則 編【vs 坂本戦、鮮烈KO 6連発】
大場政夫
1973年1月25日、3週間ほど前に逆転KOで5度目の防衛を果たしたばかりの大場は、首都高速5号線でカーブを曲がり切れずに中央分離帯を乗りこえ対向車のトラックと正面衝突。 愛車のシボレー・コルベットと共にチャンピオン・ベルトを巻いたままあの世へと旅立ちました。23歳でした。
永遠のチャンプ
私が最も敬愛するボクサーです。
1949年10月21日東京都足立区生まれ。
実父がギャンブル好きで、幼少期の暮らしは相当に貧しか
その実父がボクシングファンだった影響から、なんと小学
その後も決意はブレることなく、1965年の中学卒業と
翌年には、渡辺和喜に1回KO勝ちでプロデビュー。
以降は、持ち前の負けん気と豊富な練習量で頭角を現し、
そして、プロ28戦(25勝2敗1分8KO)で、念願の
1970年10月22日、タイのベルクレック・チャルバ
この時、大場は21歳。
プロキャリア4年で小学生の頃抱いていた夢を叶えました
その後、2年半足らずで王座を4度防衛。
そして1973年1月2日、WBA世界フライ級5度目の
相手は「稲妻小僧」の異名を持つ元WBC世界フライ級チ
大場は1Rにチオノイの豪快な右フックを食いダウン。
その際に右足首を捻挫し、以降は足を引きずりながらのフ
しかし、大場は驚異的な粘りで劣勢を挽回、8Rからは優
前半は打ちつ打たれつでしたが、中盤に機を見て大場が猛
ロープ際で連打を浴びせられたチオノイは、遂に崩れ落ち
その後、チオノイは半ば戦意喪失状態になり、最後はレフ
1月2日のゴールデン枠に、人気ボクサーの世界戦生中継
終盤は皆が「大場〜っ!」と絶叫するほどの大熱戦でした
小学校3年生だった私も、感動で泣きそうになりました。
決して器用ではなく、打たれて強いわけでもなく、スピー
猛練習で培った旺盛なスタミナと折れない心で、ただ愚直
いつまでも、いつまでも、相手が倒れるまで繰り出す。
その闘志を前面に押し出したボクシングスタイルは、観る
この試合の23日後、1973年1月25日。
大場は愛車シボレー・コルベット・スティングレーで首都
現役世界チャンピオンのままこの世を去りました。
大場は3度目の防衛戦後に、それまでで得たファイトマネ
また、実弟の高校までの学費も全額支払い終えていました
中学卒業後、ボクシングに総てを賭けてきた大場が、4度
大場政夫
プロボクシング生涯戦績
38戦35勝16KO2敗1分
第25代WBA世界フライ級王座5度防衛