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G馬場のプロレス

【 プロレス編】

ファイトの足跡

2020-09-07
私は、プロレスといえばG馬場命です。
NWA インターナショナル選手権ベルト
BI砲、インターナショナルタッグ選手権王者の時代
力道ゆかりのインターナショナルヘビー級ベルトは馬場へ受け継がれPWF世界ヘビー級ベルトとして復活した。
テーズのNWAインターナショナルチャンピオンベルトです。
二代目のインターベルトです。
昭和47年、馬場さんが全日本プロレスを設立するにあたり、百田家から力道山ゆかりのインターナショナルヘビー級ベルトの寄贈を受けました。
初代PWFチュンピオンベルトは力道山のベルト
力道山のベルト自体はその後のPWF世界ヘビー級ベルトを作るにあたり、そのデザインの原型となり、間もなくして使われなくなりました。
二代目のPWFベルトを巻いたG馬場
テーズのベルト
そこで、このテーズ・ベルトの豆知識をいくつか…
◆ 製作されたのは1921年9月、
 セントルイスの有名な錬金師、ジョー・サンダースン氏の手によって。
◆ 最初に腰に巻いたのはエド・ルイス。
    同年12.13ニューヨークのMSGで、ジョー・ステッカーとの選手権試合に勝利して。
 2010.8.7 KINGさんのコメントより追記
 エド・ルイスが巻いたベルトは、テーズとは違うベルト。日付は1920年12月13日。
◆ ルー・テーズが初めて腰に巻いたのは1937年12.29セントルイスでエベレット・マーシャルを破って。
 当時21歳の世界王者史上最年少である。
◆ 日本プロレス界の父、力道山はこのベルトをこよなく愛し、
    自身が1962年3月に渡米し、フレッド・ブラッシーから WWA王座を奪取して凱旋する際、
    テーズにこのベルトを借りて帰国記者会見で披露した。
    当時、WWAはベルトではなくトロフィーを象徴としていたからである。
2010.8.7 KINGさんのコメントより追記
 WWAに関しても、
   力道山以前の選手権者『フレッド・ブラッシー』『エドワード・カーペンティア』も同じタイプのベルトを使用。
   力道山以降の選手権者『ザ・デストロイヤー』も同タイプをしている画像がある。
   よって、WWA(NAWA)も、同タイプのベルトを初期の頃から使用していたのではないかという説もある。
◆ 力道山はテーズに返却するまでの1ヶ月の間に同じデザインのコピーを製作し、
    自身の代名詞ともいえるインターナショナル選手権のベルトとして使用した。
◆ 力道山の死後、コピーベルトは百田家預かりとなっていたが、ジャイアント馬場の全日設立に際し、
    PWF世界ヘビーとして復活。
    1973年2.27にボボ・ブラジルを破って王座に就いてから1年間、馬場の腰に巻 かれた。
◆ しかしコピーベルトは馬場には小さすぎたため、
    1974年春に同じデザインのひとまわり大きなベルトとしてリニューアル。
世界の天辺、NWA世界チャンピオンのベルト
初戴冠はジャック・ブリスコのベルト、鹿児島のリングでした。
二度目の戴冠は、ハリー・レイスのベルトでした。
アメリカで誕生し、日本へ輸出されたUNヘビー級王座ベルトは、日本でインター・PWFと肩を並べるベルトへと成長していった。
UN選手権の歩み
全日本プロレスが旧日本プロレスから管理権を取得、1976年8月26日、日大講堂でジャンボ鶴田とブリスコの間で王座決定戦が行われ、鶴田が勝利を収めて王座を奪取、鶴田用のベルトとしてPWFヘビー級王座に次ぐNo.2のベルトとして全日本に定着した。
馬場が一線から退いた後、インター王座はジャンボ鶴田、PWF王座はスタン・ハンセン、UN王座は天龍源一郎がそれぞれ巻いていた。
インター王座、PWF王座、UN王座を統一したジャンボ鶴田の三冠ベルトです。

日本プロレスの時代、あの時、君達は熱くて強かった!

2020-10-15
(前列)吉村道明 アントニオ猪木 ジャイアント馬場 大木金太郎 (後列) 山本小鉄 星野勘太郎 上田馬之助 坂口征二 グレート小鹿 ミツ・ヒライ
【プロレス入場曲 AJPW Entrance Themes】Giant Baba/NTV Sports Theme
ジャイアント馬場 王者の魂.
この画像のように、ルーテーズの必殺のバックドロップで投げられても、手を大きく広げて柔軟に受け身をとっています。このカットは馬場自身かなりのお気に入りだったようで、テーズのバックドロップを受け切ったとして、生涯誇りとしていたようです。
この試合は1964年にニューヨークで行われた馬場対ハンスシュミットの試合。
2度目の海外修行に出た26歳の馬場。
この試合は1964年にニューヨークで行われた馬場対ハンスシュミットの試合。2度目の海外修行に出た26歳の馬場。試合自体はいかにもアメリカンスタイルの、オールドスクールな内容なんですが、特筆すべきは馬場の身体つき。
リングアナウンサーが311lb(約141kg)とコールしていますね。馬場の自著においても当時は150kg近くあったと書かれているので、おそらく実測で140kg以上あったのでは無いかと想像出来ます。個人的にはこの時代が馬場のピークだと思っています。

翌1965年にインターナショナルチャンピオンとなる馬場ですが、その頃から身体つきが急激に細くなります。一説では、32文ロケット砲をマスターしたため、着地時の膝の負担を軽減させるために意図的に体重を落としたと言われています。

それにしても、この動画時代はまさにマッスル馬場と呼んでもおかしくないような肉体美ですね。この頃の馬場なら、ブルーザーブロディやスタンハンセンとマトモにぶつかってもパワーで圧倒出来たのではないかと想像するだけでワクワクしますね

「猪木のいない1年間」

2023-10-10
アントニオ猪木は“永遠の旅人”なのかもしれない。1990年3月、セスナ機でブラジル・アマゾンの奥地に降り立った猪木

2022年10月1日にアントニオ猪木がこの世を去って、1年が経った。燃える闘魂に魅せられた人々は、「猪木のいない時間」をどう生きてきたのか。半世紀にわたって猪木を撮り続けたカメラマンの原悦生氏が、“猪木がつないだ縁”や在りし日の旅の思い出を綴った。

燃える闘魂 アントニオ猪木

2023-05-31
燃える闘魂 アントニオ猪木 追悼VTR
プロレスの神様と燃える闘魂共同トレーニング。| Karl Gotch and Antonio Inoki Workout Together

A猪木死す!!

2022-10-02
 【朝日新聞】
◆ (現場へ!)拉致、北朝鮮と向き合う:1 力道山の叫び、直接届ける
2022/9/12 
 プロレスラーのアントニオ猪木(猪木寛至)氏(79)が初めて北朝鮮を訪れたのは参院議員だった1994年9月。きっかけは人生の師と仰ぐプロレスラー、力道山だった。
     *
 猪木氏は1943年、横浜生まれ。中学時代の57年、一家でブラジルに移住した。力道山にスカウトされて60年に帰国し、プロレス界に入った。しかし63年12月、力道山は東京で暴力団関係者に刺され39歳で早世する。猪木氏は90年代に新聞記事で、力道山が朝鮮半島北部で生まれ、娘が北朝鮮にいると知った。
 力道山の民族名は金信洛(キムシルラク)。大相撲にスカウトされ「長崎生まれの百田光浩(ももたみつひろ)」と名乗った。63年1月、韓国を内々に訪問。北朝鮮との軍事境界線がある板門店で上半身裸になり、故郷の北に向かって「お母さん」「兄さん」と叫んだという。
 猪木氏は61年、付き人として力道山の新潟訪問に同行し、1 日休みをもらったことがある。師匠はゴルフでもしたのだろうと思い込んでいた。実際は、力道山が北朝鮮からの船で来日中の長女•金英淑(キムヨンスク)氏と新潟港で会っていたことを、後に知った。
 猪木氏は、師匠の代わりに訪朝したいと考えた。「師匠の故郷への無念の思いと叫び声を届けるのが、恩返しになる」
 94年7月に平壌への訪問を計画したが、北京空港で金日成(キムイルソン)主席の急死を知らされ、中止に。9月に改めて訪朝すると、空港に金英淑氏が迎えに来ていた。
 平壌で金容淳(キムヨンスン)・朝鮮労働党書記に「プロレスを見たことがありますか」と切り出した。「ない」と答えたので「では本物を見せましょう」。95年5月、平壌で体育文化祭典を開き、プロレスの試合を実演。2日間で38万人が集まった。2018年9月まで計33回訪朝した。
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