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G馬場のプロレス

【 プロレス編】

昭和49年(1974年)12月2日鹿児島県立体育館

2024-12-16
★ジャイアント馬場 1週間天下
facebook 今日は何の日&プロレススーパースター激烈伝さん曰く


昭和49年(1974年)12月2日鹿児島県立体育館で、ジャイアント馬場が、ジャック・ブリスコを破り、日本人初の第49代NWA世界ヘビー級王者となる。

★ジャイアント馬場 1週間天下
1974年12月2日、鹿児島でジャイアント馬場がジャック・ブリスコを破り、日本人で初めてNWA世界ヘビー級王座を奪取!
試合後、馬場は「とにかくプロレスラーになって14年、本当にこのタイトルを取る事だけが夢だったんですよ。世界のトップランクと人にいわれるようになってからは、とりわけこのタイトルを意識してきた。それだけに嬉しいというより、本当に俺はチャンピオンになったのかなという、ほっぺたをつねってみたいような不思議な気持ち、喜びが大きすぎるのでこんな気持ちなのかもしれませんね。一晩眠ったら本当にうれしさがわいてくるかもしれない。」とアメリカ武者修行時代からの念願だったNWA世界王座を奪取したことで喜びを露わにした…、
が、しかし、その1週間後に、ブリスコにタイトルを取り返されてしまいます。
余談ですが、馬場さんが着けると、チャンピオンベルトが小さく見えますね。

★ジャイアント馬場 対 ブルーノ・サンマルチノ

2024-12-16
facebook 高城 恒勝さん曰く
1968年 8月7日 大阪市 大阪球場
・インターナショナル選手権(60分3本勝負)
ジャイアント馬場(2-1)ブルーノ・サンマルチノ
『ブルーノ・サンマルチノが馬場の持つインターナショナルヘビー級のベルトに挑戦。
1年5か月ぶりに来日を果たしたサンマルチノは8月2日仙台でノンタイトルで馬場との前哨戦を行うものの両者リングアウトに終わり決着はつかなかった。
そして、迎えたタイトルマッチはまずサンマルチノが馬場の巨体を持ち上げカナディアンバックブリーカーで先制。
サンマルチノはこの日のために必殺技のカナディアンバックブリーカーをシリーズ中も封印していたのが功を制したのでした。
後がない馬場は2本目に入ると序盤から飛ばしていき、こちらも必殺の32文ドロップキックでタイに戻した。
最終の3本目は入ると、戦場は場外へと移り、誰もが両者リングアウト決着かと思ったものの、冷静にレフリーのカウントを聞いていた馬場が残り2秒でリング内に滑り込みリングアウトで王座を防衛したのでした。』
同時、漫画のタイガーマスクが大好きだった小学1年生の私は、テレビでこの試合を見ていて、サンマルチノが、馬場の巨体を担ぎ上げた豪快なカナディアンバックブリーカーに驚きました。

★ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ

2024-12-16
facebook 高城 恒勝さん曰く
カール・ゴッチはルー・テーズの保持する、NWA世界ヘビー級タイトルに9回挑戦してゴッチは1度も勝てず、テーズの5勝4分という成績でした。残念ながら、ゴッチがテーズに勝利した記録はありませんがゴッチはテーズにとっては最強の敵だったと思います。ノンタイトル戦ではテーズとゴッチは7戦して全て引き分けという結果でした。デトロイトの試合ではゴッチはテーズの肋骨を3本折って、テーズを病院送りにしています。テーズは10日間の入院、1ヵ月半の欠場をさせられています。フロリダ州タンパの試合ではテーズの顔面を流血させています。これ以外、テーズの流血試合はなかったと思います。テーズはゴッチさえいなければ 私の王座はあと2年は長持ちしていた、本当に恐ろしい男だったよと語っていました。ノンタイトルマッチでは1964年7月10日 アメリカ・サンフランシスコ・カウパレスの試合では1本目、テーズがバックドロップでフォール勝ち。2本目、ゴッチがジャーマン スープレックスでフォール勝ち。3本目は時間切れ引き分けという名勝負でした。テーズVSゴッチは1963年9月から1964年まで9回対戦しています。全てNWA世界ヘビー級選手権試合です。ちなみに1964年9月7日オハイオ州コロンバスで行われたNWA世界ヘビー級とオハイオ地区認定AWA世界ヘビー級のダブルタイトルマッチでテーズがゴッチを破り、オハイオ版AWA世界ヘビー級王者になっています。1962年9月にオハイオ州コロンバスでゴッチはドン・レオ・ジョナサンを破り、オハイオ版AWA世界ヘビー級王者になりましたが、その後、ゴッチの強さを恐れて誰も挑戦者が現れず、半年後に王座を返上して実力世界一と豪語した、世界マットに敵なしという本当に強いレスラーでした。それから、ルー・テーズのNWA世界タイトルに挑戦しました。1963年9月オハイオ州コロンバスでゴッチのオハイオ版AWAとテーズのNWA世界ヘビー級のダブルタイトルマッチで初対決してゴッチの反則負けでテーズとゴッチがそれぞれ、タイトルを防衛した試合もありました。
1963年9月2日【コロンバス】○ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ● 
1963年9月21日【コロンバス】△ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ△ 
1963年12月27日【セントルイス】○ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ● 
1964年1月18日【コロンバス】△ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ△ 
1964年4月18日【シンシナチ】△ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ△ 
1964年5月2日【デトロイト】○ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ● 
1964年8月18日【タンパ】○ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ● 
1964年9月7日【コロンバス】○ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ● 
1964年11月23日【バンクーバー】△ルー・テーズ 対 カール・ゴッチ△ 
通算成績は、テーズ側から見て9戦5勝4分ということになります。 ちなみにテーズは1966年1月7日アメリカ・セントルイスでジン・キニスキーに敗れてNWA世界王座を奪取されます。 1本目はテーズのフォール勝ち。2本目はキニスキーの反則勝ち。3本目はキニスキーのリングアウト勝ち。2-1でキニスキーが、テーズを破り、第45代目のNWA世界ヘビー級チャンピオンに認定されます。あのゴッチも勝てなかった、テーズを破った、キニスキーは大殊勲です。全盛時にはテーズは936連勝という前人未踏の大記録を打ち立てています。1966年10月14日ロサンゼルスでテーズはバディ・オースチンを破り、50歳にしてWWA世界ヘビー級王者にもなっています。 
◆ルー・テーズのライバル達 
テーズに “あなたの王座期間に挑戦してきたレスラーのベスト5を挙げて下さい” という質問をすると必ず返って来るのが、順不同で、ディック・ハットン、ジョージ・ゴーディエンコ、力道山、ダニー・ホッジ、カール・ゴッチの5人。それぞれのレスラーについて、テーズは次のように言っている。 
「ハットン 寝技だけを取れば、古今東西ハットンに敵うレスラーはいない。無論、私も含めてだ。  ゴーディエンコ 全身のパワーがとてつもなく凄いレスラー。そしてゴーディエンコほどスタミナのあったやつはいない。どんな攻撃を仕掛けてもパワーでクリアされてしまう気がしたよ。  力道山 私のキャリアの中で、これほど短期間に、しかし壮絶にライバル関係にいられたのは力道山を置いて他にいなかった。とにかくキル・インスティンクト(殺意)に満ちたレスラーだった。  ホッジ 試合中に殴り合いになれば誰にも負けない自信があったんだが、ホッジと殴り合いをするのは愚の骨頂だったよ。モハメド・アリは実際はハード・パンチャーではなかったよ。ホッジのパンチの方がはるかに強烈だったよ。  ゴッチ ゴッチさえいなかったら、私の王座はあと二年は長持ちしていた。本当に恐ろしい男だったよ。グレコローマンの技術と関節技の技術では、ゴッチは完全に私を上回っていた。」
1966年7月11日ノースカロライナ州でカール・ゴッチがジン・キニスキーに反則勝ちしてゴッチが勝利した試合もありました。

【プロレスの昭和史】

2024-10-25
昭和52年のプロレス【プロレスの昭和史】
昭和45年・1970年のプロレス【プロレスの昭和史】 伊東彩のほんのり昭和回顧 チャンネル登録者数 7.99万人 チャンネル登録 331
昭和38年・1963年のプロレス【プロレスの昭和史】

レフェリーストップで両者痛み分け

2024-11-10
facebook 島本文美さん曰く
昭和38年5月24日、東京体育館で行われた日本プロレスのタイトルマッチ「WWAヘビー級王者戦、ザ・デストロイヤー対力道山」戦でデストロイヤーの必殺技「足4の字固め」が力道山に見事に決まったシーン。
リング上に忍び込んだスポーツ紙のカメラマンが「足4の字固め」の痛さと凄みを捉えた最高傑作のシーンで、翌日掲載された新聞を参考に学校では「足4の字固め」の実演や技の研究が行われたとか…。
なお、この試合は力道山が逆4の字固めで逆襲するなど手に汗握る激戦でレフェリーが「選手生命に関わる」とレフェリーストップで両者痛み分けとなった。
その時のテレビ放送の視聴率は64%を数え、60年以上経った現在でも五本の指に入るほどの高視聴率の記録でもあります。
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