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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

総序之文

2022-01-17

ものを言わなかったら

2022-05-27

Yasuda Rizinさん曰く


1372
前に、明晰かつ判明ということを言ったでしょう。
ギリシャの文化というか、あるいはインドの文化というか。
つまりもっと言えばアーリアの文化です。
アーリア人の伝統でしょう。
明晰にしてかつ判明ということを要求する。
暗示的なことは要求しないのです。
だからあちらではものを言わなかったら
意見が無いということになるのです。

「前念命終、後念即生」に通じる言葉ですね

2022-05-24

田畑 正久さん曰く


「死ぬ前から死んでいる人は、死ぬ時には死なないという教えが西洋にはあるが、鈴木大拙先生はまさにそのようなお方でした。」(鈴木大拙の葬儀の時のスウエ―デン駐日大使の言葉)
浄土真宗の「前念命終、後念即生」に通じる言葉ですね

真理に触れて闇が去るのです。

2022-05-22

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1367
闇を払ってそれから真理に触れるのではないのです。
真理に触れて闇が去るのです。
闇を払うというと、力を入れて闇を抑えなければならないでしょう。
力を入れなければならないのは、闇に力があると思っているからではないかね。
本当に力があるものは妄想ではない。
真理ではないかね。
それが妄想なら、真理にあえば、満足して消えるはずでしょう。

見ということ

2022-05-18

Facebook Yasuda Rizinさん曰く

 

1363

それまでは真理は見ないけれども真理を想うのです。
けれど真理は、想われた真理ではない。
真理そのものというときに「見」という字が使われる。
つまり、見、現です。
真理そのものです。
われわれが考えた真理ではない。
われわれ人間に出来るのは、考えた真理です。
つまりれは心に思いを浮かべた真理です。
それは『観無量寿経』の「観想」でしょう。

仰せを蒙りて【音声・映像データ編】

【大谷大学として在る、意味。】~第28代木越康学長×第29代一楽真学長 対談動画

2022-03-18
【お知らせ/学長対談】 4/1から大谷大学第29代学長に就任される一楽理事長と現学長の木越教授との対談動画がアップされています。
Facebook大谷大学同窓会 【お知らせ/学長対談】

大谷大学が掲げるメッセージ「Be Real―寄りそう知性―」。
 大谷大学の人間教育の基盤は、誰もが当たり前だと考えている物事を、今一度見つめ直し、問い直すこと。
 初代学長 清沢満之が開学して以来、120年以上にわたり、かわらず受け継がれている建学の精神、大谷大学としての在り方について、第28代学長木越康と第29代学長一楽真が語る。

東本願寺真宗会館【公式】お坊さんの法話

2022-03-19
お坊さんの法話2021年10月28日「まことのいちねん おこれるそのとき」①

お坊さんの法話2022年2月6日「何しに来た」―『歎異抄』第二条

お坊さんの法話2021年9月28日「親鸞からの風に吹かれて」

お坊さんの法話2021年12月28日「親鸞からの風に吹かれて」


お坊さんの法話2022年5月28日「親鸞からの風に吹かれて」

池田勇諦(36分)「仏法は何を言おうとしているのか?」

2022-03-19
2022/1/9 西恩寺門徒会 新年「総会」法話 池田勇諦(36分)
「〈他力〉は外力にあらず。この世に〈自力〉はあらず。」
 『塵劫記』1627年に吉田光由が執筆した。
 法話中に出ます数の単位が抜けていましたので。 
一 いち 10/ 0 十 じゅう 10 /1乗 千 せん 10/ 3 乗 万 まん 10/ 4 乗(萬) 億 おく 10/8 乗 兆 ちょう 
10 /12乗 京 けい 10 /16乗 「きょう」 とも読む。 
垓 がい 10 /20 乗 杼  じょ 10 /24乗  正しい漢字は、(禾+予)。 
(禾+市) と書いて、「し」 ともいう。
 穣 じょう 10 /28 乗 溝 こう 10 /32 乗 澗 (潤) かん 10 /36 乗 正 せい 10 /40 乗 載 さい 
10 /44 乗 極 ごく10 /48 乗 恒河沙 こうがしゃ(ごうがしゃ)10 /52乗 恒河 ( ガンジス川 )の無数の砂。
 阿僧祇 あそうぎ 10 /56乗 数えられないこと。 
那由他 なゆた 10/ 60乗「那由多」 とも書く。
 不可思議 ふかしぎ 10 /64乗 常識では理解できない不思議なこと。
 無量大数 むりょうたいすう 10 /68乗

2022年新年の法要[修正会]/法話:自己という名の原始林を拓く

2022-03-19
【いま、あなたに届けたい法話】不安と安心(名和達宣氏)

金沢別院テレホン法話【星川 了 氏】2021年12月15日配信

2021-12-15
ともしび~ 星川 了 氏 12月15日~
金沢別院テレホン法話【星川 了 氏】2021年12月15日配信
ともしび~ 星川 了  氏 12月15日~
1月15日配信 金沢別院ではテレホン法話を行っております。
【電話番号】076-261-4001で、約3分間の法話が聞けます。
 御俗姓 
 それ、祖師聖人の俗姓をいえば、藤氏として、後長岡丞相 内麿公 の末孫 皇太后宮大進有範の子なり。また本地をたずぬれば、弥陀如来の化身と号し、あるいは曇鸞大師の再誕ともいえり。しかればすなわち、生年九歳の春の比、慈鎮和尚の門人につらなり、出家得度して、其の名を範宴少納言の公と号す。それよりこのかた、楞厳横川の末流をつたえ、天台宗の碩学となりたまいぬ。其の後二十九歳にして、はじめて源空聖人の禅室にまいり、上足の弟子となり、真宗一流をくみ、専修専念の義をたて、すみやかに凡夫直入の真心をあらわし、在家止住の愚人をおしえて、報土往生をすすめましましけり。  そもそも、今月二十八日は、祖師聖人遷化の御正忌として、毎年をいわず、親疎をきらわず、古今の行者、この御正忌を存知せざる輩あるべからず。茲によりて、当流にその名をかけ、その信心を獲得したらん行者、この御正忌をもって、報謝の志をはこばざらん行者においては、誠にもって、木石にひとしからんものなり。しかるあいだ、かの御恩徳のふかきことは、迷慮八万の頂、蒼瞑三千の底にこえすぎたり。報ぜずはあるべからず、謝せずはあるべからざる者か。此の故に、毎年の例時として、一七か日のあいだ、形のごとく報恩謝徳のために、 無二の勤行をいたすところなり。 此の七か日報恩講の砌にあたりて、門葉のたぐい国郡より来集、いまにおいて其の退転なし。しかりといえども、未安心の行者にいたりては、争でか報恩謝徳の義これあらんや。しかのごときのともがらは、この砌において仏法の信・不信をあいたずね、これを聴聞して、まことの信心を決定すべくんば、真実真実、聖人報謝の懇志に相叶うべき者なり。哀なるかな、それ聖人の御往生は、年忌とおくへだたりて、すでに一百余歳の星霜を送るといえども、御遺訓ますますさかんにして、教行信証の名義、いまに眼前にさえぎり、人口にのこれり。貴とむべし、信ずべし。これについて、当時真宗の行者のなかにおいて、真実信心を獲得せしむる人、これすくなし。ただ、人目・仁義ばかりに、名聞のこころをもって報謝と号せば、いかなる志をいたすというとも、一念帰命の真実の信心を決定せざらん人々は、その所詮あるべからず。誠に、水に入りて垢おちずといえるたぐいなるべきか。これによりて、此の一七か日報恩講中において、他力本願のことわりをねんごろにききひらきて、専修一向の念仏行者にならんにいたりては、まことに、今月聖人の御正日の素意に相叶うべし。これしかしながら、真実真実、報恩謝徳の御仏事となりぬべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 于也、文明九 十一月初比、俄為報恩謝徳染翰記之者也 

御文 第二帖 一通  (お浚えの御文)  そもそも、今度一七か日報恩講のあいだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定し給えるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。 さりながら、そのままうちすて候えば、信心もうせ候うべし。 細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせといえる事ありげに候う。  (信心が決定したと思っても、そのまま放置すれば失せてしまう。   再々信心の溝をさらえて、弥陀の法水を流しなさい。) それについて、女人の身は、十方三世の諸仏にもすてられたる身にて候うを、阿弥陀如来なればこそ、かたじけなくもたすけましまし候え。そのゆえは、女人の身は、いかに真実心になりたりというとも、うたがいの心はふかくして、また物なんどのいまわしくおもう心は、さらにうせがたくおぼえ候う。ことに在家の身は、世路につけ、また子孫なんどの事によそえても、ただ今生にのみふけりて、これほどに、はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三塗八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、いたずらにあかしくらすは、これつねの人のならいなり。あさましというもおろかなり。これによりて、一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心をすて、また諸神諸仏に追従もうす心をもみなうちすてて、さて弥陀如来と申すは、かかる我らごときのあさましき女人のためにおこし給える本願なれば、まことに仏智の不思議と信じて、我が身はわろきいたずらものなりとおもいつめて、ふかく如来に帰入する心をもつべし。さてこの信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもうべし。かようにこころうるを、すなわち他力の信心をえたる人とはいうなり。またこのくらいを、あるいは正定聚に住すとも、滅度にいたるとも、等正覚にいたるとも、弥勒にひとしとも申すなり。またこれを、一念発起の往生さだまりたる人とも申すなり。かくのごとく心えてのうえの称名念仏は、弥陀如来の我らが往生をやすくさだめ給える、その御うれしさの御恩を、報じたてまつる念仏なりと、こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。  これについて、まず当流のおきてをよくよくまもらせ給うべし。そのいわれは、あいかまえていまのごとく信心のとおりを心え給わば、身中にふかくおさめおきて、他宗他人に対してそのふるまいをみせずして、また信心のようをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。かくのごとく、信心のかたもそのふるまいもよき人をば、聖人も、よく心えたる信心の行者なりとおおせられたり。ただふかくこころをば仏法にとどむべきなり。あなかしこ、あなかしこ。 文明第五、十二月八日、これをかきて当山の多屋内方へまいらせ候う。このほかなおなお不審の事候わば、かさねてとわせたまうべく候う。 所送寒暑 五十八歳御判 のちの代の しるしのために かきおきし のりのことの葉 かたみともなれ

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仰せを蒙りて【アーカイブス 音声・映像データ編】

帰依三宝

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
「全戦没者追弔法会2021」で焼香される修如上人

報恩ということ

2020-11-15

昭和20年失明後の最晩年のお顔

2022-05-22

Facebook 百々海 真さん曰く


暁烏敏師 明治10年〜昭和29年8月27日西帰 
岩瀬暁燈師撮影 児玉暁洋師所蔵 
池田勇諦師講述「私にとって暁烏敏とは」に口絵写真として所収 

昭和20年失明後の最晩年のお顔だが、もはや言葉は要らない 南無阿弥陀仏

2022年度春季企画展 大谷大学のあゆみ 清沢満之と真宗大学

2022-04-13

Facebook 大谷大学さん曰く


【イベント】
#大谷大学博物館
2022年度春季企画展
大谷大学のあゆみ 清沢満之と真宗大学

会 期:4月1日(金)~ 5月14日(土)
観覧料:無料

ご来館にあたってのお願い
「入構セルフシート」を事前に
印刷・ご記入のうえお持ちください。

『明治期の真宗大谷派おける研究教育とその体制』

2021-09-14
三明 智彰著
現キャンパス、以前の図書館・研究棟がこんな形に生まれ変わりました。
旧本館は、尋源館として呼ばれるようになりました。

教団の歴史

本願寺の軌跡 -創建から東西分派、そして現代へ- 草野顕之著

2021-11-14
『中外日報』の書評

日本仏教史や真宗史の研究で知られる著者が真宗大谷派の月刊誌『同朋』の2020年7月号~21年2月号に計8回連載した「本廟創立と東本願寺の歴史-その時代と教えの伝統」と加筆分を集成した一冊で、本願寺の起源となった大谷廟堂から現在の真宗本廟(東本願寺)に至る歴史を専門的な知見や写真・図を交えて平易に叙述している。

『同朋』の連載と本書の刊行は今年が大谷廟堂の建立から750年の節目に当たることを踏まえたもので、全9章で構成。親鸞聖人の墓所である大谷廟堂が京都・吉水の北はずれに創建された経緯から覚如上人による寺院化、蓮如上人の中興、戦国期の本願寺教団の権門化、石山合戦と東西分派までを取り上げた『同朋』の連載に加え、第9章「江戸時代から近現代の真宗本廟」を書き下ろした。

近年の研究を踏まえた知見も盛り込まれている。例えば、廟堂の管理者の継職を巡って覚恵と唯善が争った唯善事件について、唯善の「野望」や「策謀」との従来の評価に対し、中世の土地寄進や返還に関する慣習から唯善の主張が「社会的には一定程度の正当性を持って受け入れられました」との側面を解説している点が興味深い。

全編80㌻余りの短めの分量で読みやすい一方、内容の密度も濃い良書だ。

定価1540円、東本願寺出版(電話075・371・9189)刊。

京都 真宗本廟(東本願寺)春の法要・ご参拝・インターネットライブ配信のご案内

2022-02-25
東本願寺第22代。現如上人、1923年、72歳で示寂。本年は百回忌にあたる。

現如上人【1852年〜1923年】

東本願寺第22代。現如上人は、1852年7月に第21代嚴如上人の第5子として出生。1870年、北海道に渡り道内の開拓を行う。1872年には欧州を訪問し海外の政教を視察する。その後1889年10月、東本願寺第22代を継職。蛤御門の変によって焼失した両堂の再建に着手し、1895年に落慶。教団や教学のさらなる近代的発展につとめた。1923年、72歳で示寂。本年は百回忌にあたる。


4月1日から4日、今年も真宗本廟(東本願寺)において、春の法要が勤まります。
聖徳太子・七高僧をはじめ本願念仏のみ教えを伝えられた
師主知識の恩徳を讃える「師徳奉讃法要」、
親鸞聖人のご生誕をよろこぶ「親鸞聖人御誕生会」、
歴史に学び平和の願いを確かめる「全戦没者追弔法会」などの法要を
「春の法要」と称して勤めています。
また今年は、北海道開拓や蛤御門の変で焼失した両堂再建に尽力した
第22代現如上人の100回忌の法要も勤修されます。

英雄たちの選択「信長最大の敵・大坂本願寺~歴史を変えた11年戦争~」

2022-02-02

信長を最も苦しめた大坂本願寺。本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が激突した木津川口の戦いの真相、そして信長・本願寺11年戦争が歴史に残した驚くべき結末に迫る。

戦国の覇者・織田信長を最も苦しめた敵とされる大坂本願寺。顕如率いる各地の門徒たちと信長との戦いは泥沼化し、11年の長期に及んだ。最大の分岐点となったのが、二度にわたる「木津川口の戦い」だ。本願寺を支援し、兵糧を送っていた毛利水軍と織田水軍が激突した海戦である。信長の鉄甲船は実在したのか?新発見の絵図から読み解く両軍の海の戦略とは?そして信長と本願寺の戦いが歴史に残した驚くべき結末とは?

【ゲスト】奈良大学教授(元学長)…千田嘉博,共立女子大学教授…堀新,哲学者・津田塾大学 教授…萱野稔人,【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊

大阪は、商いの街、船場の商人をはじめとして、商業都市として発展していきましたが、同時に古くから真宗伝道の拠点でありました。

大坂の町は、本願寺第8代蓮如上人が、明応5年(1496)、「摂津国東成郡生玉之庄内大坂」、今の大阪城あたりに一宇の坊舎を建立されたことに始まります。天文元年(1532)、畿内天文一揆で山科本願寺が焼失されるに至り、翌年、御真影が大坂御坊に遷座になり、大坂御坊は本山として、その後、寺内、親町六町、枝町四町余りを有す独立した自治的宗教都市の様相を呈して、大いに発展していきました。その後、戦国動乱の世、織田信長との11年にも及ぶ争い(石山合戦)の末、本願寺は紀州鷺森・貝塚・天満に寺基を移しました。そして天正19年(1591)、第11代宗主顕如上人によって、寺基が京都に移されました。 大坂の門徒は、大坂での「お念仏」の灯りをまもるため、天正19年(1591)、天満に近い「楼(ろう)の岸」に念仏の集会所を設けました。その後、慶長2年(1597)の町割改革によって、「円江(つぶらえ)、津村郷」と呼ばれていた現在の地に移転し、「津村御坊」と称するようになります。これが本願寺津村別院(北御堂・御堂さん)の始まりです。 津村別院は、真宗大谷派の難波別院(南御堂)に対して、“北御堂”と呼ばれ、その近くには、篤信な門徒たち(商人など)が集まり、「御堂さんの屋根が見える、御堂さんの鐘が聞こえる場所にのれんを張る」ことを合言葉に、船場の町を形成し、商都大阪の礎を築いていったのです。 また、門前を通る大阪を代表する道は、南北両御堂に因んで、「御堂筋」と命名され、商都大阪の流通の中心的役割を担い、今も人々に親しまれています。 また、権力に決して迎合しない大阪人気質は、大坂本願寺の寺内町形成以来、お念仏に生かされる御同朋御同行の平座の精神が受け継がれ、その精神的基盤が根底にあると言えるのではないでしょうか。
このように、大阪と本願寺・北御堂の関係は、発祥から現在に至るまで、信仰だけにとどまらず、政治・経済・社会・文化、そして生活する人々の背景と根底に、念仏の教えが息づいており、切っても切れない相関関係の上で成立、発展してきました。 しかし、大阪といえば、太閤豊臣秀吉のイメージが強く、本願寺が大きく関わってきた歴史が一般の人々に周知されているとは言い難い現状でもあります。かつては、家庭や地域の中で自然と身についていた真宗の教えも、現在は「人」のつながりが希薄となり、伝わりにくい環境ともなっています。 そこで、歴史的資料の実物や、映像・パネル・レプリカ等を用い、また大坂本願寺寺内町を復元したジオラマ展示などを行い、改めて一般の人々に本願寺、北御堂の事業や歴史等を説明する展示施設を設立し、多くの方々に歴史的な存在を通じて、共有されてきた過去を表現し、その歴史をひも解く中で、大都市「大阪」の中心で、その年代に生きた人びとの心の依りどころとして存在した本願寺(津村別院・北御堂)の歴史を表現したいと考えます。
そして、今までお寺と縁の薄かった方でも気軽に訪れていただき、「浄土真宗」とのつながりを深めていただく機縁となることを願いとしています。

「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)
織田信長と摂津国石山本願寺に拠る本願寺第 11世顕如との間で元亀1 (1570) 年から天正8 (80) 年までの 11年間にわたって続けられた合戦。室町時代中期以降,浄土真宗 (一向宗) 教団の伸張は著しく,一向一揆は,領主,守護大名などに対する戦いを広範囲に展開した。本願寺第 10世証如は,第8世蓮如の建立した石山道場を同宗の本寺とし,寺域を広げ,防備を固め,門前に新興商工業者を集め,やがて同寺は一大領主勢力に発展した。浅井,朝倉両氏を討って全国統一を目指す織田信長は元亀1年,本願寺打倒に立上がり,本願寺はその興廃をかけて全国門徒を対信長戦に駆りたてた。以来,天正8年3月,顕如が信長と和して本願寺を信長に渡し,同年4月,紀伊雑賀 (さいが) に退くまで合戦は続けられた。この間,信長は一向宗門徒を近江,長島,雑賀に討ち,浅井,朝倉両氏を滅ぼし,武田氏を長篠に討ち,さらに伊勢に北畠氏を滅ぼし,一方,中国征伐の軍を起すなど,本願寺を孤立させていった。石山本願寺の降伏は,信長の畿内および周辺に対する政権の確立を意味する(百科事典マイペディア「石山合戦」)。

京都世界遺産を深掘り【14.龍谷山 本願寺(西本願寺)】

2021-11-22
Facebook 佐々木信雄さん曰く
京都世界遺産を深掘り【14.龍谷山 本願寺(西本願寺)】
 通称「西本願寺」は、京都市下京区七条上ルの堀川通りに面した地にあり、浄土真宗本願寺派の本山であり、山号は龍谷山、正式名称は「龍谷山 本願寺」である。真宗大谷派の本山「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。
 弘長2(1262)年、浄土真宗開祖「親鸞」が入滅する、享年90。文永7(1272)年、親鸞の末娘 覚信尼は、親鸞の廟堂として京都東山に「大谷廟堂」を建立する。そして、元亨元(1321)年、第3世 覚如が大谷廟堂を寺格化し「本願寺」と号すると、親鸞を開祖と定め、以後「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになった。
 覚如は、親鸞の門弟門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図するが、強大な経済力・軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院によって弾圧を受けて、低迷を余儀なくされた。また、東国などでは親鸞の門弟たちによる教団が展開され、浄土真宗は決して本願寺に一本化されたわけではなかった。
 長禄元(1457)年、第8世「蓮如」が本願寺を継承したころには、本願寺は衰亡の極みで青蓮院の一末寺としてかろうじて継承されていた。寛正6(1465)年、本願寺は延暦寺衆徒によって破却され、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)吉崎に移り布教する。
 中興の祖とされる蓮如の布教により、門徒(真宗教徒)は東国に拡がりをみせ、北陸では加賀国守護富樫氏の内紛に関わり、やがて百年にわたる「加賀国一向一揆」にまで展開する。蓮如は一揆の鎮静をはかるが収められず吉崎を退去する。明応6(1497)年、蓮如は大坂石山に「大坂御坊」(大坂本願寺)を建立し隠棲、明応8(1499)年、山科本願寺で入滅する。
 戦国の100年間に、本願寺は日本有数の大教団として、また強力な社会的勢力としての地位を得た。これは、教団の自衛としての意味もあるが、力を付けた民衆の解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力ともなった。それは一方で、戦国大名など世俗権力との軋轢もまねき、その最大のものが、約10年にわたる「石山合戦」である。
 天下統一をすすめ京都に入った信長が、元亀元(1570)年、浄土真宗門徒の本拠地、大坂石山の「大坂本願寺(石山御坊)」からの退去を命じたが、石山本願寺勢力は信長に徹底抗戦する。10年にわたる交戦のあと講和が成立するが、徹底抗戦勢力が籠城したため、「大坂(石山)本願寺」には火が放たれ灰燼と化した。
 まもなく「本能寺の変」が起こり、信長が自害すると、あとを継いだ豊臣秀吉により石山本願寺跡地を含む一帯に「大坂城」が築かれた。本願寺は、秀吉の寺地寄進をうけて大坂の天満(てんま)に移るが、さらに天正19(1591)年、豊臣秀吉から京都に寺地の寄進を受け、現在地に移転した。
 「石山合戦」で和議を受け入れた第11世門跡 顕如は、徹底抗戦を唱える長男 教如との間にしこりが残り、教団の内部も穏健派と強硬派に分裂し、これが東西本願寺分立の伏線となった。顕如入滅にともない、教如が本願寺を継承するが、穏健派は三男の准如に継職させるよう秀吉に願い出て、弟の准如が第12世本願寺宗主となる。
 関ヶ原の戦い後、天下人となった家康に接近した教如は、家康から「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の寺領を寄進され、教如はここを本拠とする。かくして本願寺教団は、「准如を12世宗主とする本願寺教団(真宗本願寺派/西本願寺)」と、「教如を12代宗主とする本願寺教団(真宗大谷派/東本願寺)とに分裂することになる。正式には、慶長8(1603)年、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、「本願寺(東本願寺)」が開かれた。
 西本願寺境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、国の史跡に指定され、ユネスコ世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されているが、観光寺院ではなく信仰を旨とする寺であるため拝観料は無料で、境内および国宝の御影堂や阿弥陀堂に自由に入ることができ、国宝の唐門もすぐ横まで行ける。
 東西の本願寺は、五条通りから七条通りの京都の中心地に広大な土地を所有する。その所有地に多くの民家が建ち、借家も多く、それらの借家には高齢者夫婦などが住まっている。古くからの借家は家賃が安いので、高齢者は移転が難しく、下京区の高齢化が進んでいるという。
 この地区はJR京都駅の北面にあたり京都の玄関口であるが、商業集積は比較的遅れており、京都の商業中心地は四条河原町周辺に奪われている。これは、五条通りから京都駅前の塩小路通りに挟まれた広大な中心地域が、商業に積極的でなかった東西本願寺と旧国鉄の所有地であったためと言われている。

宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃のページ

旗印です。

2021-12-01

宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要特設サイト

2021-09-26
真宗大谷派(東本願寺) (higashihonganji.or.jp)

立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―

2021-04-25

真宗本廟(東本願寺)において、2023年に勤まる宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要を記念して制作した動画です。
 浄土真宗立教開宗の書として、大切に読まれ、現在まで伝えられてきた親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』。
 聖人の筆跡を感じ、思索にふれていただけるよう聖人直筆の『教行信証』(坂東本)を紹介します。

「立教開宗の書『教行信証』展」

2021-04-03
HP東本願寺/写真日記 2021年4月1日 更新
親鸞聖人直筆『教行信証』「坂東本」のパネルを展示しています

参拝接待所ギャラリーでは、「立教開宗の書『教行信証』展」を行っています。こちらの展示内容も、配信でご覧いただけます。

「立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―」についてはこちら

立教開宗の書・親鸞聖人の主著『教行信証』(坂東本)―聖人の思索の跡をたずねて―

三明・教行信証講義2021第一回

2021-05-06
三明・教行信証講義2021第二回

聖徳太子1400年忌法要のベージ

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。

2022-04-20
「中外日報」より

皇室の聖徳太子1400年式年祭が11日、大阪府太子町の単立叡福寺内にある聖徳太子磯長墓で、神式で斎行された。

宮内庁が管理する各陵墓では毎年の没日に正辰祭が営まれており、節目の年には式年祭がある。天皇陵の式年祭のような奉幣は皇族墓では行われておらず、儀式内容は例年の正辰祭と変わらない。磯長墓は考古学的には「叡福寺北古墳」と呼ばれ、没年とややずれる7世紀後半の様式を示すが、太子の墓の可能性が高いと考えられている。

師の慧慈和尚偲ぶ 聖徳太子1400年御聖忌御正當法要 宝前に両像、功績たたえる 

2022-02-25
慧慈和尚(宝前右)をたたえる慶讃文を読む般若寺の福嶋住職
和宗総本山四天王寺
中外日報 2022年2月25日 13時59分
聖徳太子1400年御聖忌慶讃大法会が営まれている和宗総本山四天王寺(大阪市天王寺区)で22日、御正當報恩慶讃法要が厳修された。法要では太子に仏法を教えたとされる慧慈和尚の千四百回忌報恩法要を併せて奉修し、遺徳を偲んだ。(詳細は2022年2月25日号をご覧ください

浄土真宗における聖徳太子―千四百回忌を迎えて―

2022-02-02

◎飛鳥の王権と聖徳太子

2021-05-24
Facebook佐々木信雄さん曰く
6th Century Chronicle 581-600年】
6th Century Chronicle 581-600年】
◎飛鳥の王権と聖徳太子
*585/ 敏達天皇が没し、用明天皇が即位する。
*587/ 用明天皇が没し、崇峻天皇が即位する。
*587/ 蘇我馬子が穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋を滅ぼす。
*592.12.8/ 蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇に代わって、推古天皇が即位する。
*593.4.10/ 聖徳太子(厩戸皇子)が国政に参画する。
 585年、「敏達天皇」崩御を受け「用明天皇」が即位する。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は崇仏派であり仏法を重んじたが、在位2年足らずの587年に、用明天皇は崩御した。後継問題で、大連の物部守屋は「穴穂部皇子」を即位させようとはかるが、蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害し、さらに物部守屋をも射ころさせ、物部氏を滅亡に追い込む(丁未の乱)。
 蘇我馬子によって「崇峻天皇」が即位するが、実権を馬子が握られている不満から反発しだすと、馬子は計略で暗殺してしまった。その馬子に請われて、先々代敏達天皇の皇后であった額田部皇女が、592年、史上初の女帝として即位、「推古天皇」(39歳)となる。
 593年、用明天皇の子で甥の厩戸皇子(聖徳太子)を、皇太子として国政を補佐させる。推古天皇は、皇太子厩戸皇子と大臣蘇我馬子の勢力の均衡を保ち、馬子が葛城県の支配権を望んだ時も、毅然とこの要求を拒絶したという。
 推古女帝のもと、聖徳太子は蘇我馬子と協調して、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定し、法令や組織の整備を進めた。また607年には、小野妹子を隋に派遣(遣隋使)し、中国皇帝に日本の独立性を示した。
 594年推古天皇は、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔勅(三宝興隆の詔)を示し、太子や馬子と共に仏法興隆に努め、斑鳩に法隆寺を建立させるなど仏教を奨励した。620年、聖徳太子と馬子は「天皇記」「国記」を編纂して、国の歴史を記した。
 622年に太子が49歳で薨去し、更に4年後の626年、蘇我馬子も亡くなる。そして628年、推古天皇は75歳で崩御した。推古天皇は継嗣を定めていなかったため、馬子の後を受けた蘇我蝦夷は、後継候補の田村皇子と山背大兄王から、田村皇子を擁立して「舒明天皇」とした。
 こうして政治の実権は、蘇我蝦夷・入鹿父子に握られ、入鹿は聖徳太子の子「山背大兄王」を攻めほろぼしてしまう。これを皇統政治の危機と見た中大兄皇子や中臣鎌足は、入鹿を殺し「大化の改新」を開始する。ここに飛鳥のヤマト政権は、大きな転換期をむかえることになる。
(この時期の出来事)
*598/ 蘇我馬子が飛鳥寺(法興寺)を発願して建立をはじめ、593年塔の心礎に仏舎利を納める。
*593/ 難波に四天王寺が建立される。
*594/ 三宝興隆の詔が出され、諸氏が競って寺を建立する。

真宗大谷派善重寺(茨城県水戸市・二十四輩旧蹟)の聖徳太子立像

2022-01-31
Facebook 山口昭彦さん曰く
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