ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
浄土真宗の教え
宗祖親鸞聖人は、師である法然上人との出遇いをとおして、阿弥陀仏に帰依して「南無阿弥陀仏」と称えることが、すべての人に開かれた平等な救いの道であるといただかれました。
聖人は、生涯にわたる聞思のなかで『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を撰述し、その教えを「浄土真宗」と顕かにされました。浄土がまこと(真)のむね(宗)である、浄土こそがほんとうの依りどころであるということです。
浄土は、日ごろのわたしたちの欲望に左右されることなく、どんな状況でも変わらず、失われることのない依りどころです。また「南無阿弥陀仏」のお念仏は、いつでも、どこでも、だれでもできる、普遍の仏道です。
苦しみ、悲しみ、悩むわたしたちは、浄土を願いお念仏を申すことで、人として生まれ生きていく意味、すべての人々とともに今生きているということを知らされるのではないでしょうか。
この列車はどこへゆくのかとあわてだす。
発車駅の東京も知らず、横浜も覚えがない。
丹那トンネルを過ぎたところで薄目をあける。
静岡あたりで突然乗っていることに気づく。
そして名古屋の五分間停車のあたりから、窓の外を見てきょろきょろしはじめる。
この列車はどこへゆくのかとあわてだす。
もしそんな乗客がいたらみな吹き出すに決まっている。
その無知な乗客を哀れむに違いない。
ところが人生列車は全部の乗客がそれなのだ。
2024年度「大学報恩講並びに歴代講師謝徳法要」
2024年度「大学報恩講並びに歴代講師謝徳法要」を以下の通り厳修しますので、多数ご参集くださいますよう、ご案内いたします。
法要終了後、学内食堂において小豆粥のお斎をご準備しています。
- 一般来聴歓迎・聴講無料
定例講座「『歎異抄』思想の解明」 – 親鸞仏教センター
本講座では、『歎異抄』を講読していきます。私たちが、今、すでに出遇っている宗教言説(「よきひとのおおせ」)を相続していくこととはどのような営みであるのかという視点から、『歎異抄』の思想がもつ現代的意義を聴講者の皆さんと共に解き明かしていきたいと思います。
浄土真宗にとっての20世紀は『歎異抄』の世紀というべきものでした。20世紀初頭に、それまで宗派内のテキストに過ぎなかった『歎異抄』が、清沢満之によって信仰の書として再発見されましたが、それから約120年が過ぎ、今日では日本の宗教思想を代表する書のひとつとして知られるようになりました。親鸞の人と思想とを、宗派の枠を越えて一般の人に開放する端緒となったのが『歎異抄』でしたし、日本という枠を越えて海外に紹介する先駆けの役割を果たしたのも『歎異抄』でした。
第Ⅰ期では、『歎異抄』というテキストに対するさまざまな誤解から『歎異抄』を解放し、現代における『歎異抄』思想の可能性を新たに切り拓くという課題をもって「漢文序」をていねいに講読しました。『歎異抄』とは、親鸞聖人の宗教言説の本意が見失われていることを歎き、その本質と力を回復する使命を、親鸞聖人自身の仰せ(「御物語」)に学ぶことで果たし遂げようとするテキストでした。
この度の第Ⅱ期では、『歎異抄』の本文の第一章から第三章を拝読します。このはじめの三章は、親鸞聖人の安心(あんじん)を表わす訓(おし)えとして位置づけられています。
とくに第一章は、親鸞聖人が法然上人の宗教言説をどのように受容したかを、これ以上ないほど簡明に示しています。『歎異抄』の思想を読み解くための根本となる章です。
第二章は、親鸞聖人自身が法然上人の宗教言説を相続していくときの立場を、「たとえ法然上人にだまされて念仏して地獄に落ちたとしてもまったく後悔するはずがない」などと感銘深く伝えています。
第三章は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という法然上人の宗教言説に対する親鸞聖人の独創的な受けとめが示される章です。いわゆる悪人正機説が出る有名な章です。
この三章は、法然上人の仰せを受けとめる親鸞聖人の根本となる立脚地を示しており、『歎異抄』思想を解き明かしていくための原点となります。
(加来 雄之)
親鸞思想の解明 – 親鸞仏教センター
2001年に親鸞仏教センターが設立されて以来、 この学事施設が目指すべき方向としてきたのは「親鸞思想を現代に開く」という課題である。その一つのあり方として、首都東京の中心で親鸞の選んだ聖教を解読してみようと試みてきた。そこで、初めに取り上げたのが、『無量寿経優婆提舎願生偈 (むりょうじゅきょう うばだいしゃ がんしょうげ)』(『浄土論』)であった。その拝読を、東京国際フォーラムにおいて毎月一度、年に10回を基本に5年にわたって計50回開催することができた。
それが一応終わったので、続いて『大無量寿経』を取り上げ、14年間(137回)にわたって、これを拝読した。これも読了したため、この度親鸞が書いた『一念多念文意』(以下『文意』)という仮名の聖教を取り上げることにした。というのも、この仮名の聖教には、当面の題名のイメージとは異なり、親鸞思想の中心にある問題意識や現代に通じる課題を読み取ることもできるのではないかと拝察したからである。
題名からは、一念義か多念義かという称名念仏についての論争が主題となっているように了解される。たしかにそれが当時(鎌倉時代)の法然上人をとりまく弟子の関心であったし、法然上人没 後に残された弟子たちの論争の中心にもなっていた。この『文意』のもとになった隆寛の『一念多念分別事』(以下『分別事』)が課題にした問題意識でもあった。称名念仏を引き受けた上で、その名号を1回でも称えれば必ず往生できるとするか、やはり凡夫なのだから何回でも称える必要が あるとするのか、という称名の回数を問題意識の中心とする議論である。
それに対して、『分別事』での隆寛は、称名の回数について経典に「一念」ということも「多念」ということも示されているのだから、そのいずれかという議論はナンセンスである、と教え諭す。しかしそれでは、いずれが正しいのかという議論が起こっているのに、なぜ聖教には両方が説かれているのか、ということに対して、明確な確信を持って「一念・多念」と説かれる意味を考察していないようにも見える。
その点について親鸞は、隆寛の立場を受けて、 一念か多念かのいずれかに固執するのはナンセンスであるということを発信しつつ、称名の根底にあって如来が本願力を「名号」を通して表出し、名を通して願心を衆生に受け止めさせようとしているということ、すなわち名によって「本願力」を表現する意味、つまり無上功徳(大涅槃)を一切衆生に平等に付与するという、大乗仏道の願心の意味を丁寧に教え勧めているのである。
しかも、本願力を受け止めるあり方については、単に『分別事』で取り上げられている経文・典籍を解釈するにとどまらず、それぞれの引文の意図を明らかにするために、さらに多くの経文や釈論などを加えて、天親や曇鸞、さらには善導などの受け止めを、説き表していかれるのである。
このことによって、混沌として不安に満たされている時代社会に対して、無限なる大悲の光明を仰ぐ視野を開くことの可能性を示すこともできるのではないかと拝察するのである。
(本多 弘之)