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当代

思い出のページ【学校編 】

当代の大学母校は、こちらです。

2022-01-10
早稲田大学 (waseda.jp)
新入生は、入学式で、校歌『都の西北』を聞き謳い、早大生となります。
早稲田大学第17代総長 田中愛治 世界でかがやくWASEDAを目指して
早稲田大学校歌 都の西北【応援団の指導付】 2021春 新2年の1年越しの入学式
【早稲田大学】2021年度学部卒業式および大学院学位授与式(第4回)
2015年3月卒業式 早稲田の栄光
2019年早稲田大学卒業式 早稲田の栄光

フクちゃん

2023-08-28
facebook 早稲田大学文化推進部
早稲田大学歴史館は2018年3月20日の開館から 5周年を迎えました。
歴史館は開館以来、 多様な切り口で早稲田大学の歩みや諸活動について紹介し、 これまで約18万人の方にご来館いただきました。 今後もこれまでの活動をもとに新たな企画を展開し、 新たな節目へ向けて、 早稲田大学の魅力を発信し続けます。 皆さまが何度訪れても新たな発見に出合える場所をより一層目指していきます。

よみがえる新日本紀行「都の西北~東京・早稲田~」

2023-08-28

Waseda’s History -進取の歩み

2023-06-04
“世界で輝くWASEDA” の実現に向けて

英語版は こちら

早稲田大学は2022年10月21日に創立140年を迎え、同年は大隈重信没後100年でした。1882年の創立から今日に至るまで、創立者大隈重信の理念(三大教旨)を基に、その歴史を刻んできました。

この動画では、早稲田大学の歴史を振り返るとともに、創立150年を迎える2032年、さらには2050年に向けた大学の姿勢をご紹介いたします。
集まり散じて人は変われど、仰ぐは同じき理想の光” 時代は変われど、早稲田大学は  “世界で輝くWASEDA” の実現に向け、これからも「進取の精神」と共に歩み続けます。

早稲田大学教旨 – 早稲田大学

1913(大正2)年、創立30周年記念祝典において、総長大隈重信(当時)は早稲田大学教旨を宣言しました。
早稲田大学の教育の基本理念を示す基本文書としての早稲田大学教旨は、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが草案を作成し、大隈重信が校閲の上祝典で発表したものです。1937(昭和12)年に教旨の碑文が早稲田大学正門前に設置され、今日に至っています。

早稲田大学は学問の独立を全うし 学問の活用を効し
模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す

早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て
之が自由討究を主とし
常に独創の研鑽に力め以て
世界の学問に裨補せん事を期す

早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て
学理を学理として研究すると共に
之を実際に応用するの道を講し以て
時世の進運に資せん事を期す

早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て
個性を尊重し 身家を発達し 国家社会を利済し
併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す

学問の独立

「学問の独立」は、「在野精神」「反骨の精神」と結び合います。早稲田大学は、自主独立の精神を持つ近代的国民の養成を理想として、権力や時勢に左右されない、科学的な教育・研究を行ってきました。

学問の活用

もちろん、近代国家をめざす日本にとって、学問は現実に活かしうるものであること、日本の近代化に貢献するものであることが求められました。 つまり「学問の活用」です。安易な実用主義ではなく「進取の精神」として、早稲田大学の大きな柱の一つになりました。

模範国民の造就

庶民の教育を主眼として創設された早稲田大学。その3つめの建学の理念が 「模範国民の造就」です。グローバリゼーションが進展する現代、豊かな人間性を持った「地球市民の育成」と言い換えることができるでしょう。 建学の理念とそこから生まれ受け継がれてきた早稲田スピリットは、私たちの財産。早稲田人がひとしく身につける校風です。

大学紹介 – 早稲田大学

2023-06-04

創立以来、伝統と革新を積み重ねてきた。しかし、建学の精神はいつの時代も変わらない。61万人校友に受け継がれてきた早稲田スピリット。変わり行く早稲田、変わらない早稲田、そして知られざる早稲田。愛すべき早稲田の魅力をお伝えします。

思い出のページ【学校編 東京 】

「凶器・ヘルメットの持込み禁止」

2023-08-03
facebook 和田 治邦さん曰く
懐かしの早稲田の風景・資料(その45)。
「凶器・ヘルメットの持込み禁止」。
1枚目は1981年5月撮影の8ミリフイルムからもので、南門の入口にありました。2枚目は1983年3月25日撮影で、僕らの卒業式当日に正門での写真です。写っているクラスメイト4人の向かって左上をご覧頂くと、一番左にあります。正門の階段も気になりますね。
在学中は、当たり前の景色の一部として、特に何とも思わなかったのですが、もちろん今の早稲田大学キャンパス入口には見なくなった掲示板です。
では、1979年入学から1983年3月までの在学中に、「凶器やヘルメット」を見掛けたのかというと、1979年の入学の後の語学のクラス写真の撮影のあと、後日、写真を受け取りに第1学生会館のある部屋を指定されて訪問したのですが、その部屋にはZマークが書かれたヘルメットがずらりと積まれていた光景を見ました。1960~70年代、早稲田キャンパス内でいろいろなことが起きたことは何となくは知ってはいましたが、ある時代までは当たり前のように、キャンパスで「凶器・ヘルメット」が見受けられたのでしょうね。また、「特に許可された者以外の学外者の入構を禁止します」という掲示を見ると、そんな学外者が多く出入りしていた時代があったことが想像できます。いくつかの自治会には7、8年生くらいの人も多くいたり、学外からに応援者?も多くいたようにも聞いています。
皆さんは、この掲示をどう思われていました? また、「凶器・ヘルメット」は見られたことはありますか?
この「懐かし」シリーズは、「facebook稲門クラブ」と「早稲田80’s」で同じタイミングで投稿しています。過去の僕の投稿については、僕の名前のところをクリックすると新しい投稿から順に遡って見られるようですので、気になる方はご覧ください。
また、昨日の(その44)の「大隈庭園」について、「facebook稲門クラブ」の方には50を超える多くのコメントを頂き、昔の大隈庭園への思いの大きさに驚きました。

1979年春、入学した時の早稲田の学生スターと言えば、

2023-07-27
facebook 和田 治邦さん曰、、4年生の瀬古利彦さんと岡田彰布さんでした。
懐かしの早稲田の風景(その38)。
 1979年春、入学した時の早稲田の学生スターと言えば、4年生の瀬古利彦さんと岡田彰布さんでした。
瀬古さんはWマークの早稲田の大学生として福岡国際マラソンで優勝するなど、抜群の実力と人気を兼ね備えた選手でした。箱根駅伝では早稲田は優勝は逃しましたが、圧倒的な区間賞でした。当時は大学ごとに自衛隊のジープ型車両が付き、中村監督の選手を鼓舞する校歌がラジオを通して聴こえて来ました。今のようにテレビ中継は無く、箱根の山中では電車が来ると踏切で止められていた時代でしたね。
そんな瀬古さんが、40年後の2019年の稲門祭実行委員長となり、早稲田キャンパスでお会いすることが出来て、気さくにツーショット写真をさせて頂けたことはこの上ないヨロコビでした。下のコメントにその時のツーショット写真をアップします。皆様の瀬古さんとのツーショットあれば見たいです。
早稲田ウイークリーの1980年1月10日号です。

「安部球場と都電荒川線早稲田駅」

2023-08-03
facebook 和田 治邦さん曰く
懐かしの早稲田の風景(その42)。
「安部球場と都電荒川線早稲田駅」。
安部球場と早稲田駅の位置関係がわかると思います。
こんなところに野球部の球場が普通にあった日常でしたが、残念ながら移転してからずいぶんと経過してしまいました。練習が終わって、バットやグラブを持ってグランド坂から西早稲田の野球部の安部寮に帰る選手が普通にいたり、通学で荒川線を利用していた学生もいました。古き良き、昭和の早稲田界隈でありますね。この安部球場のスタンドで練習を観戦出来ました。ネットを越えた現阪神タイガース監督岡田彰布主将の打球、何度か見ました。
この写真も自分ながらよく撮っていたなと、歴史的な価値を感じています。
1982年3月30日撮影。

この安部球場は、もうここには無く、中央図書館が建っています。

2023-07-25
facebook和田 治邦さん曰く
懐かしの早稲田の風景(その36)。
 この写真、普通なら撮影することはないでしょうが、僕自身にとっては思い出の大きい「渾身の一枚」なのです。
場所は安部球場、行かれたことのある人ならわかると思いますが、写真の右手前に写っている、グランド坂から球場に駆け上がるようになっている踏み固められた小さな道があります。
球場に入ると、左手前には学ラン姿の早稲田大学應援部の旗手が、校旗を高らかに掲げています。その旗手は、昨日ご本人からメッセージを頂いた四年生の桐生さんではないかと思いますがどうでしょうか。
多くの早稲田の学生や何故か女子高校生が見守る先には、安部球場で練習する野球部の部員がおり、スタンドには学生、応援するリーダー、チア、吹奏楽部などがいます。
この写真のポイントがもうひとつ、遠くに見えるのは池袋のサンシャイン60です。当時、日本で一番高いビルであり、印象に残っている人も多かと思います。
旗手の向かって左側には、住宅街にボールが入らないようにと、高い防御柵がありましたね。旗手の向かって右にはコンクリートの台が見えます。安部球場は、日本で最初のナイトゲームや練習が可能な照明設備がありましたが、太平洋戦争の時、金属を拠出することになり取り壊されたと聞いています。その名残かなと思って見ていました。
この日は、優勝の掛かった秋季リーグ早慶戦前の総合練習でした。應援団吹奏楽部の大音量もあって、キャンパスから多くの学生がやって来たのです。僕はこの一枚の写真を見る度に、この時の大音響や声援が聞こえて来るのです・・・。そしてリーグ戦では劇的な優勝をすることになりました。僕が四年生の時です。
スタンドの様子は次回の写真をお待ちください。
1982年10月中旬撮影。
懐かしの早稲田の風景(その35)。
(前回から続きます)
いよいよ、これから何かが始まります。写真左側の荷物を置いている場所など、日本初の照明施設があった名残ではないかなと思います。
この早稲田大学應援部の部員の方を知っている人はいませんか?
なかなか、かっこよくいい感じで撮影させて頂きました。
次回、(その36)で場所と何が始まるのかがわかります。
1982年10月中旬撮影。
懐かしの早稲田の風景(その34)。
早稲田大学應援部のお二人、この場所はどこで、これから何をしようとしているのでしょうか?
今回から4回、(その37)まで見て頂くとわかりますよ。
1982年10月中旬撮影。
懐かしの早稲田の風景(その32)。
「安部球場」。
キャンパス近くの建物から1982年3月30日に撮影。練習中ですね。
写真の、桜咲くグランド坂の横断歩道を渡ったあたりに、野球部の部室入口があったように思います。写真の中に懐かしいお店とか建物が写っていませんか?
安部球場が取り壊された時、野球部の入口の板看板も瓦礫の中に無造作に捨てられていたようで、工事の人に言って、それをもらったんよ!という広島で花屋さんをしていた人がいたので、それは日本の野球史に関わる遺産なので、大学に寄贈した方がいいですよ!と言ったんですが、どうなったのかなあ。20年くらい前の話
懐かしの早稲田の風景(その27)。
1982年3月30日撮影の「グランド坂」。
桜咲くグランド坂の名は、文字通り、安部球場というグランドがあるからだと思いますが、安部球場が早稲田から移転してもその名が残っています。
この写真の中央あたりの茶色い上着を着た人の後ろあたりに、グランドへの入口がありました。よく安部球場に練習を観に行っていた人には懐かしい場所かと思います。入口には小さな坂の道がありましたが、その写真はまた後日に・・・。
手前右に写るお二人は、撮影の数日前に卒業した歩行会の2人の僕の先輩、久保田さんと玉置さんです。

地下鉄早稲田駅の切符です。

2023-07-25
facebook 和田 治邦さん曰く
懐かしの早稲田の風景(その29)。
地下鉄早稲田駅の切符です。最初の硬券は1977年の最初の受験の時かなと思います。「早稲田」という文字があるだけで嬉しい気持ちになるんです。
皆さんの学生時代で値段は違うと思いますが、こうして使わずに置いていたり撮影しておくって僕らしいな。
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