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ちょい話【釈尊編】

釈尊の願い

犀の角ごとく・・・。

2022-07-27

Facebook 速水 馨さん曰く



求道者たれ、ともに求道者たらん
——道場に守られていた前後期14日間の教師修練を終え、それぞれの現実に帰って行かれました。
一人でいかなければならない道を二人で行ってはならない。
犀の角のごとく、ただ独り歩め

犀の角のようにただ独り歩め。 「犀の角のようにただ独り歩め。」 『スッタニパータ』(『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫 17頁)

 標題のことばは「サイの頭部にそそり立つ太い一本角のように、独りで自らの歩みを進めなさい」という意味です。インドサイは群れではなく単独で行動することが知られていますので、「犀の(一本)角」という比喩表現は「孤独」を意味します。このように仏教が孤独を勧める背景には「私たちの悩みは人間関係から起こる」との分析があります。つまり、悩みを生み出す原因が「人のつながり」にあるのなら、そこから一時的に離れてみることが心の成長に必要ということです。

 現在のようにつながりが強化された社会では、つながりからこぼれ落ちた存在が際立って見えます。人々は他者とのつながりを求め、それが断たれた状態を不安や不快として感受します。ですが、実際のところ私たちが孤独を感じるのは、周りの人に囲まれながらも「誰も私のことを見ていない」「誰も私に関心を持っていない」と実感するときです。一人でいることが孤独感の原因なのではなく、周囲とのつながりを実感できないからこそ孤独を痛みとして感じます。にもかかわらず、私たちは一人になることを怖れ、なるべく他者とつながろうとする結果、毎回同じ痛みを感受することになります。そのような私たちに、標題のことばは、孤独を怖れる必要はないと教えます。

 さらに、同じ『スッタニパータ』の58番目の韻文では次のようにうたわれています。

学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
 仏教では「悩みの原因となる対人関係から距離をとる」という意味での孤独を勧めると共に「優れた友との交流」を勧めます。一見して矛盾するように思われますが、そのねらいは真に独立した人格を形成するためにはどちらも必要ということです。そして、ここでの「友」は対人関係における友人に限定されません。例えば、大学生であれば自身がひたむきに学ぶ学問が「友」になり、社会人であれば自身が責任をもって勤しむ仕事が「友」になります。つまり、自身を成熟へと導くものが総じて「友」と呼ばれるのです。

 様々なつながりを自覚した上で、孤独と向き合う時間は貴重です。なぜ孤独が必要なのか。それは自分が本当は何を求めているのかを知るためです。そのとき、学びや仕事は孤独を支えてくれるでしょう。そしてその道程において、あなたは真の友とであうのかも知れません。

「兵戈無用」 泉 惠機(いずみ しげき)(助教授・解放の真宗学)

2023-03-09

 これまでこの言葉は、日常生活の中でほとんど用いられてはこなかったかもしれない。最近になって時折見かけるようになった。“武器も軍隊もいらない”という意味である。浄土三部経のひとつ『大無量寿経』に出てくる言葉である。釈尊が悪を戒め信を勧められるところで語られるのだ。この背景には「不殺生」「殺すなかれ」という釈尊の思想がある。
 釈尊の時代にも戦争はあった。大規模な戦ではなくとも、人が人を傷つけ、武器を持って殺しあうのは人間の最も愚かな行為でありながら、絶えることがない。そのような人間の有様のただ中で、釈尊の世の祈りを示す言葉として語られたといって良いだろう。
 この言葉を聞いて、誰の心にも思い合わされるのは、昨年九月の「同時多発テロ」事件と、その後のアメリカによるアフガンへの空爆である。多くの命が奪われ、また今も奪われ続けている。自らの命を「兵戈」と化し、また先端のテクノロジーを駆使した「兵戈」を用いて、殺戮が行われている。そして世界は、それをとどめる術をもたないかのごとくである。しかも、いずれも「正義」を謳って「兵戈」を用い、殺戮が正当化される。しかし、いかなる事情があろうと、幾万言ついやそうと、何人も命を奪うことを正当化することはできない。また同時に、多くの戦争が「自らに正義あり」として行われたが、殺戮することに冠せられる「正義」はない。
 幾たびもの戦争が繰り返された二十世紀に対して、二十一世紀は「平和と人権の世紀」であることが強く願われてきたにもかかわらず、最も愚かな行為によって幕を開けたことを悲しまざるを得ない。
 またこの状況を見ると、『法句経』の次のような言葉が思い合わされる。

この世において、怨みに報いるに怨みをもってすれば、ついに怨みは息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
 今こそ、「兵戈無用」という釈尊の願いを心に入れて生きていきたい。

ブッダのことば

2022-11-24
《スッタニパータ》  岩波文庫  中村 元訳
生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。
老いに達しては、死が来る。
実に生あるものどもの定めは、このとおりである
ブッダのことば
  《スッタニパータ》
    岩波文庫  中村 元訳
釈尊は人の世の定めを、こうして明確に喝破されます。
又、時にはわかり易いたとえや示唆で、人々が正しい理解に立ち到れるようにしむけられます。
釈尊の直説にお遇いした人々の多くが、たちどころに迷いに気付き、さとりを得て、輪廻の境界からはなれられたと聞きます。
この一句で、心が震撼し、眼のうろこが落ちるなら、
それで迷いの生涯を離れた
仏弟子となれる筈ですが、煩悩は深く時代は汚れています
       聞思抄より

釋尊とその息子

2022-11-12
釈迦如来立像 宋代(960-1279) 塑造 『天水麦積山』は、羅睺羅の上にかざす手や指が、子を思う親の思いを優美に表現しているという。 柔らかな薄手の僧衣をまとう表現も素晴らしい。
羅睺羅
羅睺羅像 宋代 塑造 白毫の上に渦巻きをつくる。更に丸い突起があるが何だろう。涼州式偏袒右肩の着衣にも無駄な襞がなくすっきりとした造像である。
阿難
仏弟子像 北魏 9龕台座 高さ0.88m おそらく最年少の仏弟子阿難。
麦積山石窟133窟
一仏二菩薩、説法図

周利槃特(しゅりはんどく)のこと

2022-11-05
仏弟子の告白《テーラガーター》  岩波文庫 中村 元訳
わたしの進歩は遅かった。
わたしは以前には軽蔑されていた。
兄はわたしを追い出した。
「さあ、お前は家へ帰れ!」といって
仏弟子の告白《テーラガーター》
 岩波文庫 中村 元訳
チューラパンタカとは愚鈍な仏弟子として有名な周利槃特(しゅりはんどく)のことであります。 
彼は聡明な兄マハーパンタカと共に仏弟子となりましたが、四ヶ月に一つの偈文も記憶できず、「見込みがないから帰れ」と兄に叱責されたのです
それを釈尊は「愚かさを知る者は愚かでない」と掃除に専念するよう諭(さと)され、ついに大悟して、兄以上の仏者となりました。
自らの愚鈍に懊脳(おうのう)した日の告白が胸に重くひびきます。
       聞思抄より

お釈迦様の話

田畑正久先生のお話

2023-02-28
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第432回
(令和4年12月 5日掲載)医療文化と仏教文化(258)
    第425回の「自分を空っぽにする」ということについて、小学4年と6年の孫から、「どういうこと?」と質問されました。
    仏教には「人間は三回生まれる」という話があります。1回目は出生による誕生です。2回目が「自我意識」の誕生です。それまでは「私は」「私が」という「自我」はなく、純真で空っぽです、小ざかしさがないからかわいいのです。
    自我意識は段階的に発達します。一才半ぐらいで自分というものを認識するようです。「〇〇ちゃん」と名前を呼ばれて「それって自分のこと?」と認識するようになります。それが「自我(意識)」の誕生です。そした、他人から見られた自分も意識するようになります。
    3回目の誕生は、仏教的な誕生です。それまで自己中心的に外の事象を見て、好き嫌い、善悪、損得、勝ち負けで二元的(相対的)に見ていたのに、それが迷いを繰り返しているだけの空過流転の虚偽であったと目覚めるのです。
    生命の起源をたどると、私たちは生命の歴史37億年の連鎖の最先端にいて、身体はこれまで食べたり飲んだり呼吸したもので作られ、人間関係や社会から学んだ知恵によって生活をしています。自分は宇宙全体と無限に関係して常に変化している無我・無常の存在であるという目覚め、仏の智慧の働く場である浄土に立っている自己を発見する誕生です。
    そこでは「私は」という自我意識中心の偏見や思い込み、好き嫌い、損得、勝ち負け、善悪、苦楽の思考は影を潜め結果として自我が空っぽになります。私の存在の背後にあるもの、今まで私を支え、生かし、育て、教育して、見守り、導いて、経験させてくれた無数の因や縁に気づきます。そして現在の状況を謙虚に受けとめ、物事を総合的に考え、少しでも良かれと思う方向に行動するのです。思いや感情に執われ振り回されるのではなく、自分の思いや感情に少し距離を置いて柔軟心で見ることができる存在の誕生です。
    仏の教えによって今日までの私になされた多くのご苦労を知る時、そのご恩に報いることを私の役割と自覚して、「これが私の果たすべき使命、いや、仏さんから頂いた仕事だ」と生き生きと取り組むのです。

逆なんです

2023-01-08
facebook名言の宝箱 さん曰く
逆なんです
仏教のなかには,
「托鉢」という行があります。
笠をかぶったお坊さんが、
手に鉢をもって家々を回り
お布施を頂くという行です。
お釈迦さまは、
托鉢に向かう弟子たちに、
こう言ったんです。
「お金持ちの家ではなく、
貧しい人たちの家を回って
托鉢をしてきなさい」
普通、
お布施をいただくんですから、
お金持ちのところに行くのが
常識ですよね?
しかし、
お釈迦さまの思いは
別のところにありました。
貧しい人がなぜ貧しいのか。
それは、
自分のためにしか
お金を使わないからであり
その人たちに
与える喜びを味わってもらう
機会を生みだすのが、
托鉢の真の目的だったのです。
友人の絵本作家の 
のぶみさんが
こう教えてくれました。
「神社のご神体が鏡なのは、
なんでだと思いますか?
鏡は、
『この世界はすべて逆なのだ』
ということを教えてくれているんです。
鏡に映すと、
右と左が逆になるように。
神社では、
お願いをしにくる人の願いが
叶うんじゃなくて、
神様の願いを
聞きにきてくれる人の願いが
叶うんです。
逆なんです。
神社で売られている
お守りもそう。
お守りに守ってもらおう
と頼る人が守られるのではなく、
このお守りを守ろう守ろう、
大切にしよう
と思う人が守られる。
逆なんです。
神様の願いを
聞きにきてくれる人というのは、
自分の願いだけを言いに来る人
ではなく、
みんなの幸せを願いにくる人
だそうです。
だから、のぶみさんは
神社ではこう祈っているそう。
「神様のお手伝いが
できますように。
日本が ちょっとでも
良くなるように、
がんばりますから」

《仏道をならふといふは、自己 をならふなり》 道元禅師

2023-01-06
《仏道をならふといふは、自己 
     をならふなり》 道元禅師
仏教を学ぶということは、 
自分とは何かという問いに対する答えを得るということです。本当の自己の発見です。見せかけの自己、うわべだけの自分というものの理解じゃなくて
自己そのものの正体の発見です。
その自己そのものの正体というのは、我々には、非常に深く隠れているんです
自分というものの正体は、 
絶対に自分の力ではわからないんですね
自分というものの正体は、道元の場合でも、親鸞聖人の場合でも、
仏の光に遇(あ)わなければ見えないものなんです。
 大峯顕師
  今日の宗教の可能性より.79頁

善導大師 (AD613~681年・唐代の僧) の『往生礼讃』に、

2022-12-26
facebook 伊勢谷功さん曰く、「前念命終・後念即生」という言葉があります。
善導大師 (AD613~681年・唐代の僧) の『往生礼讃』に、「前念命終・後念即生」という言葉があります。
これを、曽我量深師は、「信に死し、願に生きよ」と言われました。
「死して、生きる」これが「往生」ということです。
そして、最初の「前念・後念」の「念」は「念佛」ということです。
また、「後生」とは、「前念命終・後念即生」の後半にある「後念即生」ということです。
内館牧子•作『終わった人』という小説が、先年映画化されました。
アクション俳優・舘ひろし主演の東映映画です。
一流大学を出て、大手銀行に勤めた主人公が定年退職して「終わった人」になってしまった、というところからこの物語は始まります。
この映画を、まだ私は観ていませんが、そのうち観ようと楽しみにしています。
主人公の田代壮介を演ずる舘ひろしは、テレビドラマ『西部警察』などで活躍した俳優ですから、この映画の主人公「終わった人」は、やがて、終わってなどいられない出来事に巻き込まれて行くのだろうか?    などと想像して、あとの展開が楽しみですが、おそらくこの「終わった人」には、実は続きがあって、人間はなかなか「終わった人」にはなれない。
いわば、彼は「まだ続きのある人」であつたという「結末」なのかなと想像したりしています。
しかし、私たちの人生においては、それは決して「結末」ではありません。
現実には、終わってはいない「続きのあった人」で、しかも誰もが、最後には「死」によって、必ず「完全に終わった人」になるのです。
それが、実際の現実の「結末」なのです。
しかし、そのような、「死が結末であるような人生」からは、「信に死し、願に生きよ」ということは、決して出てきません。
善導大師が言われる「前念命終・後念即生」ということから言えば、「信に死する」ことによって、初めて「願に生きる」人生が始まる、ということです。
釈尊が、35歳で悟りを開かれたとき、「我が生(しょう)已(すで)に尽き、梵行(ぼんぎょう)已(すで)に発(た)つ」(成道の宣言)
「私の、今までの人生は終わった。今ここから、真実の人生が始まるのだ」と言われました。
つまり、悟りを開かれた釈尊にとって、この言葉は、「真実を悟る以前までの生き方は、捨て去るべき迷いの人生であって、真実を悟ることによって初めて、自分自身にとっての本当の人生が始まるのだ」という「佛陀釈尊の宣言」であったということです。
誰も彼もが、あちこち「隣り村」を物色して歩いている内に、「老苦」や「病苦」を得て、やがては、どこにも居場所が無くなって「粗大ごみ」のようになって、ついには「死苦」の中で消えて行くしかない、そのような人生を、まだ間に合うあいだに、早く「卒業」して「本物の終わった人」にならねば、「後生(後念即生)」は始まらないということです。
言い換えれば「生き方の一大方向転換」ということです。
この意味で、「前念命終」とは、本当の意味での「終わった人」になる、ということであり、その一点から、「後生とは何か?」という、次の課題が提起されてくるのです。
私たちには「隣り村」への誘惑はなかなか尽きませんが、一言でいえば、「生命より大事なものが見つかる」ということが、「隣り村」への誘惑を離れる第一歩ではないでしょうか?
個々の生命が一番大事だという前提から、生き物は、生命を守るために何でもやってきました。
生き物は、人間に限らず、自分の生命より大事なものが見つかって初めて、その「自分の生命より大事なもの」のために、自分の生命を差し出すことができるのだと思います。
子のため親のため、先祖のため子孫のため、国家のため人類のため …… 。
いろいろ考えられますが、自分の「生命より大事なもの」が見つかりましたでしょうか?
「個々の個体の生命」より「種の保存」が最優先される生き物(動植物)にとっては、個々の個体は「繁殖」のために存在するものとして、存在そのものの中にすでに刷り込まれています。
これは、単純な生物ほど本能的で顕著です。
これが、人間の知恵が突きとめた「生物学」における「答え」です。
同時に、そのような結論に満足して、生き死にして「終わってはいけない」のが人間です。
このように、人間の知恵がたどりついた「答え」では満足できない「問い」を持ってしまったのが人間なのです。
それは「人間は何のために生きるのか?」という、すでに答えが出てしまっている、その「科学的な答え」には満足できず、さらに「生きる意味」を問う、人間ならではの「問い」なのです。
この知恵を持って以降、私たち「アダムとイブ」の末裔は、楽園を失なって生きて来たのだと、人間が「人間の知恵」を持ったことへの救いのない矛盾と不幸を『旧約聖書』は教え示しているのではないでしょうか?
人間が人間の知恵によって到達した「人間自身が存在する意味」は、人間を「現象(自然現象)」の一環として解明し、みずからを「ニヒリズム」の深淵にまで追い込んでしまいました。
そして、「科学」ではなく「宗教」こそが、この難問に如何に答え得るかを、私たちは「現代」という時代から問い質(ただ)されいるのだと思います。
まさに、「宗教」みずからが、現代社会に存在する意義を自任しているのならば、その「宗教」は、この問いに答える使命を担わされているといわねばなりません。
曽我量深師 (1875年〜1971年)

流転三界の偈

2022-12-10
清信士度人経(せいしんじどにんきょう)
流転三界中
 (=るてんさんがいちゅう)
恩愛不能断
  (=おんないふのうだん)
棄恩入無為
(=きおんにゅうむい)
真実報恩者
  (=しんじつほうおんしゃ)

清信士度人経(せいしんじどにんきょう)
「流転三界の偈」と称し、剃髪式等にとなえる偈文です。
迷いの世界にいつまでも流転して、その生死を離れることができないのは、恩愛にほだされて、これを断ち切ることができないからです。
この断ち難い恩愛をよく見極めるのに、念仏にまさるものはないのです。
念仏の人は無為自然の涅槃のさとりに入れるのです。
これこそ本当に大悲の恩徳におこたえした人です。
    聞思抄より


中村元先生のページ

公益財団法人 中村元東方研究所 東方学院

2021-09-08

理念

1〈人間〉の回復をめざし
公益財団法人中村元東方研究所を母胎としてここに『東方学院』を開設しました。
『東方学院』は本学院の理想に賛同する学者個人とそのもとで学ぼうとする学徒とによって構成される共同体としてのグループの連合です。
〈個人指導の場の共同体〉とでもいうべきものをめざしています。

 

The Toho Gakuin (The Eastern Academy) was established with the hope of contributing to the restoration of human integrity.
This Academy is a cooperative body of various academic communities of scholars and students wishing to learn, in which scholars provide personal guidance to the students.
Above all, our aim is to have this Academy be the rallying point for students and scholars.


創立者 中村 元
(1912-1999)

東京大学名誉教授
日本学士院会員
文化勲章受章
勲一等瑞宝章受勲

東方学院は1973 年、インド哲学・仏教学者の中村元によって、真理追究を目的とする学問本来の姿に立ち帰り、「人間の回復」をめざして設立されました。
それから40 年余。この理念に賛同する諸方面からの支援者、協力者、また多数の優れた講師陣を迎え、多くの方々の善意と学問への熱意により支えられ発展して参りました。

東方学院設立の経緯と意義

 東方学院は、創立者中村元の東京大学退官とともに、昭和45年11月に文部省より財団設立の認可を受けた財団法人東方研究会(現、公益財団法人中村元東方研究所)を母胎として、昭和48年に設立されました。

 その大きな動機は、当時、大学に吹き荒れた学園紛争にともない、学術的には減退傾向にあり、また精神的な砂漠化のさなかにあって、学術的精神的な拠点となりうる、小さくともしっかりした学院をつくることにありました。そして学問の自由を制約することになる縄張り意識の強いセクショナリズムを廃して、真理探究を目的とする学問本来の姿を回復するためでありました。

大学の外につくることでセクショナリズムを脱し、またカルチャー・センターとも異なる一種の私塾、つまり現代の「寺子屋」として出発しました。真に教えたい一人と真に学びたい一人が集まれば学院は成り立つ―これが創立者・中村元の信念であり、まさに東方学院の原点といえます。
 幸いにも、このような考えに同調し、協力を申し出る人々が集まり、学院は開講されました。狭いビルの一角を間借りし手弁当を持ち寄って、文字どおりの「寺子屋」が始まったのです。

 しかし、財団の基盤を強固にし、学院を発展させていくためには、しっかりとした学問研究の場所を確保する必要がありました。そこで、創立者の私財をもとに、財団設立に協力して下さった篤志家の方々が、昭和57年「財団法人東方研究会強化募金運動」を開始されました。一高時代の同窓生(「昭8文乙クラス会」のメンバー)である中村敏夫弁護士をはじめとして、同じく星埜保雄、宇佐見鉄雄、倉知善一、新井正明氏らが発起人となり、その資金集めから場所の確保にいたるまで実に並々ならぬご尽力を下さいました。そのおかげで、諸方面から多数の賛同者・協力者を得ることができ、現在のこの場所を入手するにいたりました。東方学院は、これらの人々によって築かれた土台の上に、今日成り立っております。

 以来、当学院は、優れた数多くの講師を迎え、多くの方々の善意と学問への熱意によって支えられ発展して参りました。

 今後も創立者の遺志を継承し、初心を忘れることなく、ますます発展していきますことを心より念願しております。

 

公益財団法人中村元東方研究所
故名誉理事長 中村洛子
(1919 ~ 2010)

公益財団法人 中村元東方研究所

2021-09-08
© 2021 公益財団法人 中村元東方研究所 東方学院 • Powered by GeneratePress

ごあいさつ

慈しみの心を受け継いで

東方学院長 前田專學

  科学技術の発展を追い求めるあまり、人間の心の問題を軽視する風潮が顕著です。
科学では決して答えの出ない「如何に生きるべきか」を考えるため、東方学院は存在しています。
創立者の中村元先生はインド哲学や仏教学のみならず西洋の思想、哲学にも精通した世界的巨匠でしたが、東西の思想の蘊奥を究め尽くして最後に到達したのが慈しみの心(慈悲)でした。
「真に教えたい一人と、真に学びたい一人が集まれば学院は成り立つ」という中村先生の信念から、東方学院はいわば現代の寺子屋として出発しました。
現在は、報酬の有無を度外視して指導に当たる65名の先生方と、年齢、性別、学歴に関係なく集まった約350名の研究会員(現役大学生から90歳の方まで)が、先生の理想を継承すべく、日夜、研鑚しています。
一人でも多くの方にこの集いに加わっていただけますよう、心からお待ちいたしております。


東方学院長 前田專學

東京大学名誉教授
史跡足利学校庠主
日本学士院賞受賞
勲三等旭日中綬章受勲
パドマ・シュリー勲章受章

 http://www.toho.or.jp/

公益財団法人中村元東方研究所・東方学院
◇ 設立 1973年
◇ 創立者 中村 元
◇ 理事長・学院長 前田 專學
◇ 講師約 65名
◇ 研究会員 延べ約350名
◇ 教室 東京、関西、中部


中村前庠主は、インド哲学仏教学・比較思想の領域における国際的に著名な巨匠でした。 昭和48(1973)年東大名誉教授、文化勲章受章、海外からも数々の栄誉を得られました。2011/12/06

仏教の本質 哲学者「中村元」

2020-04-13
中村元は、仏教・インド哲学の巨匠。
 漢文からの翻訳が中心だった仏教研究を インドの古代思想にまでさかのぼり 初めて原始仏典を現代語に翻訳しました。


https://youtu.be/NWZtkxP3eGg

釈尊の生涯と教え

2020-04-19
中村元 - ブッダの生涯 【HD】
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