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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

「死にたければ、勝手にせよ」

2025-12-30
普段は温厚で、感情をあらわにすることのなかった昭和天皇。
Facebook トリビア見聞録さん曰く
「死にたければ、勝手にせよ」
普段は温厚で、感情をあらわにすることのなかった昭和天皇。その冷徹な一言が、国家を揺るがした反乱軍の息の根を完全に止めた。
1936年2月26日、雪に覆われた帝都・東京を、銃声と怒号が切り裂いた。「昭和維新」を掲げた陸軍の青年将校たちが、約1500名もの兵を率いて決起。首相官邸などを占拠し、政府要人を次々と襲撃した、クーデター事件「二・二六事件」である。
この報に、昭和天皇は激怒した。それは、単なる政治的な混乱に対する怒りではなかった。天皇が深く信頼を寄せていた高橋是清ら重臣たちが、次々と凶弾に倒れたからだ。
「朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当る」
そう宣言し、自らが出撃するほどの凄まじい剣幕を見せた天皇。その怒りの前で、反乱を黙認しようとしていた軍上層部も、ようやく鎮圧へと動き出す。
追い詰められた反乱軍。事件後、首謀者の一人であった安藤輝三大尉の上官、山下奉文は、彼らに自決の機会を与えるよう天皇に懇願した。「彼らに勅使を賜り、死出の光栄を与えてはもらえないか」。それは、武士としての名誉ある死を願う、せめてもの温情だった。
しかし、天皇の答えは、非情なまでに断固としていた。
「いかなる理由があろうと、叛軍は叛軍である。自決するならば勝手にさせるがよい。勅使など、もってのほかだ」
そして、冒頭の言葉が続く。
「死にたければ、勝手にせよ」
「君臨すれども統治せず」を貫いてきた天皇が、国家秩序と自らの統帥権を脅かす者たちに、唯一見せた烈火の如き怒り。その揺るぎない一言は、全ての同情論を断ち切り、日本の運命を決定づけたのである。

絵『國之楯』

2025-12-17
【特集】陸軍が受け取りを拒否した絵『國之楯』 当初は『軍神』と題した作品に従軍画家「小早川秋聲」が込めた思いは(2021年9月3日)
https://note.com/mutukawa34413/n/n54a98659ccb5

小早川秋聲『國之楯』息をのむ一枚~戦争画よ!教室でよみがえれ⑲


【戦争画と藤田嗣治】
「生きて帰らねば、絵を描くために」 戦地に散った画学生47人 遺された絵画が伝えるもの【RSKドキュメンタリー】

戦後80年

2025-12-17
読売新聞 2025.12.17朝刊
【学芸員が解説】戦争画が伝える現代へのメッセージ 画家たちが戦争を描いた背景とは(2025年10月17日)
読売新聞 2025.12.17朝刊

アメリカの外交政策の歴史

2025-12-17
放送大学「アメリカ史:世界史の中で考える('24)」(テレビ授業科目案内)
BS放送大学より
第二次世界大戦前のアメリカの国内事情
第二次世界大戦後のアメリカの外交姿勢とその実現
1時間で分かるアメリカの歴史
【アメリカの歴史】新大陸発見から現代までをわかりやすく解説!
【トランプ大統領】大統領令に署名 合成麻薬「フェンタニル」を大量破壊兵器に指定

悪魔の兵器

2025-12-06
西日本新聞 2025.12.06朝刊です。

イデオロギーという抗(アラガ)い

まだ闘っておられましたが・・・

2025-10-06
西日本新聞 2025.10.06 朝刊です

日本赤軍元幹部の出所風景に「愕然とした」 イスラエル大使が怒り「理性あれば祝福できない」

2022-06-02
© J-CASTニュース
J-CASTニュース 2022/06/02 15:39

日本赤軍の元幹部らが久々に公の場に姿を現したことが一部で温かく受け止められているとして、イスラエルのギラッド・コーヘン駐日大使が2022年5月31日、ツイッターで「愕然としました」と憤った。5月28日に重信房子元最高幹部(76)が20年にわたる服役を終えて出所し、30日に岡本公三容疑者(74)が逃亡先のレバノンで開かれた集会に姿を見せたことへの反応だ。5月30日は、1972年にイスラエル・テルアビブのロッド空港(現ベングリオン空港)で起きた乱射事件から丸50年にあたる節目の日だ。岡本容疑者は実行犯のひとりで、コーヘン氏は「理性ある人なら、26人の罪のない民間人の殺害に関与した人々への支援を表明し、祝福することはできないはず」だと訴えた。

パレスチナ側、重信元最高幹部は「生涯の同志」

コーヘン氏のツイートでは、重信元最高幹部や岡本容疑者の動向を伝えるツイートを貼り付け、

(以下引用)「1972年にロッド空港で発生した乱射事件から50年を記念する集会に参加した岡本公三容疑者、および先週末出所した重信房子元最高幹部が温かく迎えられる姿を見て愕然としました」(以上引用)と書き込んだ。貼り付けられたツイートのひとつが「パレスチナ青年運動」(PYM)のものだ。そこでは「重信房子がついに自由の身に」とうたい、重信元最高幹部を「日本の自由の戦士」で「パレスチナ人と闘争の生涯の同志」だとたたえている。

コーヘン氏は、乱射事件の現場写真つきで

(以下引用)「理性ある人なら、26人の罪のない民間人の殺害に関与した人々への支援を表明し、祝福することはできないはずです。そしてそれは、事件から50年が経過した現在でも同様です」(以上引用)とも書き込んだ。

岡本容疑者出席の集会は

「テロ組織のメンバーであり、罪なき命を奪った4人の日本人を記念」

さらに、イスラエルの国会議員が、第二次世界大戦時にユダヤ人難民を救った日本人に感謝状を贈ったエピソードと、岡本容疑者が出席した集会が「パレスチナのテロ組織のメンバーであり、罪なき命を奪った4人の日本人を記念して開催」されたことを対比しながら、次のように主張した。

(以下引用)「もしもどういった道徳的価値観を重視すべきか迷うときには、どちらの側が平和を重んじて命を救う行為を敬い、どちらの側が戦争と暴力、そして命を奪う行為を敬うのかを思い出してください」(以上引用)

国内の一部には、コーヘン氏と問題意識を共有する論調もある。例えば産経新聞は5月31日付紙面の社説にあたる「主張」の欄で、「彼女はヒロインではない」の見出しで重信元最高幹部の出所を取り上げている。そこでは、

(以下引用)「いわゆる全共闘世代には郷愁を誘われる存在なのだろう。出所を扱う多くのニュースが『時代の象徴の生還』といった趣で報じた」(以上引用)と指摘しながら(以下引用)「彼女は決して時代のヒロインではない。改めて彼女が率いたテロリスト集団による、血塗られた凄惨な歴史を記憶すべきである」(以上引用)と断じている。

(J-CASTニュース編集部 工藤博司)

英雄・・・。

2022-05-31
© 朝日新聞社 レバノンの首都ベイルートで30日夕、パレスチナ人墓地で開かれた記念集会に出席し、
左翼組織「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」のメンバーらと笑顔をみせる岡本公三容疑者(中央下)
 レバノンの首都ベイルートにあるパレスチナ人墓地で30日、1972年のイスラエル・テルアビブのロッド空港での乱射事件から50年の記念集会が開かれた。実行犯の一人で、レバノンに政治亡命している元日本赤軍の岡本公三容疑者(74)が支援者に付き添われて現れた。

 イスラエルからのパレスチナ解放を求める左翼組織「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」が主催した。PFLPは岡本容疑者をパレスチナに自らの身を捧げた人物として英雄視しており、身の回りの世話などの支援を続けている。

 岡本容疑者は2000年に政治亡命を認めたレバノン政府から政治活動などを制限されていることから、公の席上に姿を現すのは極めて異例だ。PFLPによると、最近は一時入院するなど、健康状態の悪化が指摘されていた。

近影です。

◎クアラルンプール事件で過激派5人を釈放

2022-06-26

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1975(s50)年】-4
◎クアラルンプール事件で過激派5人を釈放
*1975.8.4/ 日本赤軍がマレーシアのクアラルンプールにある米・スウェーデン両大使館を占拠、赤軍派など7人の釈放を日本大使館に要求する。5日、政府は超法規的措置として出獄を承知した5人を釈放する。
 1975(s50)年8月4日、武装した日本赤軍のメンバー5人が、マレーシアの首都のクアラルンプールにある、アメリカとスウェーデン大使館を襲撃占拠し、館内にいたアメリカの総領事ら52人を人質に取った。犯行に及んだ武装赤軍派は、人質と交換で、拘束されている赤軍派メンバー等の釈放を要求した。当時の三木内閣は「超法規的措置」として、参加意思がある5名を釈放した。
 釈放要求は7人だったが、坂口弘と松浦順一は拒否したため、坂東国男、佐々木規夫ら5人が釈放され海外に逃亡した。この事件で仲間の奪回に成功した赤軍派は、さらに1977年のダッカ日航機ハイジャック事件などをひき起こす。クアラルンプール事件犯行グループの一員だった奥平純三は、後に逮捕されるも、'77年のダッカ事件での人質との交換で釈放され、釈放後さらに海外で何度もテロ事件をひき起こし、現在も国際手配中となっている。
 このような日本政府の弱腰は、かえってテロリストのターゲットにされ易く、批判の対象ともなった。釈放された5人のうち2人は後に逮捕されたが、坂東国男・佐々木規夫・松田久は、実行犯の奥平純三とともに国際手配されている。
(この年の出来事)
*1975.5.19/ 前年来の三菱重工ビルを始めとする連続企業爆破事件で、警視庁は容疑者8人を逮捕する。
*1975.7.17/ 皇太子夫妻が沖縄を訪問し「ひめゆりの塔」の参拝中、過激派から火炎瓶を投げつけられる。
*1975.7.19/ 沖縄国際海洋博覧会が開催される。
*1975.11.15/ フランスのランブイエで、第1回主要先進国首脳会議(サミット)が開催される。

天誅、軍閥1

2020-12-20
*1974.8.30/ 東京丸の内の三菱重工本社ビルで時限爆弾が爆発、8人が死亡する。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1974年(s49)】
◎三菱重工本社ビル爆破事件
*1974.8.30/ 東京丸の内の三菱重工本社ビルで時限爆弾が爆発、8人が死亡する。
 1974(s49)年8月30日午後1時前、東京丸の内の三菱重工本社ビルで時限爆弾が爆発し大惨事となった。この爆発の衝撃で1階部分が破壊され、玄関ロビーは大破、建物内にいた社員が殺傷された。さらに表通りには、爆発の衝撃で破壊されたビルの窓ガラスの破片が降り注ぎ、多数の通行人が巻き込まれ死傷した。
 この爆発の爆風と飛び散ったガラス片等により、三菱重工とは無関係な通行人を含む死者8人、負傷者376人を数える戦後最悪の爆弾テロ事件となった。爆発物は一階フロア脇に仕掛けられ、その場所に直系30cmの穴が開くほど強力なもので、自衛隊によると、敵軍を食い止めるため道路を破壊する20ポンド爆弾より強力なものだとされた。
 爆発の少し前に、三菱重工ビルの電話交換手に、三菱重工に時限式爆弾を仕掛けたとの予告電話が掛かってきた。最初は悪戯だと思いすぐに切ってしまい、再度かかってきて話を聞いた電話交換手は、半信半疑のまま上司に連絡に立った時に、すぐ爆発が起こり、社内に避難処置が為されままだったのが、被害を大きくした理由でもあった。
 1974年9月23日付けで、「東アジア反日武装戦線“狼”」という名前で犯行声明が出された。予告電話がぎりぎりで、しかも爆弾の威力が過大だったため、予想以上の死傷者を出したためか、犯人グループ内で意見が分かれ、犯行声明を書き換えたりしていて、かなり遅くなってしまったようである。
 犯行声明では、三菱は戦前から戦後の今まで、一貫して日帝(日本帝国主義)の中枢として機能しており、その三菱を筆頭とする日帝の侵略企業に攻撃を加えるためのダイヤモンド作戦(三菱爆破作戦)であると宣言した。そして、三菱と無関係な犠牲者も、日帝に寄生する植民主義者であると、無理やりにこじつけている。
 その後も、1974(s49)年8月から1975(s50)年5月にかけて、東アジア反日武装戦線は、アジア侵略に加担しているとされた企業に対し断続的に爆破事件を起こした。これらの実行声明には、「狼」以外に「大地の牙」「さそり」といった名前が書かれ、三つの実行班を作って分担していたもようだ。
 特別捜査本部は、当初からアナキズム思想の「極左暴力集団」による犯行とみていたが、アイヌ人解放など「東アジア反日武装戦線」と革命理論が酷似しているとして、新左翼評論家として活動する太田竜を、別件容疑で拘束したが、太田が直接かかわってることがないと判明し、それに近い思想的人脈の人物を監視し続けていた。
 その過程で、反日武装戦線メンバーの齋藤和・佐々木規夫が浮上、それから芋づる式にグループの他のメンバーが把握されていった。1975(s50)年5月19日、主要メンバー7名(大道寺将司・大道寺あや子・佐々木規夫・片岡(益永)利明・斎藤和・浴田由紀子・黒川芳正)が逮捕され、一斉逮捕を逃れた宇賀神寿一と桐島聡は全国指名手配となった。
 裁判ではリーダー格の大道寺将司と片岡利明が死刑確定、佐々木規夫・大道寺あや子・浴田由紀子はその後の赤軍派ハイジャック事件での解放要求で海外に逃亡、浴田はその後逮捕されたが、佐々木・大道寺あや子は逃亡中のまま国際指名手配中。斎藤は逮捕時に服毒自殺した。
 東アジア反日武装戦線は、他の過激派セクトと一線を画し、デモなど表立った活動はせず、ひたすら爆弾テロに徹し、「狼、大地の牙、さそり」など不気味な言葉を使い、「腹腹時計」という爆弾製造マニュアルの小冊子を出すなど、姿の見えない活動が恐怖を呼んだ。思想的にもアナーキスト系とされ、共産主義革命を目指す過激セクト新左翼とは異質だった。
(この年の出来事)
*1974.1.31/ 日本赤軍とPFLPのゲリラがシンガポールにあるシェルの製油所を爆破、2.6には別のゲリラがクウェートの日本大使館を占拠、日本政府が要求を受け入れ用意した脱出機で、南イエメン経由で逃亡する。
*1974.8.15/ 韓国の光復節記念式典で、朴大統領が狙撃され、夫人が死亡する。
*1974.10.8/ 佐藤栄作前首相が、ノーベル平和賞を受賞。

時代への抗(アラガ)い

1963年11月9日 三池・三川炭鉱で炭じん爆発事故

2020-11-09
【時事通信社】
福岡県大牟田市の三井三池鉱業所三川鉱の坑口から約500メートル付近で大爆発が発生。戦後最悪となる458人の犠牲者と839人の急性一酸化炭素中毒患者を出した。送炭ベルト原動機付近にたまっていた炭じんが、摩擦熱か電気のスパークにより引火、爆発したとされる。写真は同僚らに運び出される遺体

記念展示情報

2025-11-15
讀賣新聞 2025.11.15朝刊

「国鉄三大ミステリー事件」

2020-11-04
下山事件
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1949年(s24)】
◎列車恐怖時代
*1949.7.5/ 下山定則国鉄総裁が、登庁の途中で行方不明となる。6日、常磐線の北千住-綾瀬間の線路上で轢死体となって発見される。(下山事件)
*1949.7.15/ 中央線の三鷹駅車庫から無人電車が暴走し、6人が即死する。(三鷹事件)
*1949.8.17/ 東北本線の金谷川-松川駅間で旅客列車が脱線転覆、3人が死亡する。(松川事件)
 この一ヵ月余りの間に、関東・東北の国鉄線で「下山事件」、「三鷹事件」、「松川事件」という重大事故が相次いで発生した。これらは戦後の「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれ、一部容疑者は逮捕され有罪判決も下りたが、事件全貌の解明はほとんどなされなかった。
 7月5日、日本国有鉄道(国鉄)が発足し、その初代総裁に就任したばかりの下山定則が、出勤途中で失踪し、翌未明、国鉄常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間の線路上で轢死体として発見された。行方不明および死亡の理由は不明であり、自殺説・他殺説両方が飛び交ったが、事故原因は未解明のままに終わった。一部新聞が「鉄道マンは鉄道自殺をしない」と報じるなど、他殺事件説も強く示唆された。(下山事件)
 10日後の7月15日夜には、国鉄中央本線三鷹駅構内で、7両編成の無人電車が暴走、車止めを突き破って脱線転覆した。事故では、突っ込まれた商店街で一般人6名が即死、負傷者も20名出す大惨事となった。国労組合員で日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士竹内景助らが、ストライキから革命を引き起こすために行った共同謀議による犯行として逮捕された。裁判は二転三転する迷走を続け、最終的に竹内による単独犯行とし、死刑判決が下された。竹内は無実を訴え続けたが、のちに45歳で獄死する。(三鷹事件)
 8月17日未明、東北本線松川駅 - 金谷川駅間のカーブ入り口地点で、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続車両も脱線し、機関車の乗務員3人が死亡する事故が発生した。現場検証では、付近の線路を固定するボルト・ナットや犬釘が、緩められたり抜かれたりしているのが発見された。捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対していた東芝松川工場労働組合と国鉄労働組合構成員の共同謀議による犯行と見て捜査を行った。
 元国鉄線路工の少年の自供から、東芝労組員や国労組合員の合計20名が逮捕された。一審判決では被告20人全員が有罪うち死刑5人という判決が下されたが、裁判が進むにつれ捜査機関による重要証拠隠蔽などが明らかになり、10年以上に及ぶ5回の裁判の結果、最終的に被告全員に無罪判決が確定した。(松川事件)
 戦後のGHQによる解放路線のため、共産党員や労働組合の活動が自由化されたが、それらが想定を超える過剰な運動になったため、いわゆる「逆コース」により締め付けが厳しくなっていた。またドッジライン施行による「安定恐慌」により、国鉄をはじめ大手企業では合理化のための大量解雇が頻発していた。そんな背景の下で、一部左翼活動は地下に潜り先鋭化する一方で、警察やGHQなどの特務機関が暗躍するなど、目に見えない地下の流れが渦巻いていた。そのような背景の下で連続して起こった奇怪な国鉄事故であった。
(この年の出来事)
*1949.4.4/ 北大西洋条約機構(NATO)が発足する。
*1949.5.23/ ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発足、10.7にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツは東西に分断される。
*1949.5.31/ 行政機関職員定員法が公布され、28万人以上が整理対象となる。
*1949.7.4/ 国鉄が、定員法による人員整理で、第1次3万700人、第2次6万3000人に通告する。
*1949.10.1/ 毛沢東が北京で、中華人民共和国の成立し、ソ連が承認する。
*1949.11.24/ 銀座の金融業「光クラブ」経営の東大生が、資金繰りに行き詰まり青酸カリで自殺する。(光クラブ事件)

90年が経ちました。

2025-10-29
讀賣新聞 2025.10.29朝刊

地下鉄サリン事件から3月20日で27年がたつ。

2022-03-20

Facebook 時事通信社さん曰く


地下鉄サリン事件から3月20日で27年がたつ。日本の首都・東京の地下鉄で、月曜日朝の通勤時間帯に化学兵器のサリンが同時多発的にまかれ、乗客や駅員13人が死亡、約6300人が重軽症を負った未曽有の事件は、世界中に衝撃を与えた。今でこそ、事件は「テロ組織」と呼称するにふさわしいオウム真理教による事件であることは誰もが知るところだが、そもそも日本の行政当局が宗教法人として認証した宗教団体が、なぜそのような事件を引き起こしたのか。それが日本征服を目的とした全体計画の「前哨戦」にすぎなかったことを、現在どれだけの日本人が理解しているだろうか。(作家・ジャーナリスト 青沼陽一郎)

文民の闘い

全世界の軍事費の対GDP比率ランキング | GTC

2025-10-25

           世界平均値と中央値

軍事費の対GDP比率の世界平均値と中央値についてお伝えしていきます。

軍事費の対GDP比率の世界平均値

軍事費の対GDP比率の世界平均値は、2.19%です。

※この平均値は、2023年のworldbank.org調査データで確認できる147カ国の合計値「321.80714710059%」を国数で除算して算出しています。

軍事費の対GDP比率の世界中央値

軍事費の対GDP比率の世界中央値は、1.57%です。

※この中央値は、2023年のworldbank.org調査データで確認できる147カ国の値より算出しています。

世界地図で見る軍事費の対GDP比率の推移も要チェック!

新しく、マップ上で統計を可視化した世界地図で見る統計シリーズを公開しました。

軍事費の対GDP比率にも対応しており、世界各国の290件以上の統計データを地図上で見られるようにしています。

特に、過去から現在までの軍事費の対GDP比率の推移を可視化した部分は必見です。

地図で見る軍事費の対GDP比率の推移(全世界の国別階級区分図/マップ) | GTC

ヒトラー独裁から「学ぶ」

2025-11-04
西日本新聞 2025.11.04朝刊

25年で1/10になりました。

2022-07-04

Facebook 時事通信社さん曰く


香港の中国返還から25年。この間に中国は急速な経済成長を遂げ、米国に次ぐ世界2位の経済大国に浮上しました。1997年に中国の2割近かった香港の経済規模は、2021年には約2%へ縮小。香港の存在感が低下しています。

クアッド首脳会合 首相、議長会見全文(上)「4カ国一致して発信は大きな意義」

2022-05-25
© 産経新聞 日米豪印首脳会合で会見に臨む(左から)岸田文雄首相、オーストラリアのアルバニージー首相、バイデン米大統領、インドのモディ首相
=24日午後、首相官邸(萩原悠久人撮影)
2022/05/24 17:23

岸田文雄首相は24日の日米豪印4カ国の協力枠組み「クアッド」の首脳会合後、官邸で議長会見に臨んだ。全文は次の通り。

◇首相 本日、バイデン米大統領、インドのモディ首相、そして豪州のアルバニージー首相を東京に招き、私が議長を務め、対面では昨年9月以来2回目となる日米豪印首脳会合を開催した。4首脳の間でウクライナ情勢がインド太平洋地域に及ぼす影響について率直な議論を行い、インドも参加する形で、ウクライナでの悲惨な紛争について懸念を表明し、法の支配や主権および領土一体性などの諸原則はいかなる地域においても守らなければならない。こうしたことを確認した。また、今月に入っても弾道ミサイルを立て続けに発射し、核ミサイル活動を活発化させている北朝鮮についても議論し、北朝鮮の完全な非核化に向けた連携で一致するとともに、深刻化している北朝鮮の新型コロナウイルスの感染状況については、地理的空白をつくらない。こうしたことについても議論があった。(北朝鮮による日本人)拉致問題の即時解決の必要性についても4カ国で一致した。このほかにも、東・南シナ海における一方的な現状変更の試みへの深刻な懸念やミャンマー情勢への対応とインド太平洋地域の情勢についてもしっかりとした議論を行った。日米豪印は自由で開かれたインド太平洋の実現のため、幅広い分野で実践的な協力を進める場だ。これまで取り組んできたワクチン分野の協力では、クワッドワクチンの供給に向けた前進やJBIC(国際協力銀行)とインド輸出入銀行での総額1億ドルの医療セクターへの支援に係る融資契約の調印を含め協力が進展している。

インフラ分野では、インド太平洋地域において今後、5年間で500億ドル以上のさらなる支援、投資をめざしていくことを発表した。また、債務問題に直面する諸国の能力強化に取り組むことで一致した。インド太平洋地域は自然災害が多く気候変動などに脆弱(ぜいじゃく)な国が多い地域だ。今回、宇宙分野で4カ国が保有する衛星情報を地域諸国に提供するという取り組みを立ち上げた。これは防災、気候変動対策、海洋資源の持続可能な活用などを含め、さまざまな目的に活用できるものだ。地域の自然災害に一層効果的に対応するため、人道支援、災害救援分野での4カ国の連携を強化するパートナーシップにも合意できた。さらに海洋安全保障の分野では地域諸国間の情報共有を促進する海洋状況把握の新たなイニシアチブを4首脳で歓迎した。ロシアによるウクライナ侵略という国際秩序の根幹を揺るがす事態が発生する中で今回このような形でバイデン氏、モディ氏、そして就任直後となったアルバニージー氏の参加を得て、力による一方的な現状変更をいかなる地域においても、とりわけインド太平洋地域で許してはならないこと。そして今こそ、自由で開かれたインド太平洋が重要であり、その実現に向け力を尽くしていくと4人のコミットメントを東京から世界に力強く発信することができたことは極めて大きな意義があると考えている。4カ国の協力は幅広い分野に広がり、さまざまなレベルでの協力が日々深まっている。今回、アルバニージー氏から来年の首脳会合を豪州において開催するとの提案があった。今後も自由で開かれたインド太平洋の実現に向けた4カ国の連携を一層強化していきたいと考えている。

--中国に対してはどのように連携していくのか。また、ロシアへの対応での温度差はなかったのか

首相 まず強調しておかなければならないことは、日米豪印のこの枠組みは、自由で開かれたインド太平洋の実現に向けてさまざまな分野で実践的な協力を進めるために幅広く議論を行う場であり、特定の国を対象したものではないことを今一度確認しておかなければならない。こうした場で議論が行われ、そのうえで今回の会合では地域情勢として、東・南シナ海における一方的な現状変更の試みへの深刻な懸念を含め、いくつかの地域情勢について率直な意見交換を行った。各首脳の発言について、具体的に私から紹介することは控えなければならないが、ウクライナ情勢を含め、法の支配や主権や領土の一体性などの諸原則の重要性については再確認することができた。また、力による一方的な現状変更はいかなる地域においても許してはならないという認識でも一致した。4カ国の首脳のメッセージを一致して世界に発信できたということは大きな意義があることだ。

【共同記者会見】岸田首相とバイデン大統領

2022-05-23
会談する岸田首相(右)とアメリカのバイデン大統領(東京都港区の迎賓館で)=代表撮影

23日、岸田首相と来日中のアメリカ・バイデン大統領による日米首脳会談が行われた後、両首脳が共同記者会見を行いました。 (2022年5月23日放送)

首相は防衛力の抜本的な強化のため、防衛費の「相当な増額」を確保する決意
岸田首相は23日、東京・元赤坂の迎賓館で、米国のバイデン大統領と会談した。ロシアのウクライナ侵略が、東アジアで覇権主義的な動きを強める中国に影響を及ぼすとの懸念がある中、日米同盟の抑止力と対処力を早急に強化する方針で一致した。首相は防衛力の抜本的な強化のため、防衛費の「相当な増額」を確保する決意を伝え、バイデン氏は歓迎した。被爆地・広島市で来年の先進7か国首脳会議(G7サミット)を開催する方針も表明した。 
日米豪印首脳会合 | 首相官邸ホームページ (kantei.go.jp)

闘いの歴史(そのルーツ)

帝国主義ということ

2020-12-01
アヘン戦争の場合
【アヘン戦争と大英帝国】

■①1830年■

 アール・グレイという紅茶の名前の由来ともいわれる「グレイ侯爵」は1830年にイギリス首相となる。
 1830年というと、フランスにおける七月革命の年である。
 フランスにおけるナポレオン後の王政復古から、自由主義的な考えを求めて起こった革命である。このときナポレオンの子孫であるルイ・ナポレオン(後のナポレオン三世)はスイス砲兵だったが、ナポレオン家再興の夢を抱いた。しかし、このときはまだ夢でしかなかった。
 この革命が波及して、ベルギー独立が起こり、さらにロシアのニコライ1世が国王を兼任していたポーランドで騒乱が起こった。このポーランド騒乱では、ニーチェが求婚をすることとなるルー・ザロメの父がロシア陸軍人として活躍し、ロシア皇帝ニコライ1世に注目され世襲貴族となり、陸軍のトップになる道に繋がっている。
 またイベリア半島においてもこの影響は波及してスペインにおいてはチャーティストの乱やポルトガルにおいても反乱が起こる。そしてこのイベリア半島の動乱の中1832年、初代日本駐在英国大使となるオールコックが軍医として派遣されている。このイベリア半島派遣後、軍医の道を諦めることによって、東洋への道が開かれる。
 このように1830年はナポレオンを倒したロシア・オーストリア主導によって築かれたウィーン体制の反発が起こる。王政によって抑圧されていた自由主義・国民主義が再燃した年であった。
 この動乱によりイギリスにおいては政権交代が行われ、グレイ伯爵が首相に選ばれたのだ。

■②外相パーマストン■ 

 このグレイ内閣の外相にパーマストンという政治家がいた。このパーマストンの強い意向によって、大英帝国と清国は戦争を行う事になる。
 グレイ伯爵から4年後、1834年にはメルバーンが首相となるが、パーマストンは外相を留任している。
 そして1836年、パーマストン外相は清国における支配を強めるため、チャールズ・エリオットを監察官として派遣することを決定した。
 当時、清国はイギリスとの外交は「広東」においてのみ許していた。ただ、イギリスは清国から「茶」を輸入していたが、一方的に清国に銀を流出することになってしまい、代わりにインド産のアヘンを輸出ることで銀を取り戻そうとしたのだという。
 しかし、清国側が、林則徐を欽差大臣として任命し、広東(当時は広東のみ清国は西洋との貿易を認めていた)に派遣し、強硬的にアヘンを締め出そうとしてきたのだ。
 こうして始まったのがアヘン戦争である。
 途中、チェールズ・エリオットに変わってポッティンジャーがパーマストンの命を受けて派遣され、徹底的に攻撃を仕掛け、1842年の南京条約を取り付けることでイギリスの有利な貿易が行えるようにした。

■③南京条約で集まってきたイギリス人■

 この南京条約を結んだポッティンジャーの通訳に、ジョージ・モリソンがいた。ジョージ・モリソンは、「モリソン号」事件の「モリソン号」の名前の由来となったロバート・モリソンの息子である。清国にキリスト宣教を行いに来た父の元で育ったので、清国との通訳として重宝されたのだろう。 
 また、ジャージ・モリソンのもとでは、ハリー・パークスが働いていた。父ロバート・モリソンによって感化され清国まできたドイツ人宣教師ギュツラフは、パークスの従妹と結婚していた。そのため、パークスは13歳のとき従妹を頼って清国まできていた。そして、中国語がある程度できるようになったので、通訳を志しジョージ・モリソンのもとで働いていたのではないだろうか。
 そして、ジョージ・モリソンもハリー・パークスもポッティンジャーと共に、南京条約が結ばれたコーンウォリス号にいたという。
 このジョージ・モリソンは、日英修好通商条約後、領事として日本にきた初代駐日英国大使オールコックの通訳として来日しており、オールコックと共に浪士に襲撃される第一次東禅寺事件(1861年)にあっている。
 またハリー・パークスもこの後アロー戦争に巻き込まれた後、オールコックの後の第二代駐日英国大使として来日している。
※ほとんど日本語版・英語版Wikipediaで調べて執筆。

松平容保

2021-02-24
松平容保
この写真は京都守護職時代(27~32歳、満年齢)の肖像写真で、彼が着用している陣羽織の生地は、初めて参内した時に孝明天皇から賜った「緋の衣」であり、これを陣羽織に仕立てたものです。
 孝明天皇から「緋の衣」を賜ったのは文久3年(1863)1月ですので、容保28歳(満年齢)の時です。彼は翌年(1864年)に京都守護職を免ぜられています(同年復帰。1867年に辞職)。
 この陣羽織を着用して馬揃え(軍事教練)の指揮に当たったといいます。また天覧の馬揃えが行われたのは文久3年(1863年)です。この写真は28~32歳の間に撮られたものでしょうが、あるいは天覧の馬揃え(28歳)の時に撮られたものかも?。
 容保は孝明天皇を敬愛し、孝明天皇も彼に何通もの御宸翰(ごしんかん、天皇の直筆)を与えています。

戦国の終わりと泰平の始まり

2021-02-18
Facebook佐々木信雄さんより
【17th Century Chronicle 1611-1615年】
◎大坂冬・夏の陣(豊臣氏滅亡)
*1611.3.28/ 豊臣秀頼が上洛し、二条城で大御所家康と会見する。
*1611.11.-/ 豊臣家の威信をかけた方広寺の大仏殿が完成する。
*1614.7.26/ 大御所家康が京都方広寺大仏開眼供養を目前にして、鐘楼の銅鐘に刻まれた「国家安康」という銘文に異議をとなえる。(鐘銘事件)
*1614.11.15/ 20万の徳川軍が大阪城攻撃に出陣し、大坂を包囲する。(大坂冬の陣)
*1615.4.4/ 京都所司代から豊臣方再挙計画を聞いた家康は、大阪攻めのたに駿府を出、再度の大坂征討の命を諸大名に下す。
*1615.5.8/ 徳川方が大阪城を総攻撃、豊臣秀頼とその母淀君が自害し、豊臣氏が滅亡する。(大坂夏の陣)
 1600(慶長)5年、徳川家康は関ヶ原の戦いに東軍の将として西軍に圧勝したが、この戦いは必ずしも豊臣対徳川という構図で戦われたものではなかった。秀吉のもとで五大老筆頭として実力を蓄えた家康に対して、文治派官僚の筆頭であった石田三成が、他の大老や奉行を引き込んで対抗しようとしたものであり、いわば豊臣政権内での主導権争いであった。
 したがって、事実上の実権は掌握した家康であるが、公的には豊臣政権に代わって徳川の政権を樹立したとは認証されない。現に、65万石にまで領地を削られたとはいえ、大坂城には秀吉の嫡子秀頼が幼少ではあるが豊臣当主として、淀君の後見のもとで健在であり、合戦で東軍についた豊臣恩顧の武将や、戦いに加わらなかった秀吉の遺臣などが、依然として隠然たる勢力を保持していた。秀頼元服の節には、家康が政権を豊臣に返上するとの期待も、まだ残っていたのである。
 1603(慶長8)年2月、家康は完成したばかりの京都二条城で征夷大将軍に就任すると、諸大名に命じて江戸城などの天下普請事業を担わさせ、その威光を知らしめすとともに、戦後の論功行賞を行い、大名の転封を実施して、安定した政権作りを始める。そして同年、継嗣秀忠の娘千姫を豊臣秀頼に嫁がせて懐柔をはかるとともに、1605(慶長10)年には、わずか2年で将軍を辞して秀忠に将軍職を譲る。
 これにより将軍職は、以後、徳川氏が世襲していくことを天下に示し、豊臣の世には戻らないことを知らしめた。秀忠の将軍就任時には、秀吉の正妻北政所(高台院)を通じて豊臣秀頼に上洛を求め、臣下の礼を取ることを求めたが、秀頼と淀君はこれを拒絶する。しかしここは、家康は事を荒立てずに自重した。
 1611(慶長16)年3月、後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。加藤清正・浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現した(二条城会見)。翌4月には、家康は在京の大名22名を二条城に招集、幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17(1612)年には、それ以外の東北・関東などの大名から同様の誓詞をとって、名実ともに徳川の政権を裏付けた。
 二条城の会見以後、浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正・池田輝政・浅野幸長・前田利長ら豊臣家ゆかりの大名が次々と亡くなり、豊臣家の孤立は深まった。それにともない、豊臣方と徳川方の対決姿勢は強まっていった。こうしたなかで、方広寺鐘銘事件が発生し、両家の対立は決定的となる。
 1614(慶長19)年、豊臣家が再建していた京の方広寺大仏殿がほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。この方広寺大仏殿の梵鐘の銘文に「国家安康」とあり、これは家康の二文字を分断して呪詛しているという言いがかりが付けられた。事の当否はともかく、これが大坂の陣の切っ掛けになったのは間違いない。豊臣重臣で方広寺再建の総奉行方であった片桐且元は、責任者として弁明を尽くすが取り合ってもらえず、返って徳川寄りの裏切りとさえ疑われた。
<大坂冬の陣>
 1614(慶長19)年10月、もはや関係修復不可能と考えた豊臣方は、旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手したが、かつて豊臣恩顧の諸大名には呼応するものが無かった。それでも秀吉の遺した莫大な金銀で浪人衆をかき集め、豊臣方の総兵力は約10万人となり、明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永ら五人衆がかき集められた部隊の指揮をとった。
 一方、幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結した。11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向い、先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行った。大坂の処方面に豊臣方が築いた砦は打ち破られ、豊臣方は大坂城に撤収して籠城策に収斂したが、その大坂城は徳川方20万の軍勢に完全に包囲された。
 真田幸村が主導する真田丸の戦い(12月3日・4日)では豊臣軍が徳川軍を撃退する事態が起こり、秀忠は総攻撃を提案するも、家康は慎重に事を運び、じわじわと大坂城のまわりに仕寄(塹壕の事)の構築を進めさせた。徳川全軍より一斉砲撃が始められると、豊臣方は近づいてくる徳川勢に火縄銃で対抗する。
 徳川方にも兵糧不足があり真冬の陣でもあったため、和議を提案するが、条件が折り合わず豊臣方は拒否する。しかし長期の籠城戦で疲労が蓄積するところへ、本丸の淀殿の近くに一発の砲弾が命中すると、一転して和議に応ずる事を決めた。以後、和議の交渉は徳川の一方的主導で進められた。
 12月20日に講和条件が合意し誓書が交換された。講和内容は豊臣家側の条件として「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊、南堀、西堀、東堀を埋めること」などで、これに対し徳川家が「秀頼の身の安全と本領の安堵、城中諸士についての不問」を約束した。
 和議に従って堀の埋立が始められたが、このとき徳川方は外堀だけでなく内堀まで勝手に埋め尽くしたとされる。ただし、これは和議での合意に基づくものであったという説もある。いずれにせよ、難攻不落の大坂城は天守を残して、ほぼ無防備にされたことになった。
<大坂夏の陣>
 1615(慶長20)年4月、大坂や京での浪人の乱暴・狼藉など不穏な動きの知らせが京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇や豊臣家の移封を要求する。 豊臣家が移封を拒否すると、徳川方は諸大名を鳥羽・伏見に集結させ、家康と秀忠がそれぞれ京に入り、各武将を集めて二条城で軍議を行った。この時の徳川方の戦力は約15万5千。
 山崎など北方の要所の警備を固めた上で、徳川軍勢は南方の河内路及び大和路から大坂に向かった。豊臣方も開戦準備を固めたが、形勢不利と見た浪人たちは大坂城を去るものが出て、豊臣家の戦力は7万8000に減少した。もはや大坂城での籠城戦では勝つ見込みが無いとし、野戦にて打って出て徳川軍との決戦を挑む事が決定された。
 戦端が開かれ、樫井の戦い、道明寺・誉田合戦、八尾・若江合戦、八尾・若江合戦、天王寺・岡山合戦などで、いずれも徳川方に打ち破られた。大坂城内に押し込められた豊臣勢には、堀を埋められて裸同然となった大坂城で、もはや殺到する徳川方を防ぐ術はなかった。城内でもあちこちで寝返りが発生し、城内に火を放って逃亡する者が出るなどして、火の手が上がった大坂城天守は、遂に灰燼に帰し落城した。
 秀忠の娘千姫は徳川の手で救出されたが、秀頼は淀殿らとともに自害し、ここに豊臣家は滅亡する。落城後の大坂城下では、豊臣残党のみならず、一般民衆まで斬殺・略奪の被害にさらされ無残であったという。
(この時期の出来事)
*1611.3.27/ 後陽成天皇が政仁親王(後水尾天皇)に譲位し、院政を復活させる。幕府の干渉への抗議の為とされる
*1611.11.-/ 貿易商角倉了以が、鴨川を分流して高瀬川の開削工事を開始する。
*1612.3.21/ 幕府は京都所司代と長崎奉行に命じて、キリスト教の禁止と南蛮寺破却を命じる。本多正純家臣でキリシタン岡本大八は、詐欺事件で火炙りの刑となった。
*1612.7.-/ 幕府は、風紀を乱す不良若者「かぶき者」の取り締まりに出て、その首領大鳥居逸兵衛ら多数を処刑する。 
*1612.9.27/ オランダ商館長が家康に、ポルトガルに領土の野心ありと告知する。
*1613.8.4/ イギリス東インド会社司令官ジョン・セーリスが家康に謁見し、英国王の国書を提出、通商を求める。
*1613.9.15/ 仙台藩主伊達政宗の命を受けて、遣欧使節支倉常長が、イスパニア国王に通商をもとめて月の浦港を出港する。
*1613.12.23/ 幕府が全国に向けて、金地院崇伝の起草によるキリシタン禁教令を発令する。
*1614.10.-/ キリシタン大名高山右近ら、キリシタン148名がマニラやマカオに追放される。
*1615.7.7/ 将軍秀忠が伏見城に諸大名を集め、武家諸法度13ヵ条を布告する。これには従来の徳川氏と諸大名の関係を、江戸幕府としての公的な政治体制に再編成する狙いがあった。

川中島の両雄

2021-01-19
信玄と謙信
Facebook亀山 紘さんより

武士の台頭

2022-07-04
平氏・源氏の興隆
Facebook 佐々木 信雄さん曰く

【12th Century Chronicle 1101-1120年】-1
◎平氏・源氏の興隆
*1101.7.7/ 源義家の子 源義親が九州を荒らしたため、追討官符が下る。
*1104.10.26/ 延暦寺僧徒と座主慶朝との争いで、源義家・義綱に延暦寺悪僧を逮捕させる。
*1108.1.29/ 源義親が配流先で出雲の目代を襲ったため、因幡守平正盛が追討を命じられ、討ち取った正盛は義親の首を下げて帰京する。
*1109.2.17/ 検非違使源義忠(義家の子)を殺害した罪で、叔父義綱を捕らえる。
*1110.3.27/ 出羽守源光国が、摂政藤原忠実の寒河江荘を侵す。
*1113.4.29/ 清水寺別当の任命をめぐって、強訴合戦(永久の強訴)を繰り返す延暦寺と興福寺の闘争を制止するため、平忠盛・源重時を宇治(対興福寺)に、源光国・平盛重を西坂本(対延暦寺)に派遣して、僧徒の入京を阻止する。
*1119.12.27/ 平正盛が、九州地方の賊 平真澄を討ち、その首を携え入京する。
<清和源氏>
 源氏には天皇を祖とする源氏二十一流があり、なかでも清和天皇からの流れをくむ氏族が「清和源氏」と呼ばれ、のちに歴史の舞台に登場する源氏の主流となった。清和天皇の曽孫にあたる「源満仲」が摂津国多田の地に源氏武士団を形成し、その子「頼光」・「頼親」・「頼信」がそれぞれ引き継いだ地名を冠して、「摂津源氏」・「大和源氏」・「河内源氏」と分派された。
 「河内源氏」の祖とされる「源頼信」は、嫡男「頼義」とともに、長元4(1031)年、東国で「平忠常の乱」を平定し、その後の河内源氏の東国での地盤を形成する。この乱の以後、坂東武士が河内源氏と主従関係を結ぶようになり、河内源氏が東国を支配下におき、武家源氏の主流となっていった。
 永承6(1051)年、陸奥での安倍氏の反乱(前三年の役)で、前任に代わって陸奥守となった「源頼義」は、嫡男「義家」とともに、途中苦戦するも、最終的には清原氏の支援を得て、陸奥を平定する。その功績により、頼義は正四位下伊予守、嫡男義家も従五位下出羽守に任じられ、中央での評価も高めた。
  永保3(1083)年、陸奥守として赴任した「源義家」は、清原氏の内紛に積極的に介入する(後三年の役)。義家は、清原家の養子である「清衡」を支援し、後三年の役を終結させるが、朝廷はこれを私戦とし、恩賞はなく、かつ陸奥守を罷免される。これは義家が陸奥守として貢納すべきものを、私戦に費やして、陸奥守としての職務を怠ったと見なされたためであった。
 動員した坂東武士への恩賞も義家の私財で賄ったが、これは結果的には義家が強い主従関係で関東に地盤を築く因となった。しかし以後10年間、義家は中央で地位を得る機会はなかった。やっと白河法皇から許されて、院昇殿を許される官位となった。
 その後も、弟義綱の方が中央で台頭して競合したり、次男の対馬守源義親が、鎮西において問題を起こしたりと、河内源氏棟梁として頭を悩ますことが頻発する。嘉承元(1106)年には、別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家の弟源義光と争いを起こすなか、源氏棟梁の義家は68歳で没する。
 その翌年には、隠岐に配流されていた源義親が、出雲国で再び騒乱を起こす。義親追討に源氏に適任が見当たらず、白河法皇は、因幡国の国守で院近臣でもあった「平正盛」に義親の追討を命じる。正盛は義親を討ち、源氏より平氏が院の信任を得るようになっていった。
 さらに天仁2(1109)年、河内源氏の棟梁を継いだ義家の息子義忠が暗殺される事件が発生、犯人は義綱と子の源義明とされ、義親の子「源為義」が義綱一族を追討し、家督は為義が継いだ。義光・義国や義忠の遺児河内経国、為義の子源義朝などは、関東へ下り勢力を蓄える。
 以後、「保元・平治の乱」を通じて、源氏・平氏一族が、それぞれ敵味方に分かれ、入り乱れて争った結果、平治の乱で「源義朝」が「平清盛」に敗れ、平氏の天下が訪れる。そしてやがて、義朝の遺子「源頼朝」が、関東に根を張った源氏の一族郎党に支えられ、平氏を追討して鎌倉幕府を開くことになる。
(この時期の出来事)
*1101.4.7/ 興福寺僧徒が金峯山寺僧徒と争い、堀河天皇と右大臣藤原忠実が制止する。
*1102.8.5/ 興福寺僧徒が蜂起したのに対し、白河法皇は宇治橋を破壊して入京を阻ませる。
*1102.9.3/ 東大寺で、東大寺と興福寺の僧徒が争う。
*1103.3.3/ 鬼神横行の妖言により、京中の人々が門戸を閉ざして閉じこもる。
*1104.3.-/ 延暦寺と園城寺(三井寺)の僧徒の争いが激化する。
*1105.2.15/ 藤原清衡が、平泉に最初院(中尊寺)を建立する。
*1106.6.-/ 田楽が流行し、人々が路上で踊りに熱中する。
*1111.-.-/ この頃「今昔物語集」が成立する。
*1119.3.25/ 白河法皇が、藤原忠実が寄進を受けた上野の荘園を停止させる。
*1120.11.12/ 関白藤原忠実が娘を鳥羽天皇の妃にすることを拒み、白河法皇から内覧の職を停止される。
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