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in 京都

思い出のページ 【京都、今昔物語】

栃赤城 の思い出

2023-11-17
1979年九州場所の三賞受賞者(左から)技能賞の増位山、敢闘賞の玉ノ富士、殊勲賞の栃赤城 © スポーツ報知/報知新聞社
【伝説の8番】栃赤城、止まらない勢いは3人目の横綱・輪島をも飲み込んだ 1979年九州場所 (msn.com)

当代の京都時代、大学院の同期に、群馬県沼田市出身の小野瀬さんがいました。
専攻は違うものの、何となく馬が合い、いつの頃か話をするようになりました。
彼は家庭教師のバイトをしており、その生徒の家庭は嵐山の吉兆であるとか・・・。
そうした会話の中に登場したのが、彼の地元出身の栃赤城でした。
当時は日の出の勢い、地元選出の福田総理が後援会長に就任し、出世の褒美に化粧まわしを作ることになった云々。
栃赤城の記事を読みながら、そんな当時の事に、小野瀬さんの事に思いを馳せました。


栃赤城vs若乃花・三重ノ海・輪島 (昭和54年十一月場所)

金閣焼失

2022-07-20

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【文学】10.【金閣炎上】水上勉と三島由紀夫
 1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。不審火で放火の疑いありと捜索中、同寺徒弟見習い僧侶であり仏教系大学に通う林承賢が、裏山で薬物を飲み自殺を図っているところを発見され逮捕された。
 足利三代将軍義満の創建した鹿苑寺は、その金箔を貼りつめた荘厳な舎利殿から金閣寺として知られている。応仁の乱では西陣側の拠点となり、その多くが焼け落ちたが、江戸時代に舎利殿金閣などが修復再建された。のちに国宝指定されたその時の金閣が、いち学僧の放火によって焼失したのである。
 吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。1956年に、三島由紀夫は『金閣寺』を書く。綿密な取材に基づいた観念小説であり、『仮面の告白』の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であった。
 一方、水上勉は1967年に『五番町夕霧楼』で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした。吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局焼失させるより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」は、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子を登場させ、修行僧の一縷の安逸の場をもうけている。
 水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。
 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた『雁の寺』で直木賞を受賞し世に認められた。
 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは福井の同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも『金閣炎上』というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。
 ちなみに、この年の11月には国鉄京都駅の駅舎が全焼した。もちろん、ともに私が2歳になる前後の火災なので直接おぼえているはずもない。しかし、のちの両親の話などから火災があったことは記憶に植え付けられている。この3年後に、のちに在学することになる中学校の校舎が焼けた。ちょうど中学に在学していた近所のお兄さんに手をひかれて、焼け跡を見に行った事は記憶は残っている。たぶん、金閣や京都駅舎の火災も、この時の焼け跡の残像と重ね合わされ記憶に残るようになったのであろう。
2022-06-17

Facebook 佐々木 信雄さん曰く



【歴史コラム】15.北野天満宮など散策
 北野天満宮は承知の通り、右大臣菅原道真公が藤原氏の讒言で、九州大宰府に左遷され、当地で没した後、都では落雷などの凶事がが相次ぎ、菅公の祟りだとして恐れられた。そこで、朝廷は菅公の官位を復し、御霊を鎮めるのにつとめ、40年以上して都の子供に託宣があり、現在地の北野に道真を祀る社殿を造営し、これが北野天満宮となった。
 本来は、雷神となった道真公の御霊を鎮めるために祀られたが、学問の神として広く信仰されるようになり、現在では受験の神様として、受験生の絵馬がたくさん奉納されている。また、梅の花をこよなく愛した道真公ゆかりの梅は、境内にくまなく植えられ、この時期、最盛期を迎えている。
 さて昼時となり腹もへったので、弁当を買って「船岡山」のベンチで食べることになった。この船岡山は、何の変哲もない100m程度の小高い丘だが、まさに平安京大内裏の真北に位置し、歴史上、幾度も文献に登場する。
 まず、枕草子では「岡は船岡」と称えられ、「徒然草」では、都の葬送の地として、鳥部野などと並べて挙げられている。保元の乱の後に、敗北した源為義一族がここで処刑され、応仁の乱の際には、西軍の陣地が築かれ、周辺は激しい戦闘で焼け落ちたが、「西陣」の名称はこれが所縁となった。
 さらに、森鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」という短編で、殉死を扱っている。明治天皇に殉死した乃木希典に衝撃を受けて、即日書き上げたと言われ、細川三斎の忠臣であった興津弥五右衛門は、三斎亡き後の始末をやり遂げ、殉死を願い出る。晴れて切腹を許された弥五右衛門は、細川家菩提寺の大徳寺高桐院を出て、切腹の場所とされた船岡山麓の仮屋まで、十八町の間に敷き詰められた藁筵の上を、晴れがましく歩んだという。
 なお、船岡山の東側には、織田信長を祀った建勲神社がある。船岡山は平安京の北方を護る四神相応の玄武に相当するとして、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められたが、実現しないままだったのを、明治天皇により創建されたという謂れをもつ。
 曇り空で寒いので、昼を済ませてその足で、紫野今宮神社の参道にある「あぶり餅」を食べに行った。あぶり餅については、かつて詳しく書いたので下記リンクに任せるが、近年は評判を呼んで満席が多かったが、今回は感染症の影響で、がらがらの座敷に上がってゆっくりできた。半世紀前の高校時代、授業をさぼって、ここにたむろして時間を潰した思い出が、よみがえって来た。

ちなみに船岡山で食べた弁当は、北大路橋西詰にある「グリルはせがわ」の持ち帰り弁当、ここも通常は1時間以上待つのが状態だった。高校の同級生がここの息子で、半世紀以上前から営業している洋食屋だが、近年、SNSなどで評判になり、観光客でいっぱいとなった。ハンバーグ弁当がウリで、ここで弁当を買って、川を渡った府立植物園で食べると、半日を千円程度で過ごせるデートスポットです(笑)
 久々に京都市内を知人と二人で車で散策した。少々肌寒いが梅の時期というので、まずは「北野天満宮」に参った。感染症のせいで参拝客は少なく、駐車場もフリーで停められた。信仰心も色気もない年寄り二人なので、ろくな拝礼もせず、十数分ほどまわりを見まわして帰るというありさまだった。

『高野悦子「二十歳の原点」案内』

2022-05-21

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


京都雑記【01.高野悦子『二十歳の原点』】 (2017年記)
 NHK「かんさい熱視線」(2/10)で、高野悦子『二十歳の原点』が取り上げられた。50年近くたった今でも、読まれているというのが驚きだ。
 半世紀近く前、学園紛争や反体制活動の狭間で、社会活動と個人の恋愛などの葛藤に悩み自殺した女子大生の日記。というと、いまや大時代的な過去の遺物になりつつある。番組では、それから現代の若者との接点を見出そうという編集方針でドキュメントされていたようだ。
 私自身、この『二十歳の原点』を読んでいないし、出版そのものをかなり後日になって知った。ただ、同年代で同じような学生生活を送り、そして同時期に京都の街中を徘徊していたという縁から、多少当時の状況を探ってみたことがある。
 高野悦子が『二十歳の原点』の基になる日記を記し、その6月に鉄道自殺した1969年(S44)という年は、激しい学園紛争の後遺症で、あの東京大学の入試が出来なかった年だというだけでも、その様子がうかがえる。いまや風化しつつあるこの当時の状況を、高野の最後の半年の動向を中心に振り返ってみる。
 この年の1月東大キャンパスに機動隊が導入され、全共闘系学生がバリケード封鎖中の安田講堂が解放された。以後、関東の各大学では次々と機動隊導入による封鎖解除が行われ、関東での大学紛争は沈静の動きを見せる。
 一方、関西では、関東より一年ほど遅れて大学紛争の時期がやってくる。高野が文学部史学科2年生として在学した立命館大学では、他の関西の大学よりいち早く、2月に早々と機動隊の導入が行われた。これは立命館が置かれていた、活動家学生の勢力関係の影響も大きかった。
 立命館では民主青年同盟(民青・日本共産党の青年組織・代々木系)が学友会(大学自治会)を支配しており、他大学に比べてその勢力が圧倒的に強かったし、教職員にも共産党支持者が多かった。それに対抗して反民青系全共闘が結成され、立命館広小路キャンパスを占拠して封鎖した。入試を目前にした大学側は、右翼系学生などを動員して、封鎖解除を目指し、学友会を支配する民青系学生も、自力でバリケードを撤去しようとして衝突した。
 結果的に、大学側は機動隊導入を要請し、まもなく封鎖は解除された。関西の著名大学の中では、いち早く機動隊を導入したのが立命館で、このような力関係が、機動隊の導入を安易にしたと思われる。今では信じられないだろうが、当時は「大学の自治」が金科玉条であり、官憲がキャンパスに入ることなど考えられなかった。それが、東大安田講堂攻防で導入されてからは、もはや聖域でなくなったと言うわけであった。
 この時期、高野悦子は反代々木系全共闘のシンパ(同調支援する一般学生)として集会などに参加していたもようである。やがて、機動隊による封鎖解除などを見るにつけて、活動にのめり込んで行き、中核派など過激派セクト(全共闘に集っているが、それぞれ主張が異なる各派)のデモなどにも参加するようになる。
 私は一年浪人して1968年4月、神戸の大学に入学したが、夏休みに実家に戻ってぶらぶらしているうちに、二度目になる鬱病を発症した。神戸の下宿も引き払い、秋の学期は始まってからも実家で過ごしながら、やっと鬱を脱して登校し出したころ、12月に全学封鎖となった。以来、1969年を通じて、京都の街で、高校時代の友達と交友しながら過ごす。
 高野悦子とは同じ年齢であるが、一浪した分、大学生としては一年下級であった。高野が京都の街での出来事を記した日記の、1969年の最後の半年は、同じように京都の街を徘徊していたわけである。以下の記述は、『二十歳の日記』の足跡をたどり、関係者にもインタビューして詳細に記述された、下記のWEBに基づくことになる。
*『高野悦子「二十歳の原点」案内』 http://www.takanoetsuko.com/
 1969年2月1日の日記に、ジャズ喫茶「しぁんくれーる」で過ごしたという記述がある。ここは広小路キャンパスに近い河原町荒神口角にあり、私も何度か通ったことがある。一階がクラシック、二階がジャズのレコードを鳴らしていた。「明るい田舎」という意味のフランス語と「思案に暮れる」という語呂合わせの店名が、微妙な若者の心理に受け入れられたのかもしれない。
 3月になると「京都国際ホテルにウエイトレスとしてアルバイトに行き一つの働く世界を知った。」と書かれた。親の仕送りから自立をしようとアルバイトを始めたようだが、このホテルのバイト経験が、のちに高野悦子に恋愛問題の波紋を引き起こす。高野は栃木県の田舎町で、栃木県庁勤務の地方官僚の娘として生まれ育った。
 大学で京都に出て、都会生活を満喫する生活を始めたのだろう。芯はしっかりしているが、地味でおとなしい性格で、いささかウブな彼女にとって、東京ではなくて京都というこじんまりした都会は、むしろ向いていたかもしれない。酒を一杯飲んで真っ赤になり、タバコを一本吸ってくらくらするなど、いかにも背伸びして大人経験をしようとする、初心な記述が散見される。同い年ながら、すでにヘビースモーカーでハードドランカーだった私とは、かなり違う初々しさが感じられる。田舎育ちの良家の娘さん、といった感じか。
 以下、彼女が大学生活を満喫し、せっせと通った喫茶店・洋酒喫茶などを羅列してみる。まず洋酒喫茶「ニューコンパ」に「白夜」、若い学生カップルがちょいと洋酒カクテルを呑む、そういった健全な風俗を演出したのがコンパ・チェーンで、各地で展開された。とりあえずボラれる心配もなく行ってみるというのが洋酒喫茶であった。
 喫茶店では、「六曜社」に「リンデン」、さらには「フランセ」というのもあった。六曜社は、狭い店内に長椅子の席を中心に、押し詰めて客が同席するというのが売りであった。どの店も、みんな学生にとっては有名店で、口コミで聞いて行ってみるというパターンだった。おかしく思えてくるぐらいだが、これらのすべて、私もよく知っている。私自身、神戸で同じように有名各店を渡り歩いたもので、彼女の学生生活が手に取るように分かる。
 このように楽しげな学生生活を始めながら、やがて学生運動に関わるとともに、一方でバイト先での淡い恋愛経験と失恋。このような挫折が、彼女を自殺へと追いやったと考えても間違いはないだろう。6月24日午前2時ころ、高野悦子は下宿を「チョット外出します」と声をかけて出た。下宿のすぐ近くを国鉄山陰線(当時非電化単線)が走っており、高野は踏切から線路内に入り、西に向けて歩いた。そして嵯峨野から京都駅方面に向かう貨物列車に轢かれて亡くなったとされる。
 当時の国鉄(現JR)山陰線は本線とはいえ、きわめてローカルな路線で、京都駅を発して嵯峨野を経由、山陰地方に向う。実は、私事ではあるが、この10年余りのちに、私の一歳年長の義兄が、この近くの線路上で鉄道事故死している。クリスマスイブの夜、仕事仲間と酒を飲んで別れた後、線路上に入り込んで轢かれたという。酔っぱらったせいか自殺なのかは、不明であった。
 数日後、現場に花を手向けに行った。現在は複線電化され高架上を走っているが、その時はまだ高野の事故現場と同じく単線線路だった。事故跡は係員によってきれいに整備され新しい砂利がまかれていたが、枕木の端に小さな肉片が残ってこびりついているのを見つけた。同行した実の姉妹には見せないように、そっと足で肉片を砂利の下に隠した。鉄道自殺などするもんではない、と思った。
立命館大学
ジャズ喫茶「しぁんくれーる」

京都近代策

2022-05-15

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


京都近代化を遡る【02.京都近代策と槇村正直知事】
 京都における第1期勧業政策の中心人物は、2代目京都府知事槇村正直に、京都顧問であった山本覚馬、そして実際の事業を担当した明石博高である。槇村正直は旧長州藩士として、同じく長州出身で明治の三傑とされる木戸孝允に重用され、行政経験に乏しい初代京都府知事 長谷信篤の補佐として、実質的に京都府の政治を仕切ったとされる。
 1875(明8)年、槇村正直が京都府知事に就任すると、会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を起用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。山本覚馬は、NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン山本(新島)八重の兄で、眼病で失明したうえ薩摩藩に捕われて幽閉されていたが、その蘭学の素養と見識は周囲を感服させ、槇村府知事のもとで参与として京都振興に慧眼を発揮する。
 明石博高は、京都の医薬商の家に生まれ、化学・薬学などを研究していたが、槇村や山本のすすめで京都府に出仕、彼らと共に京都振興の諸政策を打ち出し、その科学的知見にもとづいて舎密局(洋学応用の拠点)などを拠点に西洋技術導入に大きな寄与をした。
 槇村・山本・明石の3名には、科学技術の導入による勧業政策が不可欠であるという共通認識の下、各種の殖産興業政策を展開した。その資金としては、国の殖産興業資金が「勧業基立金」として府に移管されたことや、遷都にともなって下賜された「産業基立金」10万両などが、京都府における資金的基礎を提供した。
 槇村が行った主な京都近代化政策は、実施順に「小学校の開設」「舎蜜局(せいみきょく)の創設」「京都博覧会の開催」「都をどりの開催」「新京極の造営」「女紅場(にょこうば)の創建」などが挙げられる。
 「舎密局」(蘭語”chemie-化学”に相当する当て字)は、理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。「京都博覧会」は日本で最初の産業博覧会として、京都の有力商人らが中心となって、西本願寺を会場に1ヵ月間開催され、その余興として「都をどり」が催された。「女紅場」は、女子に裁縫・料理・読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校で、山本(新島)八重も兄覚馬の推薦により、京都女紅場(後の府立第一高女)に関わっている。
 「新京極」は、かつて広大な寺域を誇った金蓮寺が、困窮して寺域の切り売りをはじめ、明治以前には、その売却地に料亭・飲食店・商店・見世物小屋が散在していた。さらに寺町通近隣の寺院の境内には、縁日がたって人が多く集まっていた。そこで寺町通のすぐ東側に新しく道路を造って、その「新京極通」を中心に各寺院の境内を整理し、やがて見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができた。この地域は、かつての平安京の「東京極(ひがしきょうごく)大路」があった場所で、文字通り「京の東の端」だったが、やがて京都の中心の繁華街となった。
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