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in 京都

思い出のページ 【京都、今昔物語】

日本一長い駅名、9ヵ月で陥落 記念硬券も発売中止でも「誇らしい」

2021-05-10
当代の京都時代の最寄り駅でした。
嵐電北野線の等持院駅が「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前駅」に名称変更 2020年3月20日
音読数26文字の「日本一長い駅名」が誕生した

京福電鉄は、名刹・等持院をはさんで近接する同大学と連携・協力協定を結んだことを契機に、駅名に大学名を取り入れました。

京都ってバスより路面電車の方が圧倒的に似合いますね。

2022-03-08
Facebook 山田 俊英さん曰く

京都ってバスより路面電車の方が圧倒的に似合いますね。
バスって渋滞凄すぎて、
京都駅から金閣寺や銀閣寺にそれぞれ1時間くらいずつかかります。
昭和の路面電車時代に戻して欲しいです。

郷土史散策【09.叡電都市伝説の旅】

2021-09-26
Facebook 佐々木信雄さん曰く
郷土史散策【09.叡電都市伝説の旅】
 日本で最初に京都で走った路面電車は、明治28(1895)年に始まり、その後、京都市電として市民に親しまれたが、昭和53(1978)年に全廃された。しかし現在でも、民営の路面電車は走っている。
 京福電鉄嵐山線と叡山電鉄がそれで、それぞれ「嵐電」と「叡電」と呼ばれ親しまれている。ともにかつては「京福電鉄」が運営していたが、叡電は、京阪本線が出町柳まで延線されたのを契機に、京阪電鉄の完全子会社となっている。もっとも、京福電鉄自体も京阪の系列下に入っているので、京都の人は、嵐電と叡電ともに、京福電鉄と思って区別していないようだ。
 京福電鉄はローカルな電鉄会社だが、その名前から想像されるように、かつては京都と福井に路線を持っていた。とは言っても、京福両方の路線が繋がっているわけではなく、そのうち事故を起こして福井の路線は廃止されたようだ。そのような変な名前の零細電鉄会社が、京都でも、まったく繋がっていない嵐電と叡電を営んでいたという、ローカルかつ不思議な歴史がある。
 そしてその嵐電と叡電にも、ローカル路線ならではの逸話がある。嵐電は京都市内と嵯峨野嵐山を結ぶ観光路線として、現在も繁盛しているが、その路線の駅名が難読駅名として有名である。この駅名については、あらためて触れる機会があるかもしれない。
 今回は叡電を取り上げてみるが、嵐電ほど難読駅名があるわけではなく、叡山電鉄と言うにもかかわらず、支線である鞍馬線の方が路線が長く、駅数も多い。いずれにせよ、叡電の沿線には、昔からいわくのある土地が多く、それらの話題を「叡電都市伝説の旅」と称して取りあげてみる。
★叡電都市伝説の旅 その一、出町柳編
 まずは起点となる出町柳。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」というのは、梶井基次郎の短編の有名な冒頭の一節だが、「出町柳の柳の下には幽霊がデル!」ということにはならない(笑) 
 そもそも地名のもとになった出町柳の柳は、戦前のあの室戸台風で倒れて無くなったそうで、しかも「出町柳」と言う駅名は、鴨川西側の「出町」と東側の「柳(柳の辻)」を合わせて適当に付けただけらしいのである。
 しかし、出町柳から叡電に乗って、叡山線終点の八瀬には、八瀬童子と呼ばれる人々が住み、比叡山延暦寺の雑役や駕輿丁を務めたとされ、延暦寺開祖 伝教大師最澄が使役した鬼の子孫という伝説も残されている。八瀬童子たちは結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、その姿から童子と呼ばれたり鬼伝説に擬せられたりしたのであろう。
 そして終点八瀬叡山口から、叡山ケーブル・叡山ロープウェイを乗り継ぐと、比叡山山頂に登れるが、ここにはかつて比叡山頂遊園地(2000年閉園)があり、夏場には「納涼お化け屋敷」が開設され、かなり有名だった。ということで、なんとかお化けの話しに結び付けておきます(笑)

京都雑記【12.そこにフォーククルセダーズが流れていた】

2021-12-25
Facebook 佐々木信雄さん曰く
京都雑記【12.そこにフォーククルセダーズが流れていた】
◎フォーク・クルセダーズとフォークソングブーム
*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。
 この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJ)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。
 1967(s42)年4月から私もまた受験浪人となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局「ラジオ関西」の放送だった。
 こちらは京都なので電波状態がよくなく、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォーク・クルセダーズの「イムジン河」をよく流していた。そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。
 フォーク・クルセダーズは、京都のアマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。
 1967(s42)年末ごろ、大手レコード会社からプロデビューの声が掛かり、「加藤和彦」「北山修」が新たに「はしだのりひこ」を加え、「一年間だけ」という約束で再結成して、大手レーベルから出したシングル盤「帰ってきたヨッパライ」が、いきなりミリオンセラーとなった。
 さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。
 そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、加藤和彦がギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。
「悲しくてやりきれない」 
 フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。
 なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。
「日本のフォークブーム」 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20180930
(2021.12.07追記)
「悲しくてやりきれない 」ザ・フォーク・クルセダーズ https://www.youtube.com/watch?v=kP4oluZmjzA
 夜中に酒をのんで過去の想いにふけって、この曲を思い出した。1968年春、大学に入学し、4月から神戸の青谷というところに下宿した。三畳ひと間に押し入れのみという部屋だったが、それなりに生活できた。
 入学当初、あれこれ張り切って動き回ったが、やがていわゆる五月病というのにはまり込み、夜になってひとりになるとホームシックな気分に落ち込んだ。下宿のすぐ向かいにある川べりの小公園で、ひとりこの曲を口ずさんでいた。
 受験などバタバタしている時期に、「イムジン河」の発売中止騒ぎがあったが、当時はなぜ中止されたかよく分からなかった。急きょ代わりの曲を作れと、レコード会社に缶詰めにされた加藤和彦が、ギターコードをいじっているうちにできあがったのが「悲しくてやりきれない」だそうだ。
 そのままディレクターが、当時著名の作詞家サトーハチローのもとに走って、詩を付けてもらい出来上がったという。「かな~しくってかな~しくって」と、ひたすら哀切でペシミスティックなリフレインが続き、加藤和彦自身、歌っていてどうかなと思ったそうだが、いざレコードとして発売後ヒットすると、曲に馴染んだ詩だと納得したそうだ。
 実際「雲を眺めて涙ぐむ」などと、理由もない哀しさというのは、口ずさみながらもいささか恥ずかしい気がする。ただ、思春期の悲しみというものは、このように理由もなく孤独感におそわれれるものであり、下宿を始めて2ヵ月ほど過ぎた時期に、ホームシックな感傷におそわれ、この曲にドップリひたったというわけだった(笑)
(2021.12.08追記2)
さらにフォークルついでに、自分の精神的転機の時期に脳裏に刻まれた記憶を記す。
「戦争は知らない / フォーク・クルセダーズ」 
https://www.youtube.com/watch?v=79Ld-CdgVeg...
 この曲は、寺山修司が作詞して、ラテン歌手坂本スミ子が歌ったが、シングルのB面でまったくヒットしなかった。ところが、同時期にフォーククルセダーズが、グループ解散記念にと自費プレスした「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ放送を通じて偶発的に大ヒット。
 一年きりのプロ活動ということで、再結成してプロデビューした加藤・北山・端田の新クルセダーズは、「イムジン河」の発売中止などのアクシデントに見舞われながら、次々とヒットを飛ばした。そんな中で、独自の感性で加藤和彦が掘り起こしてきたのが、この「戦争は知らない」だった。
 本来は寺山修司が、太平洋戦争に出征して戦病死した自分の父親をしのんで書いた詩だが、当時ヴェトナム戦争の最中で、アメリカから反戦歌が幾つも流れてくる状況下で、この歌も反戦フォークとして受け容れられた。露骨な反戦詩ではなく、名前も知らない野に咲く花に託して、父を亡くして20年後にお嫁に行く娘が、父に新たに別れを告げる詩になっていて、歌人寺山独自の抒情が、切なく訴えてくる。
 私自身はこの時期、大学に入学したものの、夏休みの帰省中に二度目の鬱病に落ち込んで下宿は引き払い、10月ごろからやっと学校に通い始めたとたんに学園紛争で大学封鎖、翌春になっても一向に封鎖解除される気配がなかった。仏教思想などに耽って、何とか鬱を克服、漠然と郷愁を感じて、奈良西ノ京などを徘徊していた。
 写真家入江泰吉の「大和路」風景などにある、菜の花畑を通して観る薬師寺の塔の光景など、そっくりの位置を見つけて、下手くそなスケッチをしたりしたものであった。最悪の時期は通り越して、少しづつ光が見えてきたが、これからの方向性も見つけられず、将来に自信が持てない不安定な時期、春の明るい景色の中に、かすかなもの悲しさを感じた心象風景に、この「戦争は知らない」の曲が重なって記憶に埋め込まれている。
『戦争は知らない』 【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ
野に咲く花の 名前は知らない
だけども野に咲く 花が好き
ぼうしにいっぱい つみゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あヽ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
いくさで死んだ 悲しい父さん
私はあなたの 娘です
二十年後の この故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
見ていて下さい はるかな父さん
いわし雲とぶ 空の下
いくさ知らずに 二十才になって
嫁いで母に 母になるの
(2021.12.08追記3)
「風/はしだのりひことシューベルツ」 https://www.youtube.com/watch?v=ugtGClQLUdQ&t=1s
 フォークルが10ヵ月ほどで予定通り解散したが、それに先駆けて端田宣彦は、学生仲間たちと「シューベルツ」というグループを結成し、同じ同志社大学の井上博や越智友嗣と立命館大学の杉田二郎をひきいて、いきなり「風」というヒットを飛ばした。
 さらに「さすらい人の子守唄」などのヒットを飛ばし、頻繁にテレビなどに出演した。なかでも、カウボーイハットにウッドベースを担当する井上博は、端正なあまいマスクで若い女性に大人気だった。その井上が、1年余りの活動ので、あっけなく死去してしまう。過労なのか、内臓不全が死因だという。
 この井上博は、実は実家の近くの商店街で、イノハツという屋号のタバコ屋の息子だった。小学校から高校までずっと、二学年上で在籍していたのを憶えている。直接言葉をかわしたおぼえはないが、近くの神社で一緒に遊んだような記憶もある。テレビではライトなどで色白でハンサムに見えていたが、実物の本人はどす黒い顔色をしていて、子供のころから、内臓が悪かったのではないかと思った。

◎平安遷都千百年紀念事業

2021-12-22
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1895(m28)年】
◎平安遷都千百年紀念事業
*1895.2.1/ 京都で、七条停車場前ー伏見町下油掛間で市電が営業を開始する。(日本最初の路面電車)
*1895.3.15/ 平安遷都千百年紀念事業を記念した事業として、「平安神宮」が創建される。
*1895.4.1/都 京都で開催された第4回内国勧業博覧会で、黒田清輝の裸体画「朝妝(ちょうしょう)」が出品され、展示が賛否を呼ぶ。
 明治維新で東京に遷都され、衰退が懸念された京都では、2代目府知事槇村正直などが中心となって、様々な復興近代化事業が行われた。全国に先駆けて小学校を開校し、女性の教育の場として「女紅場(にょこうば)」を開設し、同志社英学校などの学校を積極的に誘致するなど、教育を充実させた。
 また、舎密局(理化学講習所)、勧業場(産業振興センター)、製革場の設立、西陣織織工のフランス派遣などの産業振興に、京都都心部に新しい遊行商業の場「新京極」を造成するなどの商業振興、そして1871(明4)年には「第1回京都博覧会」を開催して、京都を活気づけた。
 なかでも最大事業の「琵琶湖疎水」は、1885(明18)年に着工し、1890(明23)年には第1疏水の開通に漕ぎつけた。疎水の主たる目的は、水運水路としての活用と京都市内の飲用水確保であったが、当初の計画になかった日本初の営業用水力発電所「蹴上(けあげ)発電所」が建設された。
 この電力を利用して、1895(明28)年には京都・伏見間で、日本初となる営業用電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まり、これが後に京都市電となった。
 1895(明28)年、桓武天皇が平安京に遷都してから1100年目を記念して、京都では平安遷都千百年紀念事業を実施することになった。それまで東京だけで実施されていた勧業博覧会だが、「第4回内国勧業博覧会」は京都の岡崎公園で、1895(明28)年4月1日〜7月31日の間、開催されることになった。
 勧業博の目玉としては、平安京遷都当時の大内裏の一部を復元した「平安神宮」が創建され、3月に完成した。平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社として創祀され、社殿は平安京の朝堂院大極殿を5/8の縮小で復元し、正面の門は、朝堂院の應天門を模している。
 当初、内国勧業博期間中に行う予定だった「平安遷都千百年紀念祭」は延期されて、10月22日から3日間にわたって実施された。25日には、紀念祭の一イベントとして時代行列が行われ、これが翌年からは、桓武天皇が新しい平安京に入ったとされる日、10月22日に行われるようになり、現在でも「時代祭」として、葵祭・祇園祭とともに京都の三大祭の一つとなっている。
 「時代祭」の行列は、「祭神である桓武天皇と孝明天皇の二柱の御霊が、住まいであった御所から街の繁栄を見ながら行列のお供を従えて神宮へ行く」という形をとり、「京都御所」を出て京都の中心街を通り「平安神宮」に至る。
 同じく時代衣装行列で混同されやすいが、「葵祭」は平安王朝の貴族の祭りであり、勅使代と斎王代が御所を出て、下鴨神社及び上賀茂神社に参内するコースをたどり、平安朝の王朝風俗の行列が続く。一方、時代祭は、京に都があった千年を遡る形で、明治維新の官軍行列から逆順で平安時代までの風俗までが一覧できる。
(この年の出来事)
*1895.2.2/中国 日本の第2軍が、遼東半島の先端で清国北洋艦隊拠点の威海衛軍港を占領する。
*1895.4.17/山口 下関で「日清講和条約(下関条約)」が調印される。日本は清国から、莫大な賠償金と、遼東半島・台湾などの領土を得た。
*1895.4.23/ 独仏露が、遼東半島を清国に返還する勧告を日本に通知する。「三国干渉」
*1895.11.8/ 三国干渉に屈して、清国に遼東半島を返還する。還付補償金は3000万両(テール)。
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