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大谷派のお給仕

日常生活で出来ること

お盆の頃となりました。

2022-07-18

Facebook(株)小堀 京都店さん曰く


浄土真宗大谷派用 切籠灯籠
(手漉き和紙・本漆黒塗)
上部火袋一辺約12㎝
写真では、50代の金仏壇の前にお荘りしています。

私が真宗大谷派・常願寺の住職に就任して、今年で51年経ちました。

2022-07-06
日常の問いかけについて

Facebook 伊勢谷功さん曰く


《供養とは何か?》2
私が真宗大谷派・常願寺の住職に就任して、今年で51年経ちました。
その長い年月のあいだに、「佛教の救いとは、どのようになることなのか?」とか「南無阿弥陀佛とは、どんな意味か?」などという質問を受けたことは、めったにありませんでした。
しかし、次のようなたぐいの質問は、何度も受けました。
「墓参りに、親父が好きだったビールをお供えしようと思うのですが、ビールのセンは抜いておいたほうが良いでしょうか?」
江戸時代以来、300年以上にもわたる佛教教団や、その寺院や僧侶の営みを見てきて、日本に住む多くの人々は、死者を供養することが、お坊さんの専門的な業務だと思って来ました。
人間に近い、かなり「進化」した哺乳類でも、仲間の死を見て、人間のように、ありもしない “妄想” を抱くことはしないと思います。
ですから、このように問われて、私はいつも大いに戸惑ってしまうのです。
この重症の患者に対しては、どのような薬を処方すれば良いだろうか、と思案するお医者さんのように、私は考え込んでしまうのです。
ですから今までに、私は相手によって実にいろいろに答えて来ました。
「あなたは、亡くなったお父さんが、3年も経った今でも、ビールを飲みたがっていると思っているのですか?」
「ビール瓶の横に栓抜きとグラスを置いてみたら如何でしょう」
「お父さんは、いのちを終えた自分のことよりも、あとに遺(のこ)ったあなた方のことを心配していらっしゃったのではないでしょうか?」
「たとえば、あなたが亡くなった場合、あなたはあとに残った人たちに何を願うかを、考えて見て下さい」
「亡くなった人は、自分がいなくなったあとに遺された者たちが、いい人生を生きて、いい生涯を送ってくれることを願って先だたれたのではありませんか?」
「だとすれば、あとに遺った者が、その願いを引き受けることが、真の供養なのではないてしょうか?」
「つまり、その願いを引き受けて生きることが、あとに遺った者たちのつとめでしょう」
亡くなった人を供養するということは、そのあとを生きる “つれ合い” や “子どもたち” や “孫たち” 一人一人が、亡くなった人の、“あとを引き受ける” ということなのです。
「本家の兄貴が坊さんを呼んでお経を読んでもらったから、供養は終わった」などというようなものではないでしょう。
「いい生涯を生きてほしい」というのが、先だって逝った親たちの真の願いであるとするならば、あなたはそれを引き受けることができるのか、どうなのでしょうか?
いい生涯とは、また、いい人生とは、どんな生き方を、言うのでしょうか?
今は亡き親たちにとっても、あなた自身にとっても、また、他のすべての人々にとってもいいと言えるような生涯や人生をあなた自身が生きることを、あなたは引き受けられるのでしょうか?
いい生涯、いい人生とは、どのような生き方を言うのでしょうか?
このような問は、学問のある人も無い人も、善人も悪人も、金持ちも貧乏人も、すべての人が学ばねばならない「人間が、人間として生きるための課題」なのです。
それを説いて来たのが「佛教」であり、「経典」です。
ですから、「そのために」お坊さんがお経を読むのですが……。
残念ながら、それだけでは、「佛教」ではなくて、ただの「まじない」にしかなりません。
なぜなら、お経は、2500年前にお釈迦さまが説かれた教えを、当時のインドの言葉から2000年近くも前の中国語に翻訳されたもので、日本ではほとんどの場合、そこに記された漢字を順番に読んでいるだけですから、現代の日本人が、ただ音声として聞いていても、内容が理解できるようなものではありません。
まず、そこに何が教えられているかを学ばねばなりません。
それを指南することがお坊さんの務めなのです。
ですから、供養を心がける人は、まず佛教を学んで下さい。佛さまの教えによって “供養とは何か” を学ぶことが、供養の第一歩です。
そして、当然のことですが、お坊さんは “佛教” を説いて下さい。それが本業なのですから。
お坊さんには「まじない」をやってもらうためにではなく「佛さまの教え」を説いてもらうために「御布施」を出して下さい。
そして、 “あの世” だの “霊の世界” だのという、人類古来の “迷いの歴史” がたれ流しできた “妄想” なんぞに執(とら)われませんように。
お坊さんに失望しても、佛教には失望なさらないで下さい。
目の覚めた勉強は今からです。ゼロから始めねばなりません。
「供養とは何でしょうか?」
「人間の、人間としての願いとは何でしょうか?」
「いい人生、いい生涯とは、どのような生き方を言うのでしょうか?」
人生には、やり直しも続きもありません。一度限りのものです。だからいのちはかけがえなく尊いのです。

法話の後の問いかけ

2022-07-02

Facebook 伊勢谷功さん曰く



【 質 問 3 】Hiromiさん
先生、ありがとうございます。深い問いかけですね。
私が何を願うか……。
生きている間、努力した成果が他に継承されることでしょうか。
私は生きてきた意味を求めてしまうと思います。感謝されるような生き方がしたいと望むと思いますが……。
自分が死んだ後、何を望むかといえば、次の世代が先人の過まちや先人から学んだことを活かし、より命を大切にする生き方へとつないでいくことを望むかもしれません。
死んだあと、どこに行くのか? この問いは、深淵すぎてわかりません。仏教のお坊さんたちからよく聞く「極楽浄土」というところがあるのならば、さぞ穏やかな幸せなところであろうと、勝手に想像しているだけに過ぎないですね。
どこに行くのか? 光に帰るのでしょうか。 
以前、高野山の奥の院で、写真を撮らせていただいた時、7つの光のタマがデジカメに写りました。魂の光化と、勝手に想像しています。
【 返 信 3 】伊勢谷
「供養」ということは、相手の願いに応えることによって成り立つものです。
願ってもいないことに「応えて」も「応じたこと」にはなりません。
「供養」には、まず、「相手の願いを知る」ことが先決です。
たとえば、「親の供養をする」には、まず「親の願いを知る」こと、そして、その「願いに応える」ことです。
「自分の願い」が明らかにならねば「親の願い」は明らかにはなりません。
なぜなら、その双方の願いは、「ひとつ」だからです。
私たちが考えている「願い」とは、個々別々なものですが、それらは、じつは「願い」ではなくて「欲望」なのです。
「願い」ということを明らかにするには、いくつかの「要件」があります。私たちが自分で考えても、なかなか結論には到達できません。私たちに見えてくるものは「願い」ではなくて「欲望」なのだからです。
あるいは「欲望の混ざった願い」なのです。
「願い」は、自分で考えて見極めることも大事ですが、他から学ぶことが大切です。
「他から」とは、先輩や学校や、さまざまの人生や文学や歴史など無数にありますが、それらのすべてが「先生」なのです。
そして、それらを明らかにしてきた歴史が「宗教」です。
宗教とは「教え」です。釋尊やキリストの「教え」が宗教なのです。
世の中には、欲望や処世術でできた宗教がたくさんあります。
また、「神だのみ」や「まじない」や「ご祈祷」など、オカルトのようなものも、至るところにあります。しかし、佛教やキリスト教のような「教え」がありません。迷信かオカルトか、詐欺かカラクリのような「民間伝承」があるだけで「教義などといえるような「教え」はありません。
ですから、それらは厳密に言えば「宗教」ではないのです。
まず、確かな「教え」を学ぶことを始めねばならなりません。



法話の後の問いかけ その②

2022-07-02

Facebook 伊勢谷功さん曰く



【 返 信 2 】伊勢谷
私たちは、日本文化の歴史の中で、その影響を全身に受けて成長し、今まで生きてきました。
「供養」ということについて他の生きものは、人間のようには考えません。
つまり私たち人間は、民族や部族の間での漠然とした伝承の中で考え、思い込んできた「古来からの思案の蓄積」によって形成されてきた事柄を漠然と(確信もなく)信じて(思い込んで)いるのです。
そうした人間の思い込みが正しいのなら、科学も宗教も必要ありません。
科学は事実を知ること、宗教は真実を知ることで、どちらも大切なことなのです。私たちには、無知や迷信や誤まり(迷い)が、あまりにも多いからです。
私たち佛教徒(真宗門徒)は、佛の教え(佛教)によって、「供養とは何か?」ということを明らかにして行く。それが「教えに聞く」というなのです。
「供養」とは、佛教の言葉です。
「私が誰かを供養する」ということは、「その人が必要としていることを、させて頂く」ということです。
ですから供養とは、亡くなった人に対して、というだけではなく、むしろ共に生きる者同士が、お互い相手ために何が必要か、何ができるか、ということを明らかにするこたから始めねばなりません。
これが「供養」という言葉の本来の意味です。
特に、亡くなった人を供養するということは、簡単に答えが出るような問題ではありません。
人は、自分が死んだあとに何を願うのでしょうか?
貴女は、自分が死んだあとに、誰に、どんなことを願いますか?
つまり貴女は、自分が死んだあと、どこにいて、あとに遺ったものたちに何を願いますか?
「亡くなった人を供養する」ということを明らかにするには、まずこれらの「相手に対する願い」と「死とは何か」ということを明らかにしなければならないのです。
   (つづく)

法話の後の問いかけ その①

2022-07-02

Facebook 伊勢谷功さん曰く


《供養とは何か?》1
先日、東本願寺の「朝のお参り(晨朝=じんぢょう)」で、私が「法話」(お説教)を担当しました際に、法話の終了後、参詣されていた30歳前後の女性から声をかけられ、法話についての感想を語られて、いくつかの質問をされました。
後日その方から「メール」でご質問を頂きました。
彼女は東京都内にお住まいの「Hiromiさん」とのことでした。
【 質 問 1】Hiromiさん
伊勢谷先生、
供養について、教えていただきたいのですが。
個を貫き通して、この世を生きると、没個性的な村社会では、生きづらく、一人山の中で暮らして死を迎えるようなこともあるかもしれません。
そのような場合、「転生」に大切な期間である48日間、供養してくれる子孫や家族が近くにはいないわけですが、供養されない者の魂は、浮遊して、その場に残ってしまうのでしょうか。
供養されぬ御霊は、転生もできず、天にも帰れないのですか?
ホツマツタエを学ばれてる方に質問したところ、
そのような質問はするべきでない! という回答があったので、ますます気になってしまいました。
供養をしてくれる人に恵まれていない魂が浮遊霊となるのでしょうか。
また、「生前供養をするといい」と聞いたのですが、生前供養をした場合、死後の供養は不要となるのでしょうか。
【 返 信 1 】伊勢谷
大切なご質問を頂き、有難うございます。
[供養]ということについて私がお答えできることは、佛教から学んだことであり、「私たちは、何をどのように信ずるのか?」ということが、同時に問われています。
というのは、[供養]ということを、人間は大昔からいろいろに考え続け、さまざまな答えを積み重ねてきた結果、わたしたちは、多くの「答え」の中にいるからです。
ですから、この問いには、一つ一つ段階を経て考えて行かねばなりません。
また、いろいろな答えに出会うことになり、それらの中から、何が信じられるか? また、何が真実なのか? を見つけ出さねばなりません。
まず、「供養とは何か?」を考えることからはじめて下さい。
      (つづく)
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