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教団の歴史

教団の歴史

東本願寺

2022-11-20

東本願寺(ひがし・ほんがんじ)は、京都府京都市下京区にあった浄土真宗本山寺院真宗大谷派の本山。准門跡の格式を持ち、江戸時代まで青蓮院門跡院家だった。現在、寺院としては廃絶となり、霊廟である真宗本廟となった。幕末には東照宮があった。本願寺遷座旧跡東本願寺寺内町も参照。(参考:同名寺院本願寺

歴代住職

本願寺の軌跡 -創建から東西分派、そして現代へ- 草野顕之著

2021-11-14
『中外日報』の書評

日本仏教史や真宗史の研究で知られる著者が真宗大谷派の月刊誌『同朋』の2020年7月号~21年2月号に計8回連載した「本廟創立と東本願寺の歴史-その時代と教えの伝統」と加筆分を集成した一冊で、本願寺の起源となった大谷廟堂から現在の真宗本廟(東本願寺)に至る歴史を専門的な知見や写真・図を交えて平易に叙述している。

『同朋』の連載と本書の刊行は今年が大谷廟堂の建立から750年の節目に当たることを踏まえたもので、全9章で構成。親鸞聖人の墓所である大谷廟堂が京都・吉水の北はずれに創建された経緯から覚如上人による寺院化、蓮如上人の中興、戦国期の本願寺教団の権門化、石山合戦と東西分派までを取り上げた『同朋』の連載に加え、第9章「江戸時代から近現代の真宗本廟」を書き下ろした。

近年の研究を踏まえた知見も盛り込まれている。例えば、廟堂の管理者の継職を巡って覚恵と唯善が争った唯善事件について、唯善の「野望」や「策謀」との従来の評価に対し、中世の土地寄進や返還に関する慣習から唯善の主張が「社会的には一定程度の正当性を持って受け入れられました」との側面を解説している点が興味深い。

全編80㌻余りの短めの分量で読みやすい一方、内容の密度も濃い良書だ。

定価1540円、東本願寺出版(電話075・371・9189)刊。

京都 真宗本廟(東本願寺)春の法要・ご参拝・インターネットライブ配信のご案内

2022-02-25
東本願寺第22代。現如上人、1923年、72歳で示寂。本年は百回忌にあたる。

現如上人【1852年〜1923年】

東本願寺第22代。現如上人は、1852年7月に第21代嚴如上人の第5子として出生。1870年、北海道に渡り道内の開拓を行う。1872年には欧州を訪問し海外の政教を視察する。その後1889年10月、東本願寺第22代を継職。蛤御門の変によって焼失した両堂の再建に着手し、1895年に落慶。教団や教学のさらなる近代的発展につとめた。1923年、72歳で示寂。本年は百回忌にあたる。


4月1日から4日、今年も真宗本廟(東本願寺)において、春の法要が勤まります。
聖徳太子・七高僧をはじめ本願念仏のみ教えを伝えられた
師主知識の恩徳を讃える「師徳奉讃法要」、
親鸞聖人のご生誕をよろこぶ「親鸞聖人御誕生会」、
歴史に学び平和の願いを確かめる「全戦没者追弔法会」などの法要を
「春の法要」と称して勤めています。
また今年は、北海道開拓や蛤御門の変で焼失した両堂再建に尽力した
第22代現如上人の100回忌の法要も勤修されます。

英雄たちの選択「信長最大の敵・大坂本願寺~歴史を変えた11年戦争~」

2022-02-02

信長を最も苦しめた大坂本願寺。本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が激突した木津川口の戦いの真相、そして信長・本願寺11年戦争が歴史に残した驚くべき結末に迫る。

戦国の覇者・織田信長を最も苦しめた敵とされる大坂本願寺。顕如率いる各地の門徒たちと信長との戦いは泥沼化し、11年の長期に及んだ。最大の分岐点となったのが、二度にわたる「木津川口の戦い」だ。本願寺を支援し、兵糧を送っていた毛利水軍と織田水軍が激突した海戦である。信長の鉄甲船は実在したのか?新発見の絵図から読み解く両軍の海の戦略とは?そして信長と本願寺の戦いが歴史に残した驚くべき結末とは?

【ゲスト】奈良大学教授(元学長)…千田嘉博,共立女子大学教授…堀新,哲学者・津田塾大学 教授…萱野稔人,【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊

大阪は、商いの街、船場の商人をはじめとして、商業都市として発展していきましたが、同時に古くから真宗伝道の拠点でありました。

大坂の町は、本願寺第8代蓮如上人が、明応5年(1496)、「摂津国東成郡生玉之庄内大坂」、今の大阪城あたりに一宇の坊舎を建立されたことに始まります。天文元年(1532)、畿内天文一揆で山科本願寺が焼失されるに至り、翌年、御真影が大坂御坊に遷座になり、大坂御坊は本山として、その後、寺内、親町六町、枝町四町余りを有す独立した自治的宗教都市の様相を呈して、大いに発展していきました。その後、戦国動乱の世、織田信長との11年にも及ぶ争い(石山合戦)の末、本願寺は紀州鷺森・貝塚・天満に寺基を移しました。そして天正19年(1591)、第11代宗主顕如上人によって、寺基が京都に移されました。 大坂の門徒は、大坂での「お念仏」の灯りをまもるため、天正19年(1591)、天満に近い「楼(ろう)の岸」に念仏の集会所を設けました。その後、慶長2年(1597)の町割改革によって、「円江(つぶらえ)、津村郷」と呼ばれていた現在の地に移転し、「津村御坊」と称するようになります。これが本願寺津村別院(北御堂・御堂さん)の始まりです。 津村別院は、真宗大谷派の難波別院(南御堂)に対して、“北御堂”と呼ばれ、その近くには、篤信な門徒たち(商人など)が集まり、「御堂さんの屋根が見える、御堂さんの鐘が聞こえる場所にのれんを張る」ことを合言葉に、船場の町を形成し、商都大阪の礎を築いていったのです。 また、門前を通る大阪を代表する道は、南北両御堂に因んで、「御堂筋」と命名され、商都大阪の流通の中心的役割を担い、今も人々に親しまれています。 また、権力に決して迎合しない大阪人気質は、大坂本願寺の寺内町形成以来、お念仏に生かされる御同朋御同行の平座の精神が受け継がれ、その精神的基盤が根底にあると言えるのではないでしょうか。
このように、大阪と本願寺・北御堂の関係は、発祥から現在に至るまで、信仰だけにとどまらず、政治・経済・社会・文化、そして生活する人々の背景と根底に、念仏の教えが息づいており、切っても切れない相関関係の上で成立、発展してきました。 しかし、大阪といえば、太閤豊臣秀吉のイメージが強く、本願寺が大きく関わってきた歴史が一般の人々に周知されているとは言い難い現状でもあります。かつては、家庭や地域の中で自然と身についていた真宗の教えも、現在は「人」のつながりが希薄となり、伝わりにくい環境ともなっています。 そこで、歴史的資料の実物や、映像・パネル・レプリカ等を用い、また大坂本願寺寺内町を復元したジオラマ展示などを行い、改めて一般の人々に本願寺、北御堂の事業や歴史等を説明する展示施設を設立し、多くの方々に歴史的な存在を通じて、共有されてきた過去を表現し、その歴史をひも解く中で、大都市「大阪」の中心で、その年代に生きた人びとの心の依りどころとして存在した本願寺(津村別院・北御堂)の歴史を表現したいと考えます。
そして、今までお寺と縁の薄かった方でも気軽に訪れていただき、「浄土真宗」とのつながりを深めていただく機縁となることを願いとしています。

谷井健三「木津川沖海戦想像図」1986

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
谷井健三「木津川沖海戦想像図」1986
戦国時代、軍船技術は急速に発達し、近代海軍の戦艦に相当する攻防力に富む軍船安宅船を生んだ。500石から2000石積と大小はあったが、船体上部に堅木の装甲板を張りつめた総矢倉を設け、兵士と漕手を守るとともに多数の狭間から鉄砲や弓で攻撃できるのを特徴とした。上の海戦想像図は天正6年(1578)、石山本願を救援する毛利水軍を木津川沖で壊滅させた信長の大安宅船。鉄板の装甲は天正4年の難波沖海戦の際、毛利水軍の焼夷弾、焙烙で打撃をうけた対策として考えられ、これにより毛利水軍の攻撃は通ぜず、大敗した(石井謙治)。『週刊朝日百科日本の歴史27』より=図も。

本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対する装甲としたと伝わる。しかし、これを直接的に示している同時代の史料は『多門院日記』しかなく、その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。第二次木津川口の戦いについて詳細に記載しているオルガンチノの報告書では、「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」とあるだけで装甲の有無には触れておらず、『信長公記』においても装甲の有無については記載がない。このため、鉄張り装甲を持っていたのか、という点が疑問となっている(ウィキペディア)。

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