教団の歴史
教団の歴史
本願寺の軌跡 -創建から東西分派、そして現代へ- 草野顕之著
2021-11-14
日本仏教史や真宗史の研究で知られる著者が真宗大谷派の月刊誌『同朋』の2020年7月号~21年2月号に計8回連載した「本廟創立と東本願寺の歴史-その時代と教えの伝統」と加筆分を集成した一冊で、本願寺の起源となった大谷廟堂から現在の真宗本廟(東本願寺)に至る歴史を専門的な知見や写真・図を交えて平易に叙述している。
『同朋』の連載と本書の刊行は今年が大谷廟堂の建立から750年の節目に当たることを踏まえたもので、全9章で構成。親鸞聖人の墓所である大谷廟堂が京都・吉水の北はずれに創建された経緯から覚如上人による寺院化、蓮如上人の中興、戦国期の本願寺教団の権門化、石山合戦と東西分派までを取り上げた『同朋』の連載に加え、第9章「江戸時代から近現代の真宗本廟」を書き下ろした。
近年の研究を踏まえた知見も盛り込まれている。例えば、廟堂の管理者の継職を巡って覚恵と唯善が争った唯善事件について、唯善の「野望」や「策謀」との従来の評価に対し、中世の土地寄進や返還に関する慣習から唯善の主張が「社会的には一定程度の正当性を持って受け入れられました」との側面を解説している点が興味深い。
全編80㌻余りの短めの分量で読みやすい一方、内容の密度も濃い良書だ。
定価1540円、東本願寺出版(電話075・371・9189)刊。
【三河一向一揆と本證寺】
2024-10-22
家康、三河三ヶ寺を降して西三河を統一する
この動画は、三河一向一揆と本證寺について説明した動画です。 家康は1560年の桶狭間の戦いの後、今川氏支配からの自立を目指します。1561年に信長と同盟を結んだ家康は今川氏と決別し、東条城や西尾城を攻撃してこれを落とす一方、賀茂郡や設楽郡の国人に対して調略を行うなど、三河統一に向けて動き出します。1563年段階で家康と対峙していた城主格の国人は、東条城の吉良義昭、荒川城の荒川義広、桜井城の松平家次、上野城の酒井忠尚等で、こうした攻防の中に三河三ヶ寺をはじめとした一向宗も巻き込まれていきます。 三河三ヶ寺が家康と対立したきっかけは、家康の配下の侍が、上宮寺に干してあった籾を兵糧米として奪い取ったとする説をはじめ、諸説あってはっきりしません。当時の記録も断片的に残っているにすぎないことから、戦闘の経過もよくわからないようです。最終的に小豆坂の戦闘で、家康が一揆勢に勝利して両者の間で和議が取り交わされます。一揆方の和議の条件は、不入権の確認と一揆参加者の助命で、家康はこれを飲んで和睦しますが、家康は和睦後に三ヶ寺に対して、本願寺教団からの離脱を要求しし、三ヶ寺がこれを拒否したため三ヶ寺は破却され、1583年に赦免されるまで、家康の領国では一向宗は禁教となりました。 三河一向一揆と呼ばれる出来事は、当時の家康と、反家康勢力との間の抗争の一部分であると捉える方が正確であると言えます。こうした一連の出来事を一向一揆と呼ぶのは、門徒である家康の家臣の侍たちが、寺院に立て籠もって抵抗したことと、その結果、寺院と門徒侍が領国から姿を消したという事実が大きかったからと考えられています。 三河三ヶ寺の1つ、本證寺は、鎌倉時代に慶円によって開かれました。戦国時代には二重の堀と土塁に囲まれた防御力を備えた姿へと変貌します。現在も堀に囲まれ、石垣の上に櫓のような太鼓楼が建つ姿は、あたかも城を彷彿とさせます。太鼓楼は、真宗の有力寺院に見られる特有の建物で、時を告げる太鼓が吊るしてあることからこの名があります。また、寺域の北側には、現在も空堀と土塁が残っており、城郭寺院の雰囲気をよく残しています。こうしたことから、本證寺は城郭寺院の代表的な遺構として評価され、2015年には国の史跡に指定されました。 近年は、本證寺・地域の方々・行政が一体となり、堀の外来生物の駆除、蓮の再生・境内を使った様々なイベント等を行っています。住職は本證寺を、かつての寺内がそうであったように、どんな人でも漏らさず受け入れるお寺にしたいとの思いを持っておられるそうです。昔の景観を取り戻すだけではなく、これから地域と共に歩む、新しい寺院の姿を目指した取り組みが続けられています。
日本の仏教の本山
2024-06-21
【2分で解説】東本願寺 とは?
【2分で解説】西本願寺 とは?
【空から見る】13宗を完全網羅!日本の仏教の総本山・大本山 全16寺
東本願寺
2022-11-20
門主と門首
2023-04-19
『中外日報』〈コラム〉風鐸2023年4月19日 10時40分
浄土真宗本願寺派が1月に大谷光淳門主名で制定した新しい「領解文」に対し、宗内から多数の疑問の声が上がっている
◆3月26日にはついに教学を司る勧学・司教の有志が「速やかに取り下げるべきだ」との声明を発表した。筆者は真宗他派の複数の学僧からも疑問視する意見を聞いたことがある。異常事態と言わざるを得ない
◆現状、それらの意見は新しい「領解文」の内容への批判にとどまっている。ただ、教団の根幹である門主制度への疑問を示唆する声もないわけではなく、そのような認識まで広がれば事態はより深刻になることは言うまでもない。宗務当局はそのリスクを過小評価せずに対応する必要があると思われる
◆ところで、新しい「領解文」は門主の消息として発布されたが、真宗大谷派ではそうしたことは起こり得ない。1981年の宗憲改正で「本派の師主」たる法主を“聞法の首位”を任じる門首と再定義し、教化の指針となる消息の発布はなくなったからだ。宗憲の改正で「正依の聖教」から「歴代師主の撰述及び勧文」は削除された
◆もっとも「では、蓮如上人の御文の繰り読みに正当性はあるのか」などのある種の矛盾もある。宗憲の改正には「教団問題」への先人の深い苦悩があることを知らねばならないが、そうした観点から言えば、隣山の領解文を巡る問題は必ずしも対岸の火事ではない。(池田圭)