栄光の巨人軍
闘魂こめて
讀賣巨人軍球団歌
栄光の巨人軍
巨人軍物語(昭和33年制作)
『ドジャースの戦法』を熟知した男
川上はドジャースで実践され、成功を収めた組織野球戦術「ドジャース戦法」(スモールベースボールの礎)をチームに根ざすことを考えていた。牧野の執筆した記事を読んだ川上はその野球理論に惚れ、ドジャース戦法導入のキーマンと考え、コーチとして入団させた。それまで「特別練習」と呼んでいた練習をより強い意味にしようという思いから「特別訓練」、略して「特訓」という言葉を生み出した。これがマスコミによって喧伝され、現在では誰もが当たり前に使う言葉として定着した。この年の巨人のキャンプはドジャースがスプリングトレーニングを当時実施していたフロリダ州ベロビーチで行われた。
牧野はチームの帰国後もアメリカに残り、ドジャース戦法をはじめとした組織野球戦法の研究に努めた。ボロボロになるまで『ドジャースの戦法』を読み耽り、その内容をすっかり丸暗記してしまった。1963年春にはベロビーチでその著者であるアル・キャンパニスから直接指導を受け、「守備練習こそが勝利への直通路だ」と結論付けた。そしてその成果は1965年から1973年までの9連覇という形で現れる。V9になった1973年には作戦コーチとして活躍し、川上自ら「牧野がいなかったら、V9は達成出来なかっただろう」と語ったことがあるほど、川上巨人の名参謀として川上の絶対的な信頼を得た。川上は後に『知ってるつもり?!』で牧野が取り上げられた際にも「もし牧野がいなかったら、巨人の『V9』は達成できていなかっただろう」と話していた。
『ドジャースの戦法』(ドジャースのせんぽう、原題: The Dodgers' Way to Play Baseball)は、メジャーリーグベースボール(MLB)球団、ブルックリン・ドジャースのスプリングトレーニングにおける訓練係を長年担当してきたアル・キャンパニスが1954年に著した野球技術書かつ野球指導書。スモールベースボールの礎となった[1]。
日本語に翻訳したのは内村鑑三の息子でのちに第3代日本プロ野球コミッショナーとなる内村祐之である。9年連続日本シリーズ制覇という偉業を成し遂げた読売ジャイアンツの監督、川上哲治がその戦法を導入し、徹底して実践したことで日本でも野球教本として広く知られるようになった。
巨人軍のリジェンド
1位指名
(落合さんの年俸)どうかと思う
40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第13回(前編・後編)、落合の移籍1年目に巨人は日本一に輝いた。しかしそのオフ、原辰徳が落合の“年俸4億円超”に不満を漏らす。【連載第13回の前編/後編も公開中】
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第13回(前編・後編)、1994年オフ、いきなり原辰徳が落合の「年俸4億円超」に不満を漏らした。「はっきり言って、原辰徳」41歳になった落合も反撃する。【連載第13回の後編/前編も公開中
「なにィ!?」感情むき出しの原辰徳
<原辰徳は1994年12月19日の契約交渉で「僕自身は現状維持(1億1500万円)で仕方ないけど、パッと(FAで)来た人(※落合)が、自分の何倍ももらうというのはどうかと思う」と言い切った。>
この約2週間前、原は同僚の緒方耕一の結婚式で、長嶋監督が「緒方君は1番で、来年の4番は落合、広沢、新外国人に争ってもらう」とお祝いの言葉を送ると、直後に挨拶に立ち、「ボクは来季、いらないといわれているようだから」と口にしていた。94年はアキレス腱の故障で出遅れたものの、67試合で打率.290、14本塁打、36打点と落合とほぼ同数の本塁打を放ったにもかかわらず、背番号8は構想外のような扱いを受けたのだ。