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親鸞聖人の文及び典拠等

親鸞聖人(しんらんしょうにん)の文及び典拠等

善悪

2022-12-04
『歎異抄』後序
善悪、正邪は優劣等
は時と場所立ち位置
時代によって変わります
他の命を奪いて食べていきている身。
そして、差別心、貪り、瞋り、愚痴という三毒、わが身可愛いという我執。
だから如来の教えを聞く、聞いたから善、聞かないから悪とはわからない。全て決め付けられません。
もしこの書を見聞せんもの
「信順を因とし、疑謗を縁てして信楽を願力に彰し妙果を安養に顕さんと。」  化巻最後の御自釈

【難読漢字】「云云」って読めますか?「でんでん」ではありません!

2022-12-03
現代ビジネス編集部 の意見 - 昨日 6:00

ご消息

2022-11-26
末灯抄十八
弥陀他力の廻向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶ心のさだまるとき、摂取して捨てられまいらせざるゆへに、金剛心になるときを、正定聚の位に住すとも申す。
弥勒菩薩とおなじ位になるとも説かれて候めり
高田御書 巻三(末灯抄十八)
親鸞聖人から随信房(ずいしんぼう)あてのお手紙の一節です。
廻向は「さし向ける」という意味の自力の廻向ではなくて、「如来よりたまわったもの」という意味です。
真実信心の人は仏のお心の中に救いとって、捨てられることがないから、金剛不壊(=ダイヤモンドのようにこわれない)の信心となり浄土に生まれる身と定まった位に住するとも、また弥勒菩薩と同じ位になって、仏に等しいとも言われています。
これが真実信心の人に賜わる境位です。
        聞思抄より
《参考》
親鸞聖人御消息  随信御房
浄土真宗聖典(西)802頁11行~次
真宗聖典  (東)608頁2行目
高田聖典     804頁8行目
聖典
   信巻     正像末和讚
西  263頁     604頁
様  [九九.百]   (26.27.28)
東  249頁    502~503頁
様  6行~13行 (25.26.27首)
高  271頁    642頁
田  5行目   (25.26.27首)
正像末法和讚
二五
 五十六億七千万
  弥勒菩薩はとしをへん
  まことの信心うる人は
  このたびさとりをひらくべし
二六
 
念仏往生の願により
  等正覚に、いたる人
   (正定聚のくらいなり)
  すなわち弥勒におなじくて
  大般涅槃をさとるべし
二七
 真実信心をうるゆえに
  すなわち定聚にいりぬれば
  補処の弥勒におなじくて
  無上覚をさとるなり
   (大般涅槃をもうすなり)
親鸞聖人御消息
  性信御房 しのぶの かさまの
       (真仏房)
西 758頁   792頁  748頁 
様 (二)   10行   3行
東 591頁   590頁  595頁
様       6行目  7行目
高 799頁   798頁  779,頁
田       7行目  2行目

解脱の光輪

2022-11-23
浄土和讚  讚阿弥陀仏偈和讚 第三首 左訓 
解脱の光輪きわもなし
解脱といふはさとりをひらき仏になるをいふ。
我等が悪業煩悩を、阿弥陀のおん光にて砕くといふこころなり
浄土和讚 
讚阿弥陀仏偈和讚 第三首 左訓 
私たちの悪業煩悩も弥陀の光明に照らされると、砕かれ転ぜられて、さとりの縁となります。
自ら解脱されたのが阿弥陀仏ですから、その阿弥陀の光輪に触れると煩悩が解
け、その束縛からのがれる道が開けます。
悪業煩悩は私自身の内から出てくるものでありながら、自分で背負いきれないのです。
それが砕かれてこそ稀有(けう)のお救いです。
       聞思抄より
《参考》
讚阿弥陀仏偈和讚 第三首
 浄土真宗聖典(西)557頁[五]
 真宗聖典  (東)479頁
 高田聖典   515頁 598頁 

解脱の光輪きわもなし
(左訓)
   くだく
  解脱というはさとりをひらき
  仏になるをいう
  われらが悪業煩悩を 
  阿弥陀のおんひかりにて砕く
  というこころなり
光触かぶるものはみな
(左訓)
  光を身に触るるという
  こころなり
有無をはなるとのべたもう
(左訓)
  邪見を、離るるなり
平等覚に帰命せよ 
(左訓)
  阿弥陀は法身にて
  ましますあいだ
  平等覚というなり
正信偈  
《普放無量無辺光》 第十一句
 広くはかり無く、限り無い光
 際限無く照す
如来の光明(十二光)
 聖典  行巻
  お西様  95頁7行目
  お東様  204頁6行目
  高田   226頁9行目

田畑先生から

2021-01-06
聖覚法印のはなし
こういう文章に出会いました。
聖覚法印は法然聖人の43歳まで学仏を次のように書いています。
「ある時聖人、予に語りてのたまわく。法相・三論・天台・華厳・真言・仏心(禅宗)の諸大乗の宗、遍(あまね)く学び、悉(ことごと)く明(あけ)すに、入門は異なると雖(いえど)も、皆仏性の一理を悟り顕(あら)わすことを明(あか)す。所詮は一致なり。
されど、法は深妙なれども、わが機(ちから)すべて及び難し。経典を披覧するに、その智、もっとも愚なり。行法を修習するに、その心ひるがえってくらし。
朝、朝に定めて悪趣に沈まんことを恐怖す。夕、夕に出離の縁の欠けたることを悲歎す。茫(ぼう)々たる恨(うら)みには渡(わた)るに船を失うが如し、朦(もう)々たる憂いには闇に道に迷うが如し。
歎(なげ)きながら如来の教法を習(なら)い、悲しみながら人師の解釈を学ぶ。黒谷の報恩蔵(ぞう)に入りて、一切経を披見することすでに五遍におよびぬ。しかれどもなおいまだ出離の要法を悟り得ず。愁情いよいよ深く、学意ますます盛んなり。
ここに善因たちまち熟し、宿縁とみに顕(あらわ)れ、善導和尚勧化の書を拝見するに、末代造悪の凡夫の出離生死の旨をたやすく定め給えり。ほぼ管見していまだ玄意(げんい)をきわめずといえども、随喜(ずいき)身に余り、身毛(みのけ)もよだって、とりわき見ること八遍。時に観経の散善義の、一心専念弥陀名号……順彼仏願故の文(もん)にいたって、善導の玄意を得たり。
随喜のあまり、あたりに聞く人なかりしかども、予がごときの下機の行法は、阿弥陀仏の法蔵因位の昔、かねて定めおかるるをや、と声高にとなえて、感悦(かんえつ)髄(ずい)にとおり、落涙千行なりき。終(つい)に承安五年の春、齢43歳の時、たちどころに余行をすてて、一向専修念仏門に入りたもう」と、まのあたり眼に見るように描写し出されてあります。
一心専念の文とは「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問わず、念じ念じて捨てざれば、これを正定の業と名く。彼の仏願に順ずる故に」とあるので聖人はこれによって「往生の業、念仏為本」と決定の信を獲られたのであります。
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