ヨキヒトの仰せ
ヨキヒトの仰せ【文字データ編】
獲得と成就
2022-10-11
facebookYasuda Rizinさん曰く、安田理深先生還暦記念写真
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これまで得なかったものを初めて得ることが出来たというのを獲得というのです。
そして、いっぺん得たら失わないというのが成就です。
こういうように、得というのは「身についた」ということです。
成就というのは「落とすことがない」のです。
だから財布の金を落としたというのは得ていないのです(笑)
西行で死ぬか、親鸞で生ききるか。それが問題だ。宗教学者・山折哲雄さんの終わり方
2023-02-21
日本人の宗教観から日本文化まで、幅広い研究で知られる宗教学者の山折哲雄さん。
若い頃からさまざまな病を経験しながらも、87歳を迎えた今年、死生観についての考えを『ひとりの覚悟』(ポプラ社)にまとめました。
そんな山折さんに、「自らの終わり方」について、なかまぁるの冨岡史穂編集長がインタビューしました。
「私たちの使命」
2023-02-05
「法蔵菩薩は我々の代表者か、仏の代表者か?」(曽我量深師)
2023-02-03
facebook宮岳文隆さん曰く
「法蔵菩薩は我々の代表者か、仏の代表者か?」(曽我量深師)
「法蔵菩薩は我々の代表者か、仏の代表者か、普通は仏の代表者と云われて来たが決してそうではない。助ける方の代表者は単なる助ける方の代表者ではない。
第十八願に十方衆生とあるが、その十方衆生の中に阿弥陀仏が居るか居ないかが第十八願の問題である。助ける方に属する仏が、助かる方に属する筈はないというのは単純な見解である。一体之を助けるには助かる身になってみねばならぬ。助かる身の中に助ける人を見るのである。
真実助かる身になって助ける本願が成就されるのである。第十八願の十方衆生とは『我々十方衆生』といふのである。衆生の悩みを我が悩みとして衆生と同じ悩みを持つ。(中略)『成唯識論』の中に『摂して自体と為して安危を共同(ぐどう)す』とある。即ち衆生をあまねく摂して自らの体とする。法蔵菩薩は一切衆生を自己におさめて自らの体とするのである。安危は生死であり、苦楽である。死ぬも生きるも衆生と共にする。自分一人悟りを開こうとするのではなく衆生と共に悟りを開こう――これが法蔵魂である。(中略)法蔵菩薩は助ける仏の代表者と一応解釈されるが更に深く掘り下げると我等一切衆生の代表者である。助ける仏の代表者は救いを求める我等衆生の代表者でなければならぬ。」(『曽我量深講義集』第2巻22頁より)
■「摂して自体と為して安危を共同(ぐどう)する」すなわち「あなたが喜べば私もいっしょに喜び、あなたが地獄に落ちれば私もいっしょに地獄に落ち、どこまでも未来永劫あなたと運命を共にするよ」と呼びかけてくださるのが法蔵菩薩です。これは「タスケテ」としての法蔵菩薩の声です。しかしそれだけにとどまらず、その声に感動して地獄を恐れる私を破って「地獄におちてもさらに後悔すべからずそうろう」と立ち上がってくださるのもまた法蔵菩薩です。これは「タスカリテ」としての法蔵菩薩です。法蔵菩薩は、「タスケテ」にとどまらず「タスカリテ」にまでなって私の中から発起してくださるのです。これを如来回向の信心というのでしょう。そこから新しい生活が始まると。