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ヨキヒトの仰せ

ヨキヒトの仰せ【文字データ編】

facebook 田代俊孝 先生曰く

2024-01-18
『真宗学講義ノート』同朋大学別科の受講生が作ったノートです。別科生はもちろん、安居や各地の秋安居で参考書として領布したら、希望が多くて3刷までしました。最近ご希望の方がありましたので残部を法蔵館に置いて頂くことにしました。領布価格は税込1300円。法蔵館へお早めに。もう増刷する予定はありません。
この講座は、真宗学概論で、寺倉襄先生、池田勇諦先生の後を受け、30年間近く担当していた講座です。授業の前に正信偈の訓読をしていました。作られた方は、元建設省関係の研究員でPCを持ち込んで授業を受けていました。追加項目を加筆された方も異分野の修士課程の修了者です。内容は図表などを用いて綺麗に整理されています。今から思うとよくも一年間でこんなにたくさん話したと思います。よく、学生から言葉もテンポも早すぎると怒られました。

第31回真宗教学学会講演会

2023-12-20
(講演②東舘紹見 氏)
◆テーマ 「人と生まれて―信仰と社会―」 

◆講演会レジュメ・当日資料(※二次利用禁止) https://drive.google.com/drive/folder... 

◆講演①
    講 師:島薗 進 氏(大正大学客員教授、NPO東京自由大学学長、東京大学名誉教授) 
    講 題:「日本仏教における「救い」と社会倫理」 

◆講演②(本動画です) 
   講 師:東舘 紹見 氏(大谷大学教授) 
  講 題:「宗祖親鸞聖人の求道と「世間」」 

◆真宗教学学会講演会について 真宗教学学会では、毎年、真宗本廟(東本願寺)の報恩講期間中に、宗派内外から講師をお招きして講演会を開催しています。その講演会のテーマを、今年度からは新たに「人と生まれて」と設定しました。 今春の「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」では「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」とのテーマが掲げられました。三帰依文の冒頭でも「人身受け難し、いますでに受く」とあります。人と生まれたことは、決して当たり前ではありません。その意味をたずねていくことが、私たち一人ひとりの大切な課題ではないでしょうか。 私たちは共に人の身を受け、今ここに共に生きています。人と生まれたことは、私たちが共に生き合うにあたってまず確認しておかなければならないことでしょう。 そこで、このテーマを掲げる最初の年は、「信仰と社会」というサブタイトルをつけました。信仰は私個人の中に起こる出来事ではありますが、私を取りまく社会の中で問いかけられ、意味づけられてくるものです。信仰は社会とのいかなる関係にあるのか、信仰者は社会といかなる関係を結ぶのか。共に考える機会となることを願っています。

わが師の文章との出遇い

2023-12-16
細川 行信(ほそかわ ぎょうしん、1926年2月18日 - 2007年10月24日)は、浄土真宗の仏教学者。
facebook 土田龍樹さん曰く
今年もあと半月。あっという間の一年でした。
今年はゼミの恩師細川行信師の十七回忌でした。
ふと思いおこしてみると、小生が卒業してまもなく、住職となり、寺報を発行すべく、先生にお願いして原稿を書いていただいたのを思い出しました。もう35年も前のことです。
今読み返してみると師恩を沁みじみ感じます。
お育てに感謝です。ナンマンダブ
その原稿を十七回忌のご勝縁にあたり、ご紹介させていただきます。
この原稿は、昨年六月に大谷大学教授細川行信先生が当紙のために書きおろして下さったものです。
『すみません』
大谷大学教授 細川行信
『一杯のかけそば』を読んで
三月に卒業式をおえて多くの学友が、それそれの国許へ帰られました。私は今学年も留年、このまま二年後に停年を迎えそうです。
と言っても明日をもしれぬ命ではありますが。
さて四月に入り、入学式のあと多忙な日々からようやく月末の連休を迎え、ゆっくり新聞の文化欄を見ていると、大反響を呼んだ『一杯のかけそば』の本が詳しく紹介されていました。
その内容に強く心をうたれましたので、さっそく書店に行きましたが、どの書店も品切れ。残念に思っていましたところ、ちょうど民放のテレビで本の朗読と口演を聴いて、聞くたびにとどめなく涙がでました。
そのうち特に『一杯のかけそば」の深い共感から、この本を書かれた栗良平さん自らの口演を承って、私なりに悲喜の涙が尽きなかったのです。一体何が頑固な私の心に身にしみるのでしょうか。
実は晩春の今、家の小庭に咲く花一杯の密柑、その甘酸ぱい香りを胸一杯に吸って、書庫で朝のひとときをお念仏の御聖教に親しんでおります。
こうした中で、お念仏の香光が感じられます。すなわちそれは聖人のご和讃に念仏の元祖法然上人を偲んでの一首、「浄土和讃』のおわりに「染香人のその身には、香気あるがごとくなりこれをすなわちなづけてぞ香光荘厳ともうすなり」が念頭にうかびます。
従って『一杯のかけそば』もまた香光荘厳としてお念仏せずにはおれません。
『一杯のかけそば』の始まりは、十五年前の大晦日の夜、二人の男の子を連れて北海亭の戸を開いて「すみません、あのーかけそば一人前、よろしいでしょうか」との母親、それに応じて一・五人分のそばをだしてとてもおいしく一人前を三人が互いに譲りあっていただき、その親子がそば屋さんに「ありがとうございました。どうかよいお年を」の声。
それを弟の淳ちゃんが作文に「一杯のかけそば』として綴り、それが北海道の代表に選ばれたこと。
その親と子が額をあわせて語る会話に読むもの聞くもの共に泣かずにはおれません。
私もその情景を想像しながら、かっての『おしん』の苦労をこえて心あたたまるもの、人間が忘れかけていた真実をしらせていただきました。それこそ私は「すみません」「ありがとう」の言葉に違いないと、ふと私の口よりお念仏が出てまいります。
お念仏、すなわちみ仏の名号を、親鸞聖人は「円融至徳の嘉号」といわれ、それは「悪を転じて徳を成す正智」と申されました。その仏の御名は濁世に生きる「極重悪人」の私が身にかけられ、わが心を貫徹するもので、濁悪をすま(清澄)して「すみません」と申す外ございません。
これを仏教では懺悔(さんげ)といい、仏法聴聞の大地であります。
かって特攻隊の一員として大海原に散った若人が、いわゆる辞世の句に「すくわれぬ身にしみわたるみ名の声」と詠んだ手帖を前に、母も妻も、そして四十五年たった今も涙しながら、お念仏申さずにはおれません。
何よりも「すくわれぬ」と自身を省かれる深さこそ、その底の底から一人ももらさず救う大悲の願心に感応いたします。そして「身にしむ」というしみとおるお念仏の香光、その染香人のご和讃を重ねて味あわせていただくのです。
このところ、今年は『奥の細道』の三百年ということで、元禄二年(一六八九)三月二十七日今の陽暦に当てると五月の十六日、前途三千里の旅に出発した。奥州路を白河より平泉へと進み、高館での「夏草や兵どもが夢のあと」は、かつての古戦場をしのんでの感懐。それは「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」として詠まれた一句。ついで尿前(しとまえ)の関を越えて出羽の国へ入り、山形領の立石寺という山寺を訪れた。そこでの「閑さや岩にしみ入る蝉の声」に、私は岩のごとき身にしみとおる仏のお呼び声を聞く思いで、ふとお念仏がこぼれました。ところで、この蝉の声について私は先年、一夏のあいだ木々の多い病院で療養中、蟬しぐれを耳にして曇鸞大師の『浄土論註』にある「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず」の言葉を想起しました。その蟪蛄はつくづくぼうし。かって「岩にしみいる蝉の声」について、斉藤茂吉と小宮豊隆との間に論争があったといいます。
しかし私は曇鸞大師の『論註』より、閑かな浄土を夢みて、わが煩悩の身に染み入るのは、つくつくぼうしの一心不乱の声かといます。
そして六十三回の春秋を重ねた私は、「閑さや」の俳聖芭蕪の句より、さらに近くは一杯のかけそばの「すみません」「ありがとう」より、お念仏の懺悔と報恩を味わい、ひとときの今を精いっぱい念仏の息をしながら、かけがいのない人生の旅を歩んでまいりたいと念じております。
お約束の原稿ようやく書きあげましたが、大変おそくなってごめんなさい。
著作集

鈴木大拙氏

2023-10-07
鈴木大拙氏に聞く 古田紹欽 武藤義一
聞き手は、松が岡文庫の古田紹欽さんと埼玉工業大学名誉学長の武藤義一さんです。昭和38年の収録です。
鈴木大拙博士の日常生活 その1
ラジオ「心の時代」お話しは岡村美穂子さんと楠恭さん。 聞き手は金光寿郎さんです。
鈴木大拙博士の思想と行動をめぐって その1
お話しは岡村美穂子さんと楠恭さん。 聞き手は金光寿郎さんです。
鈴木大拙の日本的霊性をめぐって 岡村美穂子
鈴木大拙の世界 上田閑照
鈴木大拙の世界 上田閑照 お話は、京都大学名誉教授の上田閑照さんです。
岡村美穂子 見事な人々1
岡村美穂子 見事な人々の1回目です。 お話しは大谷大学講師の岡村美穂子さん、聞き手は金光寿郎さんです

新刊☆ 『真宗児童聖典』 青少幼年センター 制作

2023-07-08
『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』『正信偈』を、
子どもたちに伝わるよう語りなおした一冊。
阿弥陀さまの物語と親鸞さまの詩にふれてみませんか? 
試し読み・ご購入は https:// higashihonganji-shuppan.jp/books/jidouseiten/...  
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