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ヨキヒトの仰せ

お釈迦様の生涯と教え

「成道会(じょうどうえ)」―釈尊が悟りを開かれた日

2020-12-29
hp西蓮寺様より お説法は。住職 中川正法先生です。
法話2020/12/06更新

「成道会(じょうどうえ)」―釈尊が悟りを開かれた日

 

 釈尊の生涯に深く関連する日のひとつが、12月8日です。
 この日は何の日ですかとお尋ねすると、「太平洋戦争開戦の日=真珠湾攻撃の日」「ジョン・レノンが亡くなった日(今年は40年目を迎えます)」、あるいは地方によっては「針供養の日」という答えが返ってきます。「お釈迦様がお悟り(さとり)を開かれた日でしたね」というお答えは、ご門徒の皆さんからもなかなか出てきません。12月を迎えるとともに、街はクリスマス一色となり、ますます「じょうどう」の存在は、かき消されてしまうようです。

 およそ2500年前、東北インドにあった小国「シャカ国」の王子シッダールタは、地位・財産・名誉など私たちが欲するすべてのものに恵まれ、何不自由なく過ごしていました。しかし、老人や病人さらには死人との出遇いをとおして、人として生まれた以上、老・病・死からまぬがれることができないという「わが身の事実」に気づき、思い悩みながら、真の幸せとは何かと深く考えていました。

 その時、出家をし、質素な身なりながらも、心身を制御しながら善につとめ心穏やかな境地を求める生き方に励む「沙門しゃもん」と出遇いました。29才のとき、意を決してお城を出て、修行生活に入りました。もちろんお城は大騒ぎ。沙門となった王子を見つけたマガダ国王ビンビサーラは、財や軍隊をあげるから国に戻ってはと申し出ましたが、「私はこの生活を楽しんでいます」といって、その申し出を断っています。

 シッダールタは、師をみつけて瞑想の方法を学びましたが、その境地には満足せず、5人の仲間とともに断食をはじめとする厳しい苦行を続けましたが、求める境地にはいたることができず、修行を放棄します。ほぼ骨と皮だらけの体を河に入って清め、ふらふらと歩いている苦行者を見た村娘スジャーターは、神様に捧げようとして持っていた乳粥を彼に与えました(この娘の名がコーヒーに入れるミルク製品名になっています)。元気を回復したシッダールタは、近くにある大きな樹(ピッパラ樹)の下に座し、深い瞑想に入りました。

 その時、彼の前に悪魔(マーラ)が現れます。武器や雨風で襲いかかり、あるいは美しい女性を登場させて誘惑をしたり、あらゆる手段を用いて邪魔をしました。このマーラの襲来は、内面の様々な欲望との闘いや苦行を棄てたことへのうしろめたさを表しているといわれます。しかし、悪魔の襲来を降伏(降魔ごうま)され12月8日の明け方、明けの明星が輝くなか、悟り(बोधि, bodhi:菩提)を得られ、ブッダ(बुद्ध, Buddha)「目覚めたもの」となられました。この出来事を「降魔成道」といいます。お城を出て6年目、シッダールタ35才の時のことです。以後、ブッダ(仏陀)と呼ばれます。

 瞑想に入られた大きな樹は後に「菩提樹」と呼ばれるようになりました。また、悟りを得られた場所は、ブッダガヤとよばれ仏教聖地の一つとして世界中から仏教徒がお参りに来られます。現在この地には、52メートルの大塔が建っており、世界遺産となっています。

 「さとり」とは何か。どのようなことに「目覚められた」のかは、またいずれ。

仏を仏たらしめた法というものは

2021-04-21
釈迦仏が発明したのではない。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


994
仏を仏たらしめた法というものは
釈迦仏が発明したのではない。
発明したのなら法とは言わないのです。
釈迦仏が出遇った。
見出した。
作ったのではないのです。
そういう真理がある。
真理といっても理論的な真理という意味ではない。
本来的な真理です。
われわれが忘れていた真理です

ブッダ 最期のことば 1.2.3.4.

2020-06-14

涅槃交響曲

2021-06-08
黛敏郎追悼コンサート:涅槃交響曲
https://youtu.be/IUnAHyZD_d4

作曲:黛敏郎 
指揮:岩城宏之 
演奏:東京交響楽団 東京混声合唱団 
1998年7月2日 サントリーホールにて
https://youtu.be/3NwHcUJNgsU
黛敏郎作曲「スポーツ・ニュースのための音楽」 
「題名のない音楽会」 
特集「スポーツの秋」 
秋山和慶指揮東京交響楽団 
黛敏郎氏のかわいい姿です

黛敏郎 創作の世界


逆なんです

2023-01-08
facebook名言の宝箱 さん曰く
逆なんです
仏教のなかには,
「托鉢」という行があります。
笠をかぶったお坊さんが、
手に鉢をもって家々を回り
お布施を頂くという行です。
お釈迦さまは、
托鉢に向かう弟子たちに、
こう言ったんです。
「お金持ちの家ではなく、
貧しい人たちの家を回って
托鉢をしてきなさい」
普通、
お布施をいただくんですから、
お金持ちのところに行くのが
常識ですよね?
しかし、
お釈迦さまの思いは
別のところにありました。
貧しい人がなぜ貧しいのか。
それは、
自分のためにしか
お金を使わないからであり
その人たちに
与える喜びを味わってもらう
機会を生みだすのが、
托鉢の真の目的だったのです。
友人の絵本作家の 
のぶみさんが
こう教えてくれました。
「神社のご神体が鏡なのは、
なんでだと思いますか?
鏡は、
『この世界はすべて逆なのだ』
ということを教えてくれているんです。
鏡に映すと、
右と左が逆になるように。
神社では、
お願いをしにくる人の願いが
叶うんじゃなくて、
神様の願いを
聞きにきてくれる人の願いが
叶うんです。
逆なんです。
神社で売られている
お守りもそう。
お守りに守ってもらおう
と頼る人が守られるのではなく、
このお守りを守ろう守ろう、
大切にしよう
と思う人が守られる。
逆なんです。
神様の願いを
聞きにきてくれる人というのは、
自分の願いだけを言いに来る人
ではなく、
みんなの幸せを願いにくる人
だそうです。
だから、のぶみさんは
神社ではこう祈っているそう。
「神様のお手伝いが
できますように。
日本が ちょっとでも
良くなるように、
がんばりますから」
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