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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

Facebook 闘諍堅固

2021-09-14
とうじょうけんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。

五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

· ‪17.18歳の青年達‬ ‪2時間後に出撃(特攻)予定時の写真

2022-08-15
facebook Jun Yamatoさん曰く、 ‪先人達のお陰で今が有るのを忘れてはならない、
‪2時間後に出撃(特攻)予定、天候不良で翌朝5時鹿児島万世飛行場より出撃 3時間後沖縄周辺の米艦に突撃・散華‬ ‪

「出撃すれば必ず死ぬ 鉄の棺桶」

2022-08-10
人間魚雷「回天」の生き残り・・ナレーター:滝藤賢一 ドキュメンタリー
名古屋の喫茶店にタバコをくゆらす男性がいた。 
岡本恭一・90歳(取材当時)。 
敗戦濃厚の中で開発された人間魚雷「回天(かいてん)」の搭乗員の生き残りだ。 
回天 は魚雷を人が乗れるように改造した特攻兵器。 
先端に1.5トンの爆薬を積み、潜水艦から発射。 
海中から敵艦に体当たりする。
 脱出装置は作られず、出撃すれば必ず死ぬ兵器だった。
 戦没者は106人。
その平均年齢は21歳。
 開発者は、岐阜県下呂市出身の黒木博司少佐。
 自らの血で上層部に嘆願書を書き開発にこぎつけた。 
「天を回(めぐ)らし戦局を挽回するために」との 意味が込められた回天。
 黒木の思いは何だったのか・・・。 
生き残りの搭乗員・岡本は、 山口県周南市の大津島に時折出向く。 ここは「回天」の開発・訓練が行われた島。
「聖地」だと言う。
 搭乗員は何を思い訓練していたのか・・。 戦後70年に吐露した 、 兵器になった若者たちの思いとは。 
CBCテレビ 2015年8月放送

ファットマン 核爆弾 (1945年 - 1950年)

2022-08-10

Facebook 中村 マコさん曰く


 
アメリカ合衆国 --- アメリカ陸軍 - アメリカ陸軍航空軍 

 Mark 3 ファットマン 核爆弾 (1945年 - 1950年) 

- 3DCG 
- 長さ : 3.3 m
- 直径 : 1.5 m
- 重量 : 4 670 kg 
- 弾頭 : 原子爆弾 (インプロージョン方式)  

【広島型との比較】
 核出力 : 15 kt (63 TJ) - Mark 1 リトルボーイ 
     21 kt (88 TJ) - Mark 3 ファットマン
原爆の歴史を語り継ぐ - Google 歴史アーカイブ/ Hiroshima Nagasaki Historical Moments
 2013/09/06  
広島平和記念資料館と長崎原爆資料館と協力し、両資料館が所蔵する原爆に関する歴史的資料を「Google 歴史アーカイブ」で公開しました。 

広島平和記念資料館  https://hpmmuseum.jp/

九州〝深〟探訪 幻の戦闘機「震電」模型展示 福岡県筑前町立大刀洗平和記念館

2022-08-07
2022/08/05 21:47

終戦前、プロペラを機体後部に付けるという斬新な航空技術を駆使した旧日本海軍の戦闘機「震電(しんでん)」が、現在の福岡市博多区にあった蓆田(むしろだ)飛行場(現福岡空港)を飛び立った。米爆撃機B29の迎撃のため開発された最新鋭機だったが、すぐに終戦を迎え「幻の戦闘機」として歴史の片隅に追いやられた。福岡県筑前町の町立大刀洗平和記念館では「航空技術発展のシンボルに」と、この震電の実物大模型を購入して7月から展示、ユニークな機体が人気を集めている。

九州飛行機が開発

米軍は昭和19年6月の北九州空襲を手始めに爆撃機B29による本格的な都市爆撃を開始、戦況は一段と重苦しさを増した。B29は高度1万メートルを最速570キロで飛行、航続距離も9千キロというスーパー爆撃機だ。

「なんとかB29を迎撃できないか」。そうした中、海軍は個性豊かな航空機の製作で知られた九州飛行機(福岡市)に、B29迎撃の切り札となる局地戦闘機の開発を指示。こうして誕生したのが震電だった。当時の戦闘機は高度8千メートル、最高速度は600キロ台がやっと。これに対して震電の目標は高度1万2千メートルまで上昇、最高速度は時速750キロという超高速戦闘機だった。

機体後部にプロペラ

こうした高性能を達成するため震電は、既存の戦闘機とは全く逆のスタイルになった。

空気抵抗を減らすためプロペラは機体後部に取り付けられ、主翼は後方に移動した。「エンテ型」(エンテはドイツ語で鴨の意味)と呼ばれ、機体を小型・軽量化することが可能という。

昭和20年8月3日、試作機の震電は蓆田飛行場から試験飛行に飛び立った。試作機は3機製造され、8月6日、8日と試験飛行が続けられ、飛行能力の高さが確認された。だが、そのまま15日の終戦を迎えてしまった。

震電は米軍に接収され、1機は分解され、ワシントンのスミソニアン博物館に運ばれ、他の2機は破壊されたため、震電は国内では実物を見ることができない「幻の戦闘機」となってしまった。

零戦とともに展示

平成21年に開館した筑前町立大刀洗平和記念館は大正8年に陸軍によって建設された大刀洗飛行場の跡地に立っている。同館は飛行場の歴史や空襲、特攻などを紹介してきたが、展示のもう一つの大きなテーマは「航空技術の発展」。このため、マーシャル諸島のジャングルから回収し、修復した零式艦上戦闘機(零戦)や博多湾で発見され、引き揚げられた九七式戦闘機のほか、機体の長さが約30メートルもあるB29の骨組みオブジェも常設展示してきた。

大刀洗飛行場の周辺には、かつて陸軍機の修理や製作を担当してきた「太刀洗航空機製作所」があり、前身は九州飛行機と同じ「渡辺鉄工所」だった。こうした背景もあって同記念館では震電が離着陸する短い映像や小型模型、震電に使われたのでないかと見られる航空羅針器を展示。スミソニアン博物館に実物の里帰り展示を要請したこともあったが、断られたという。だが、今年になって東京の映像制作会社が震電の実物大模型を製作したことを知り、輸送費などを含め2200万円で購入。7月6日から展示を始めた。

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