A猪木の世界
【 プロレス編】
「猪木のいない1年間」
2023-10-10
2022年10月1日にアントニオ猪木がこの世を去って、1年が経った。燃える闘魂に魅せられた人々は、「猪木のいない時間」をどう生きてきたのか。半世紀にわたって猪木を撮り続けたカメラマンの原悦生氏が、“猪木がつないだ縁”や在りし日の旅の思い出を綴った。
燃える闘魂 アントニオ猪木
2023-05-31
燃える闘魂 アントニオ猪木 追悼VTR
プロレスの神様と燃える闘魂共同トレーニング。| Karl Gotch and Antonio Inoki Workout Together
A猪木死す!!
2022-10-02
【朝日新聞】
◆ (現場へ!)拉致、北朝鮮と向き合う:1 力道山の叫び、直接届ける
2022/9/12
プロレスラーのアントニオ猪木(猪木寛至)氏(79)が初めて北朝鮮を訪れたのは参院議員だった1994年9月。きっかけは人生の師と仰ぐプロレスラー、力道山だった。
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猪木氏は1943年、横浜生まれ。中学時代の57年、一家でブラジルに移住した。力道山にスカウトされて60年に帰国し、プロレス界に入った。しかし63年12月、力道山は東京で暴力団関係者に刺され39歳で早世する。猪木氏は90年代に新聞記事で、力道山が朝鮮半島北部で生まれ、娘が北朝鮮にいると知った。
力道山の民族名は金信洛(キムシルラク)。大相撲にスカウトされ「長崎生まれの百田光浩(ももたみつひろ)」と名乗った。63年1月、韓国を内々に訪問。北朝鮮との軍事境界線がある板門店で上半身裸になり、故郷の北に向かって「お母さん」「兄さん」と叫んだという。
猪木氏は61年、付き人として力道山の新潟訪問に同行し、1 日休みをもらったことがある。師匠はゴルフでもしたのだろうと思い込んでいた。実際は、力道山が北朝鮮からの船で来日中の長女•金英淑(キムヨンスク)氏と新潟港で会っていたことを、後に知った。
猪木氏は、師匠の代わりに訪朝したいと考えた。「師匠の故郷への無念の思いと叫び声を届けるのが、恩返しになる」
94年7月に平壌への訪問を計画したが、北京空港で金日成(キムイルソン)主席の急死を知らされ、中止に。9月に改めて訪朝すると、空港に金英淑氏が迎えに来ていた。
平壌で金容淳(キムヨンスン)・朝鮮労働党書記に「プロレスを見たことがありますか」と切り出した。「ない」と答えたので「では本物を見せましょう」。95年5月、平壌で体育文化祭典を開き、プロレスの試合を実演。2日間で38万人が集まった。2018年9月まで計33回訪朝した。
三冠の一翼は、このベルトが担います。
2021-05-15
アメリカで誕生し、日本へ輸出されたUNヘビー級王座
https://youtu.be/VuNHsVzq3Oo
1976年8月26日、日大講堂でジャンボ鶴田とブリスコの間で王座決定戦が行われ、鶴田が勝利を収めて王座を奪取、鶴田用のベルトとしてPWFヘビー級王座に次ぐNo.2のベルトとして全日本に定着
1976年8月26日、日大講堂でジャンボ鶴田とブリスコの間で王座決定戦が行われ、鶴田が勝利を収めて王座を奪取、鶴田用のベルトとしてPWFヘビー級王座に次ぐNo.2のベルトとして全日本に定着