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田畑正久先生の話

お釈迦様の生涯と教え

お坊さんは・・・。

2022-05-12
Facebook 田畑正久さん曰く

尊敬する仏教者の言葉

「医者は間違った薬を出したり、

    間違った処置をしたら、人を殺してしまうことがある。

    お坊さんは間違った説教をしたら、いのちを殺してしまう」

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界

2022-11-04

facebook田畑 正久さん曰く


「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄後序)

人は皆
夢のごとき希望を追い
幻のごとき欲望に生き
されどこれを得るも煩悩なり
これを失うも煩悩なり
無常の大火のがれ難(がた)く 生死流転やみ難し 
如来は金剛の真心なり 何ぞこれに徹せざる
念仏もまた金剛の真心なり 何がゆえに求めざる
如来金剛の真心 汝の胸中に燃えて真実信心の聖火となる
この聖火 無明の大夜を自照して

【住岡夜晃法語】

2022-07-03
Facebook 田畑正久さんの投稿
自利満足する者にのみ 利他の大用(だいゆう)おこる
苦難に遇わば精進せよ 
周囲に不徳我慢をみれば 沈黙して精進せよ
汝の上に不幸おこらば ますます精進せよ
人より侮辱(ぶじょく)悪罵(あくば)せらるれば 己を見つつ精進せよ
人に尊敬讃嘆せらるとも 念仏一道に精進せよ
精進のみ 汝の上に自利成就せしめたもう
汝の精進にしてご冥見(みょうけん)に叶(かな)わば
必ず 計(はから)わずとも 任運自然に利他成就して
汝の周囲には 清浄なる人格の華が咲くであろう
この鉄則を無視して生まれたる一人の聖賢なく 社会なく 国家無し
御恩の大地に頭を垂れて この念のみいよいよ滋(しげ)し 【住岡夜晃法語】

田畑正久先生のお話

2023-02-28
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第432回
(令和4年12月 5日掲載)医療文化と仏教文化(258)
    第425回の「自分を空っぽにする」ということについて、小学4年と6年の孫から、「どういうこと?」と質問されました。
    仏教には「人間は三回生まれる」という話があります。1回目は出生による誕生です。2回目が「自我意識」の誕生です。それまでは「私は」「私が」という「自我」はなく、純真で空っぽです、小ざかしさがないからかわいいのです。
    自我意識は段階的に発達します。一才半ぐらいで自分というものを認識するようです。「〇〇ちゃん」と名前を呼ばれて「それって自分のこと?」と認識するようになります。それが「自我(意識)」の誕生です。そした、他人から見られた自分も意識するようになります。
    3回目の誕生は、仏教的な誕生です。それまで自己中心的に外の事象を見て、好き嫌い、善悪、損得、勝ち負けで二元的(相対的)に見ていたのに、それが迷いを繰り返しているだけの空過流転の虚偽であったと目覚めるのです。
    生命の起源をたどると、私たちは生命の歴史37億年の連鎖の最先端にいて、身体はこれまで食べたり飲んだり呼吸したもので作られ、人間関係や社会から学んだ知恵によって生活をしています。自分は宇宙全体と無限に関係して常に変化している無我・無常の存在であるという目覚め、仏の智慧の働く場である浄土に立っている自己を発見する誕生です。
    そこでは「私は」という自我意識中心の偏見や思い込み、好き嫌い、損得、勝ち負け、善悪、苦楽の思考は影を潜め結果として自我が空っぽになります。私の存在の背後にあるもの、今まで私を支え、生かし、育て、教育して、見守り、導いて、経験させてくれた無数の因や縁に気づきます。そして現在の状況を謙虚に受けとめ、物事を総合的に考え、少しでも良かれと思う方向に行動するのです。思いや感情に執われ振り回されるのではなく、自分の思いや感情に少し距離を置いて柔軟心で見ることができる存在の誕生です。
    仏の教えによって今日までの私になされた多くのご苦労を知る時、そのご恩に報いることを私の役割と自覚して、「これが私の果たすべき使命、いや、仏さんから頂いた仕事だ」と生き生きと取り組むのです。

田畑正久先生のことば

2022-11-17
ドイツの哲学者フィヒテ(1762-1814)の「死ぬ心配をする人は、『今』を生きてない」
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第427回
(令和4年 9月19日掲載)医療文化と仏教文化(253)
 
    大分大学医学部医学科・看護学科や、以前、奉職していた龍谷大学文学部の講義で「医療と仏教は、同じ生老病死の四苦を共通の課題にしています」という内容の話をする、と多くの学生が「医療と仏教が同じことを課題にしているというのは初めて聞きました」という反応を示します。医学の進歩によって、確かに医療は多くの病気に対応することができるようになりました。現実問題として言えば、老病死を先送りすることで統計的には日本人の平均寿命は世界に誇ることのできる水準になっています。
     ただ医療と仏教が同じ課題に取り組むと言っても、「平均寿命を延ばすために仏教は何か貢献しているか」と問われても目に見える貢献はしていません。そうではなくて、仏教は「生老病死という四苦」への対応に力を発揮しているのです。そのヒントはドイツの哲学者フィヒテ(1762-1814)の「死ぬ心配をする人は、『今』を生きてない」という言葉です。
      この言葉で思い出すのは。がんによって49歳で亡くなった親しいいとこの嘆きです。病状が進み治療の見込みが立たなくなった時、私が「病気を良くすることより、症状の緩和に重点を移した方がいいかも知れない」という趣旨のアドバイスをしました。すると彼は「明るい方向が見えないと言いうのは、いたたまれない」と言うのです。それを聞いて、私には次の言葉が出てきませんでした。
     私たちの世代は戦後の貧しい時代から右肩上がりの経済の発展の中を生きてきました。貧しかった当時の状況からすれば「現在の豊かさに何の不満があるだろうか」と思います。それでも、その満足は「足るを知る(知足)」というものではありません。
     私たちは日頃の生活で量的に測れる領域で満足を目指しています。しかし、都合よく行っているうちは一時的な満足は得られますが、すぐにそれが当たり前になってしまって、これで十分だと満足する知足の思いなくなるようです。大腸がんの手術を受けた人がしばらくの間は助かったと喜んでいたのに、1年もするとその思いは忘れてしまったと言っていました。
     日頃分別の思いや願い、欲を満たすことで満足が得られるという私たちの思考方法、明るい理想を目指す理想主義を仏教は「無明」「智慧がない」と言い当てているのです。



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