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時代と女性

時代・社会の中で女性はいかに生きたか・・・。

新五千円札の顔、津田梅子ってどんな人?

2024-07-19
出典:津田塾大学デジタルアーカイブ 新紙幣の肖像画の参考となった写真。女子英学塾開学当時の1901年、36歳のときに撮影されたもの。
「日本女性の地位向上のために!」教育にすべてを捧げた人生とは。 BY キンマサタカ

幕末の江戸で生まれた津田梅子は、6歳のときに農学者の父の勧めで岩倉使節団に同行して、アメリカに留学。そこで、ホストファミリーのランマン夫妻の愛情を受けながら英語を身に着け、中等教育まで終えて17歳で帰国します。 

しかし梅子が日本で目の当たりにしたのは、「良妻賢母であることが最も大切で、高い教育を受ける必要はない」とされる、日本女性の地位の低さでした。

そこから梅子は生涯をかけて、日本女性の地位と教育レベルの向上に尽力します。そんな梅子の信念や生き方とはどのようなものだったのでしょう。「津田梅子資料室」担当室長の中田友紀さんにお話しいただきました。 

マリア・カラスとジャクリーン・ケネディ・オナシス 交差する運命

2024-07-04
真実の愛を求め続けた世紀のオペラ歌手と、悲劇を乗り越えたファーストレディの物語。 BY 婦人画報編集部
生まれも育ちも対照的なふたりには、最高の名声を得ながらも、「真実の愛」を生涯求め続けたという共通点がありました。

ひとりは、比類なき「声の演技者」として聴衆を陶酔させたプリマ・ドンナ。そしてもうひとりは、アメリカの「輝ける希望」として美貌と才覚で世界を熱狂させたファーストレディ。

一見、生まれも育ちも対照的なふたりには、最高の名声を得ながらも、「真実の愛」を生涯求め続けたという共通点がありました。 一人の男性を巡る確執があったことをご存じの方も多いかもしれません。

天性の才能と美しさを謳歌し、独自の世界を創出したふたりの人生を播きます。

この記事は、雑誌『婦人画報』2006年6月号に掲載した記事「マリア・カラスとジャクリーン・ケネディ・オナシス」をウェブにて復刻したものです。

[初出『婦人画報』2006年6月号 ] 

世紀の歌姫マリア・カラスの人生 親からの愛を受けずに育った貧しい少女時代

貧しいその少女が唯一神から授かったものは、美しい声。「太っていて野暮ったくて、ニキビだらけ。だが歌い出すと声は力強く、個性的で圧倒されました」最初の師である歌手エルビラ・デ・イダルゴは、マリア・カラスに初めて会った印象をこう語っています。

少女時代、部屋で歌っていると、家の外に人が集まり、熱心に聴き入ることもしばしば。その場面を見て、母エヴァンゲリアは娘を音楽の道に進ませる決意をします。しかし、母の愛は容姿に優れた姉に集中的に注がれ、彼女には野心的なステージママとしてのみ厳しく接するのでした。「母に愛されていると感じるのは、歌っているときだけ」でした。

ギリシアからニューヨークに渡った両親の間にはいさかいが絶えず、ついには別居。母は娘2人を連れてギリシアの実家へ戻ることになります。

13歳のマリアは16歳と偽って旧国立音楽学校に入学。後に名門のアテネ音楽院に移ってイダルゴの弟子となり、オペラを基礎からじっくり学びます。第二次大戦後、再びニューヨークへ。当初は不遇の日々を過ごしますが、偶然手にしたイタリア・ヴェローナ野外劇場への出演契約で、人生は転機を迎えます。大指揮者セラフィンに認められると同時に、夫となる実業家メネギーニと出会うのです。ときにマリア23歳、メネギーニ53歳でした。 

悲劇のファーストレディ ジャクリーン・ケネディ・オナシスの人生

「お前は女王様になるんだ、私のプリンセスよ」父ジョンは溺愛する娘にいつもそう語りかけました。ジャクリーン・ブーヴィエは、そんな父が大好きでした。「誰にも似ない存在になれ」と自分の人生を歩む大切さを説く父と、ウマが合ったのです。

しかし、遊び人で浮気症の父と、古典的な規範を重んじる母の間には次第に溝が広がり、彼女が10歳のときに離婚。両親から受け継いだ自由と規律という相反する価値観を胸に秘め、彼女は多感な思春期を過ごします。

15歳で寄宿学校に入りましたが、男性よりもラテン語や文学に興味を抱き、「一生恋も結婚もしない」と友人に打ち開けるような内省的な女性でした。高校の卒業アルバムには将来の目標を「社会で成功し、主婦にならないこと」と書き残しています。家に閉じこもる上流階級夫人ではなく、父が説いた自立の道を歩むと決めたのです。

名門女子大ヴァッサーへ進み、在学中にパリのソルボンヌ大学へ留学。帰国後、新聞社でフォトジャーナリストとなります。当時のアメリカでは、良家の子女は会社勤めなどせず、さっさと結婚して社交に励むのが当たり前でしたから、彼女の選択は型破りでした。そして程なく、彼女を本当に“女王様”にする男性が目の前に現れます。 

金子みすゞ生誕120年|色褪せぬ言葉とその精神

2024-07-04
写真提供=金子みすゞ著作保存会 代表作「私と小鳥と鈴と」の直筆は、『さみしい王女』に遺されている。
「金子みすゞ記念館」館長インタビューや婦人画報のアーカイブから、彼女の人生を辿りました。 By 八木あきほ公開日:2023/02/18

優しさと慈愛に満ちた言葉で、いまも私たちを勇気づける詩人、金子みすゞ。
2023年は、生誕120年、詩壇デビュー100年という節目の年でもあります。
その稀有な運命と、不変の魅力をもつ作品を繙きます。

田中絹代

2024-06-30
facebook 昭和を忘れないで下さい!さん曰く
日本映画の象徴的存在
日本映画界の大女優、田中絹代は1909年11月29日に山口県下関市で生まれました。彼女は14歳で松竹に入社し、映画『元禄女』でデビューしました。1924年、田中は大阪の松竹下加茂撮影所に所属し、若手映画監督清水宏の作品で主役を務めました (Wikipedia) (Wikipedia)。
1930年代には、田中は清純派スターとして人気を博し、日本初のトーキー映画『マダムと女房』で主演を果たしました。1938年の映画『愛染かつら』は大ヒットし、田中は日本映画界のトップスターとなりました (Japanese Wiki Corpus)。
戦後、田中は演技派として成長し、『西鶴一代女』や『雨月物語』といった名作で主演し、国内外で高い評価を得ました。特に『西鶴一代女』はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、田中の復活を印象づけました (Women Film Pioneers Project) (Japanese Wiki Corpus)。
1953年、田中は『恋文』で監督デビューを果たし、日本で2番目の女性映画監督となりました。彼女の監督作品は、当時の日本映画界における女性の描写を挑戦的に描き、特に『乳房よ永遠なれ』では乳がんに立ち向かう女性詩人の姿を力強く描きました (Women Film Pioneers Project)。
1974年、田中は映画『サンダカン八番娼館 望郷』でベルリン国際映画祭の銀熊賞を受賞し、国際的な評価を再び高めました。彼女の演技は、深い人間性と感情を表現するもので、多くの観客に感動を与えました (Wikipedia)。
1977年、田中は脳腫瘍により逝去しましたが、彼女の遺した映画とその影響は今なお語り継がれています。田中絹代賞は1985年から毎日映画コンクールで授与され、彼女の業績を称えています (Wikipedia)。
田中絹代の人生とキャリアは、日本映画の黄金時代を象徴するものであり、彼女の作品と遺産は永遠に日本映画界の宝として残り続けるでしょう。

ドキュメンタリー映画『プリンセス・ダイアナ』本編映像【2022年9月30日公開】

2024-06-29
ダイアナが英国王室にもたらした功績  
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