時代と女性
時代・社会の中で女性はいかに生きたか・・・。
新五千円札の顔、津田梅子ってどんな人?
幕末の江戸で生まれた津田梅子は、6歳のときに農学者の父の勧めで岩倉使節団に同行して、アメリカに留学。そこで、ホストファミリーのランマン夫妻の愛情を受けながら英語を身に着け、中等教育まで終えて17歳で帰国します。 しかし梅子が日本で目の当たりにしたのは、「良妻賢母であることが最も大切で、高い教育を受ける必要はない」とされる、日本女性の地位の低さでした。 そこから梅子は生涯をかけて、日本女性の地位と教育レベルの向上に尽力します。そんな梅子の信念や生き方とはどのようなものだったのでしょう。「津田梅子資料室」担当室長の中田友紀さんにお話しいただきました。 |
マリア・カラスとジャクリーン・ケネディ・オナシス 交差する運命
ひとりは、比類なき「声の演技者」として聴衆を陶酔させたプリマ・ドンナ。そしてもうひとりは、アメリカの「輝ける希望」として美貌と才覚で世界を熱狂させたファーストレディ。 一見、生まれも育ちも対照的なふたりには、最高の名声を得ながらも、「真実の愛」を生涯求め続けたという共通点がありました。 一人の男性を巡る確執があったことをご存じの方も多いかもしれません。 天性の才能と美しさを謳歌し、独自の世界を創出したふたりの人生を播きます。 この記事は、雑誌『婦人画報』2006年6月号に掲載した記事「マリア・カラスとジャクリーン・ケネディ・オナシス」をウェブにて復刻したものです。 [初出『婦人画報』2006年6月号 ] |
貧しいその少女が唯一神から授かったものは、美しい声。「太っていて野暮ったくて、ニキビだらけ。だが歌い出すと声は力強く、個性的で圧倒されました」最初の師である歌手エルビラ・デ・イダルゴは、マリア・カラスに初めて会った印象をこう語っています。 少女時代、部屋で歌っていると、家の外に人が集まり、熱心に聴き入ることもしばしば。その場面を見て、母エヴァンゲリアは娘を音楽の道に進ませる決意をします。しかし、母の愛は容姿に優れた姉に集中的に注がれ、彼女には野心的なステージママとしてのみ厳しく接するのでした。「母に愛されていると感じるのは、歌っているときだけ」でした。 ギリシアからニューヨークに渡った両親の間にはいさかいが絶えず、ついには別居。母は娘2人を連れてギリシアの実家へ戻ることになります。 13歳のマリアは16歳と偽って旧国立音楽学校に入学。後に名門のアテネ音楽院に移ってイダルゴの弟子となり、オペラを基礎からじっくり学びます。第二次大戦後、再びニューヨークへ。当初は不遇の日々を過ごしますが、偶然手にしたイタリア・ヴェローナ野外劇場への出演契約で、人生は転機を迎えます。大指揮者セラフィンに認められると同時に、夫となる実業家メネギーニと出会うのです。ときにマリア23歳、メネギーニ53歳でした。 |
「お前は女王様になるんだ、私のプリンセスよ」父ジョンは溺愛する娘にいつもそう語りかけました。ジャクリーン・ブーヴィエは、そんな父が大好きでした。「誰にも似ない存在になれ」と自分の人生を歩む大切さを説く父と、ウマが合ったのです。 しかし、遊び人で浮気症の父と、古典的な規範を重んじる母の間には次第に溝が広がり、彼女が10歳のときに離婚。両親から受け継いだ自由と規律という相反する価値観を胸に秘め、彼女は多感な思春期を過ごします。 15歳で寄宿学校に入りましたが、男性よりもラテン語や文学に興味を抱き、「一生恋も結婚もしない」と友人に打ち開けるような内省的な女性でした。高校の卒業アルバムには将来の目標を「社会で成功し、主婦にならないこと」と書き残しています。家に閉じこもる上流階級夫人ではなく、父が説いた自立の道を歩むと決めたのです。 名門女子大ヴァッサーへ進み、在学中にパリのソルボンヌ大学へ留学。帰国後、新聞社でフォトジャーナリストとなります。当時のアメリカでは、良家の子女は会社勤めなどせず、さっさと結婚して社交に励むのが当たり前でしたから、彼女の選択は型破りでした。そして程なく、彼女を本当に“女王様”にする男性が目の前に現れます。 |