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時代と女性

時代・社会の中で女性はいかに生きたか・・・。

人見絹枝という生き方

2020-10-17
アムステルダム大会の思い出
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎アムステルダム 第9回オリンピック大会
*1928.7.28/ アムステルダムで第9回オリンピック大会が開催される。
 第9回夏季オリンピックは、1928年7月28日から8月12日まで、オランダのアムステルダムで開催された。日本は第5回スウェーデンのストックホルム大会で初参加、第7回ベルギーのアントワープ大会、第8回パリ大会と(第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のため中止)、参加経費などの工面に苦労しながらも参加を続けてきたが、その成果はこのアムステルダム大会で発揮された。
 陸上競技三段跳びで織田幹雄、競泳200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得。また、この大会から初めて女子の陸上競技への参加が認められ、日本から女子選手として唯一人参加した人見絹枝は、800m走で女子初めて銀メダルを獲得した。最終的に日本選手団は、金2、銀2、銅1、入賞者合計では11名と大活躍をみせた。
 この大会から初めて女性の参加が認められたほか、聖火が大会を通じて継続して燃やされた最初の大会でもあった。またコカ・コーラ社が初の大会スポンサーとなって、コカ・コーラが参加関係者に支給されるなどした。しかし、この時期の大会ではアマチュアリズムが徹底され、トップ選手のプロ化が進みつつあったテニスは実施競技から除外された。またこの大会で通算9個目の金メダルを獲得したフィンランドの中長距離陸上選手パーヴォ・ヌルミは、後の賞金大会に出たという理由から、以降の五輪参加を認められず最後の金となった。
 女子でたった一人日本から参加した人見絹枝は、100m走、200m走、走幅跳びで世界記録を出すなど、日本女子アスリートの先駆者であった。アムステルダム五輪では得意の走り幅跳びや200m走は実施されず、事実上100m走に絞って出場したが準決勝4位で敗退してしまう。そこで人見は、それまで走ったことのない800m走への出場を急遽決め、決勝ではドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
 アムステルダム五輪後も、人見は競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面などに忙殺された。1930年には、国際女子オリンピック大会への遠征費捻出のために、幾つもの国内の競技に出場しながら募金活動に駆けずり回り、さらに一ヵ月以上かけての船便で欧州に向うと、女子選手団を率いて、プラハでの国際女子競技大会をメインに欧州を転戦。半月の内に5つの大会が集中するなどして、肉体的精神的に疲労困憊、人見は体調を崩しながらも競技に出場し奮闘した。
 帰りの海路ですでに体調は悪化していたが、年末に帰国した後も遠征報告や募金へのお礼などで走り回り、その過労がたたり翌3月に喀血、結核性肋膜炎で阪大病院に入院、8月2日結核からくる肺炎を併発して死去、享年24。奇しくも、アムステルダム800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であったという。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。

横浜元町KITAMURAハンドバッグ

2024-12-22
2025年春です。
横浜発・正統派お嬢様スタイル

15歳田村亮子さんが初優勝

2024-12-10
facebook 西日本新聞me さん曰く、福岡国際女子柔道に最年少の15歳で出場した田村(現姓・谷)亮子さんが初優勝を果たした。
【なつかし写真館】1990(平成2)年12月9日

「政界はジャングルですが、家庭は温かい草原なんです…」幸せな日常を一瞬にして奪った猛火

2024-12-05
自宅マンションの火災で家族を失った猪口邦子議員(時事通信フォト)
猪口邦子議員、自宅マンション火災で夫と長女が死亡

 キャリアを重ねた後に手にした家族の存在は、厳しい政治の世界で奮闘する彼女の原動力だった。幸せな日常を一瞬にして奪った炎の猛威。火事の一報を耳にしたとき、猪口邦子参議院議員(72才)は何を思ったのだろうか──。

歴史上最も輝かしいウエディングドレス

2024-12-06
Stars Insider によるストーリーより
どの時代にも、その時代を象徴するウェディングドレスがある。
1960年代のミニドレスに身を包んだオードリー・ヘプバーンから、シルクタフタの雲に包まれたダイアナ妃まで、このギャラリーのファッションアイコンたちは、その素晴らしいウェディングドレスで歴史に名を刻んでいる。

王族、ファーストレディ、女優、音楽界のレジェンドたちが身にまとった、忘れられないウェディングドレスの数々をご覧ください。グラマラスな花嫁たちにインスパイアされること間違いなし!

グレース・ケリー ©Getty Images 1956年、彼女は衣装デザイナー、ヘレン・ローズが手がけたドレスを着て、モナコ公国のレーニエ3世と結婚した。
ケイト・ミドルトン ©Reuters ウィリアム王子は2011年、長年の恋人ケイト・ミドルトンと結婚した。ミドルトンはサラ・バートンがアレキサンダー・マックイーンのためにデザインした有名なドレスを着用し、頭には王室御用達のカルティエのヘイロー・ティアラを飾った。このエレガントなデザインは、50年以上前のグレース王女のドレスにインスパイアされたようだ。
モナコ公妃シャルレーヌ ©Reuters シャルレーン・ウィットストックは2011年、モナコ公国のアルベール王子との結婚式でアマニ・プリヴェのシルクドレスを着用した。ティアラをつけていないにもかかわらず、花嫁の衣装には20,000個のマザーオブパールのティアドロップと40,000個のスワロフスキー・クリスタルがあしらわれていた、と『Vogue』が報じている。
プリシラ・プレスリー ©Getty Images プリシラ・ボーリューは1967年、エルヴィスが32歳のとき、21歳で結婚式を挙げた。花嫁はレースの袖とパールで飾られた素敵なドレスを着た。
ウォリス・シンプソン ©Getty Images 2度の離婚を経験したウォリス・シンプソンは、1937年にウィンザー公爵と結婚した。彼は彼女との結婚のために英国王位を放棄し、彼女はそのために淡いブルーのマインボッシャーのドレスを着た。
カミラ・パーカー・ボウルズ ©Getty Images チャールズ皇太子とカミラは、最初の出会いから30年以上経った2005年に結ばれた。王妃は特別に仕立てられたロビンソン・バレンタインのドレスを着用した。
ジャクリーン・ケネディ ©Getty Images 第35代アメリカ合衆国大統領は、1953年にこの花嫁と結婚式を挙げた。ファッションセンスで有名なジャッキーは、この日のために魅惑的なアン・ロウのガウンを着用した。
オードリーヘップバーン ©NL Beeld 『ティファニーで朝食を』の主演女優はメル・フェレールと、1954年にバルマンのドレスで結婚式を挙げた。
ダイアナ・スペンサー ©NL Beeld ダイアナは1981年、デイヴィッド&エリザベス・エマニュエル夫妻がデザインした思い出深いシルクタフタのドレスに身を包み、当時のチャールズ皇太子と結婚式を挙げた。
レティシア・オルティス ©Getty Images 2004年、レティシアはスペインのフェリペ皇太子との結婚式で、マヌエル・ペルテガスがデザインしたハイカラーのドレスを着用した。
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