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人間と戦争

闘諍堅固、人間は闘い続けます・・・

facebook 闘諍堅固のカバー写真

2024-08-01
ベトナム戦争と人
バロン西 in ロサンゼルス五輪 by facebook 田幡 雅人さん
バロン西中佐と愛馬ウラヌスとの金メダル
facebook 闘諍堅固

【戦争と人間】闘いの歴史の中で、人はどう生きたか?

228事件

2025-03-07
抗議する市民たち
専売局台北分局前に集まった群衆(1947年2月28日)
台北市民に焼き討ちされた専売局台北分局
当時の弾圧を描いた木版画
台湾省警備総司令部のビラ(中国語とともに日本語も併記している)
時 1947年2月28日 - 5月16日  場所 中華民国の旗 中華民国 台湾省  結果 中国国民党政権による市民の虐殺
二・二八事件(ににはちじけん, 台湾語白話字: Jī-jī-pat Sū-kiāⁿ)とは、1947年(民国36年)2月28日に台湾省台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、中華民国政府による長期的な白色テロ、すなわち民衆への弾圧・虐殺の引き金となった事件


1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。台湾人は多くの地域で一時実権を掌握したが、中華民国国民政府中国本土から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。 
中国国民政府軍と官員を出迎える台湾の学生たち(1945年)
旧台湾放送協会台北支局(1931年)
二・二八紀念館(二二八和平公園内。建物は旧台湾放送協会 (THK) 台北支局)。
二二八紀念碑(嘉義市)
日本統治時代の台湾の経済は、日本内地の地方都市を超えて東京市と同じ水準だった。日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい汚職、軍人・兵士などの狼藉、さらに経済の混乱は到底受け入れがたいものであり、人々の不満は高まっていった。当時の台湾人はこれらの状況を「犬(日本人)去りて、豚(中華民国人)来たる」(狗去豬來)と呼んで揶揄した。
その後

中華民国政府は事件後、戒厳令を38年の間施行した。戒厳令下の台湾では政治活動や言論の自由は厳しく制限され、白色テロと呼ばれる人権抑圧が行われた。

事件は本省人外省人の間に亀裂をもたらし、事件について語ることは長年タブーとなっていた。

しかし時が経つにつれ、これを話題にすることができる状況も生まれてくる。当初、政府は台湾人に高等教育を与えると反乱の元になる、と考えていたが、経済建設を進めるに当たって専門家の必要性が明白となり、方針を転換して大学の建設を認めた。

戒厳令解除後の1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画で、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した。

李登輝体制下で事件の再調査が行われ、1992年に長大な調査報告書が作成された。

同年の1992年、史上初の『二・二八メモリアルコンサート』が、台湾の西洋オペラの父、自由と民主の戦士の音楽家としても知られる曾道雄(指揮)らによって実現された。曲目はモーツァルト作曲『レクイエム』とブラームス作曲『運命の歌』。当時『二・二八事件』はタブー視されていた用語でありコンサートを開催すること自体、前代未聞であった。これら音楽家の決意を評価した李登輝総統は、このコンサートに参加し謝罪スピーチまで行った。国民党内での自身の政治的基盤が未だ完全に確立していない事を承知の上、政治的リスクを負ってまで参加した李総統の勇気に文芸界と犠牲者家族から高い評価と敬意が向けられた。

1995年2月には台北新公園(現・二二八和平公園)に「二・二八事件記念碑」が建てられ、李自らが除幕式で公式な謝罪の意を表明した。同公園内の台北二二八紀念館や台北市内の二二八国家記念館で、事件の資料が展示されている。

2006年には、二・二八事件の最大の責任者は蔣介石だとする研究結果が発表された。

バロン西とウラヌス号

2022-11-23
『讀賣新聞』朝刊、2022/11/21

戦争が聴こえる 盲学校の生徒たちが経験した戦争 記事公開日:2022年08月15日

2022-08-28
明らかになる“聴音兵”という任務

見つかったテープの中では、『聴音兵』という言葉が繰り返し語られていました。聴音兵とは、敵機の来襲をいち早く味方に伝える兵士のことです。

視覚に障害のある人と戦争について研究している、京都府立盲学校に勤める岸博実さんが、点字新聞に掲載されていた聴音兵の記事を示します

NHKスペシャル 従軍作家たちの戦争(2013年)

2022-08-11

Facebook NHKアーカイブス さん曰く


【 アカイさんコラム 】
NHKスペシャル 従軍作家たちの戦争(2013年)
~戦争を振り返る~
戦争が終わって77年目の夏。さまざまな視点であの戦争を取り上げた番組の幾つかを2週にわたってご紹介します。
作家・火野葦平(1907~60)は日中戦争中、1938年4~6月の徐州作戦に従軍、その見聞を『麦と兵隊』に著しました。当時、中国の蒋介石政権は日本軍の南京での残虐行為を国際社会に訴えていましたが、馬淵逸雄中佐(1896~1973)ら陸軍報道部はこれに対抗するため、1938年3月に芥川賞を戦地で受賞して注目されていた火野を報道班に抜擢、徐州作戦を「聖戦」としてPRさせたのです。軍の狙いは的中、『麦と兵隊』を含む火野の「兵隊三部作」はベストセラーとなり、映画化もされて戦意高揚に貢献しました。同年9月には菊池寛、佐藤春夫、丹羽文雄、林芙美子ら流行作家がペン部隊として漢口攻略戦に派遣されます。番組は、作家を戦争宣伝に動員した日本軍の戦略と、戦場の真実をありのままには書けず、戦後は戦争協力者として責められた火野葦平の苦悩を、火野の遺した20冊もの従軍手帳や手紙、関係者の証言から描きます。火野によれば、軍は以下の 7 項目を命じたそうです。
「第一、日本軍が負けているところを書いてはならない。皇軍は忠勇義烈、勇敢無比であって、けっして負けたり退却したりはしないのである。
第二、戦争の暗黒面を書いてはならない。
第三、戦っている敵は憎憎しくいやらしく書かねばならなかった。味方はすべて立派で、敵はすべて鬼畜でなければならない。
第四、作戦の全貌を書くことを許さない。兵隊のせまい身辺の動きは書けても、作戦全体は機密に属しているから、スケールというものは出て来ない。
第五、部隊の編成と部隊名を書かせない。
第六、軍人の人間としての表現を許さない。分隊長以下の兵隊はいくらか性格描写ができるが、小隊長以上は、全部、人格高潔、沈着勇敢に書かねばならない。
第七、女のことを書かせない。」
戦後火野は、『麦と兵隊』『土と兵隊』に、かつては書けなかった戦地での体験を加筆し、自分なりの「決定稿」としました。

「麦と兵隊」で知られる作家・火野葦平の従軍手帳が解読され、日中戦争から太平洋戦争にかけての陸軍のメディア戦略が明らかになった。中国のプロパガンダに対抗し、火野を報道班に引き抜いた陸軍は、さらにペン部隊を組織。南方にも徴用作家を送り、占領地の宣撫(せんぶ)工作にあたらせた。火野はフィリピンで捕虜の再教育に尽力するが、インパール作戦で軍の方針に疑問を抱く。火野の従軍手帳を軸に、作家の戦争協力を描く。

2023-05-04
銃撃事件当日を振り返った岩田明子さん【写真:荒川祐史】 © ENCOUNT
ENCOUNT の意見

単独インタビュー 安倍元首相の銃撃事件当日、翌日の対面を振り返る

政治ジャーナリストで元NHK解説委員の岩田明子さん。故・安倍晋三元首相に“最も食い込んだ記者”として知られている。2002年、当時官房副長官だった安倍元首相の番記者を担当して以来、20年以上に渡って取材をしてきた。だが、22年7月8日に安倍元首相は演説中に銃撃され、亡くなる。あの時、岩田さんは何を思って、どのような対面を果たしたのか、振り返ってもらった。(取材・構成=中村智弘)

安倍さんが銃撃されたという一報は、NHKの関係者から聞きました。ちょうど、永田町に向かって歩いているときです。「安倍さんが撃たれたみたいだが、ちょっと深刻かもしれない」と伝えられました。「まさか、そんなこと」と思いました。

強運の持ち主で、晴れ男。雨の予報であっても現地に赴けば晴れてしまう。絶対に、弾は当たっていないはずだと根拠もなく確信をしていました。すぐに安倍さんの携帯に電話をしましたが、つながりません。ひとまず、渋谷のNHK放送センターに戻ることにしました。

きっと取り込んでいるのだろう。手が空けば、すぐにコールバックがきて「大変だったけど、大丈夫だから!」と電話がくると信じていました。でも、握りしめた携帯には、一向に連絡がこない。報道を見ていると、どんどん深刻な状況になっていて、私は頭が真っ白になりました。動悸(どうき)が激しくなるのが自分でも分かりました。

同行していた秘書に電話したり、他社の記者からも問い合わせや連絡があったりして、情報は錯綜(さくそう)していました。ただ、時間がたつにつれて、周辺の人たちが「とにかく祈ろう」と口にし始めました。私もひたすら祈ることにしました。

亡くなったことを知ったのは、NHKの廊下でした。涙が止まらなかったです。必ず助かると信じていましたから、どうしてこんなことになるのか? と頭が混乱しました。「日本のために」が口癖で、持病を抱えながらもストイックに頑張ってきた一国の指導者が、なぜ選挙期間中にテロで命を落とさなければならないのか。こんな悲劇が起こるはずがないと、現実を受け入れられずにいました。

その日はBS国際報道とラジオジャーナルで、銃撃事件や安倍さんの歩みを解説しました。ラジオジャーナルでは、ジャーナリストの江川昭子さんと対談し、放送後の雑談の中で、江川さんから「眠れないかもしれないけど、食べることと眠ることが大事よ」と声をかけてもらいました。鉛のような体を引きずるようにしてセンターを後にしましたが、とにかくご遺体に対面しなければと思いました。


安倍さんのご遺体が富ヶ谷のご自宅に到着したのは、事件の翌日です。ご自宅には弔問を希望する人が殺到していましたが、夕方に私も対面することができました。心のどこかでは事実を認めたくない自分がいて、死に顔を見てしまったら、立っていられるかどうか自信がありませんでした。

ご自宅では、石原伸晃さんや公明党の太田昭宏さんらとすれ違いましたが、みな号泣していました。室内からは悲痛な声も聞こえてきて、玄関に足を踏み入れた途端、涙が出てきました。

妻・昭恵さんや親族の方と手を握り合うも言葉が出ず、手が震え線香をあげられず

出迎えた妻の昭恵さんや親族の方たちと手を握り合いましたが、私はお悔やみの言葉すら出てきませんでした。部屋に入ると、お母さま(安倍洋子さん)が座っていらっしゃった。憔悴(しょうすい)した表情のお母さまが「ああ、岩田さん」と顔を上げると、「晋三はかわいい子だったわ」とおっしゃいました。

このとき、お母さまの気持ちは、“子どもの頃の半ズボン姿の晋三”と一緒にいるのだ、と感じました。母親が息子に先立たれた悲しみを思うと、本当に辛かったです。私は頭に包帯を巻いて横たわっている安倍さんに、「総理、起きてください」と言おうとしましたが、ほとんど言葉になりませんでした。ただただ涙が出て、数珠を持つ手も震え、線香をあげることもままなりませんでした。

安倍さんはやすらかに眠っていました。その口は、「岩田さん、」と今にも言い出しそうに見えました。そのとき、絶望とはこういう気持ちを表現するのだと実感しました。

しばらくは血圧が上がり、一睡もできない日々が続きました。夢であってほしいと願うのですが、すぐに現実に引き戻されることの繰り返しでした。事件が起きたのは夏でしたが、国葬が終わると、あっという間に秋は深まり、少しずつ日常が戻り、大みそかと元旦が例年と同じようにめぐってきました。

あれだけ大きな存在の人がいなくなっても、時は粛々と流れ、何事もなかったかのように自然はめぐるのだ、と思うととてつもない寂寥(せきりょう)感が込み上げてきました。年が明けてからも、安倍さんがよく訪れたレストランや事務所などに、顔を出したこともありました。もしかして、と思ってのぞき込むのですが、当然、安倍さんの姿は、そこにはありません。

夜の10時から12時は、安倍さんとの“電話タイム”でした。それは20年間、ずっと続けてきました。この時間帯は、安倍さん自身も「情報収集の時間」に決めていて、いろいろな方面に電話をしていたようです。

私はガラケーとスマホ両方持っているのですが、安倍さんはガラケーの方に電話をかけてきました。そもそも記者として、いつでもどんな取材先からも電話を取り損ねたくなかったので、新しい服を購入したときには、必ずガラケーが収まるポケットを作っていました。でも、もうこの時間帯に携帯が鳴ることはありません。

安倍さんとのやり取りで心に残っているのは、第2次安倍内閣が退陣した後のこと。私とのやりとりの中で、台湾海峡をめぐる問題や、国際情勢を考えると、将来的に、第3次安倍内閣の待望論が出てくるのではないかという話になりました。そのとき、安倍さんは「天が望めば」と口にしました。私欲ではなく、最後まで政治家として、人生を全うしようとしているのだと感じました。頭の中では、いつも日本のため、世界のためを考えている、根っからの政治家だったと思います。

□岩田明子(いわた・あきこ)千葉県船橋市出身。1996年、NHKに入局。岡山放送局へ配属。2000年、東京放送センター報道局政治部へ異動、官邸記者クラブ所属。02年、当時官房副長官だった安倍晋三元首相の番記者を担当し、以来、20年以上に渡って安倍元首相を取材。08年、外務省記者クラブに所属、北朝鮮問題を担当。09年、政権交代を経て鳩山由紀夫内閣の菅直人副首相の担当を務める。13年、NHK解説委員室へ異動、政治担当の解説委員と政治部の記者職を兼務。22年7月、NHKを退局、ジャーナリストとして報道番組に出演する一方で、月刊誌や専門誌などで執筆活動も続けている。趣味は昭和歌謡。現在は母親と二人暮らしで、介護に奮闘中。千葉大学客員教授・中京大学客員教授。中村智弘

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