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親鸞聖人の生涯

親鸞聖人(しんらんしょうにん)の生涯

興福寺奏状

2023-04-06

 法然聖人流罪事
   貞慶解脱上人御草
   同形状詞少少

 九箇条の失の事
第一 新宗を立つる失。
第二 新像を図する失。
第三 釈尊を軽んずる失。
第四 万善を妨ぐる失。
第五 霊神に背く失。
第六 浄土に暗き失(浄土を暗くする失)。
第七 念仏を誤る失。
第八 釈衆を損ずる失。
第九 国土を乱る失。

興福寺僧綱大師等、誠惶恐謹言。
 殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糾改せられんことを請ふの状。

右、謹んで案内を考うるに一つの沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞、古師に似たりと雖も、その心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九箇条あり。

『興福寺奏状』は、元久2年(1205)奈良興福寺の衆徒が法然聖人の提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書で、起草者は、法相宗中興の祖といわれる解脱坊貞慶上人とされる。法然聖人弾劾の上奏文というべき文書であり、これを因として、承元の法難と称される法然師弟に対する死罪を含む専修念仏への弾圧がなされた。御開山は『教行証文類』の後序で、

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
とされておられる。法然聖人の提唱した選択本願念仏という教説は、仏教における宗教改革といえるような先鋭的な仏教思想であり、当時の──ある意味では現代においても誤解されやすい──仏教界には異端邪説としか受け取れなかったのであった。なお、余談ではあるが、この『興福寺奏状』の起草者と目されている解脱坊貞慶上人は、死の半月前に口述された「観心為清浄円明事」(*)で、「予は深く西方を信ずる」としているから、いつしか貞慶も浄土教に帰順していたのであった。また、念仏弾圧を命じた後鳥羽上皇も承久の乱によって隠岐の島へ配流され、無常にかられ阿弥陀如来がまします浄土へ往生したいという意で、『無常講式』(*)を作り「願くは離垢の眼を得て、安楽国に往生せん。南無阿彌陀佛」と阿弥陀仏の浄土(安楽国)への往生を願われたのであった。

親鸞聖人を訪ねて-浄土真宗 創生の軌跡-(御旧跡巡拝ガイド)

2023-02-24
親鸞聖人を訪ねて(御旧跡巡拝ガイド)

八五〇年の時を超えて各地に息づく
親鸞聖人のご足跡をたどる

京都に生まれ、越後へ流罪となり、常陸で布教し、再び京都へと、旅の多いご生涯を送られた親鸞聖人。
法然上人との出遇いにより他力本願の教えに目覚め、
越後へ流されてからは非僧非俗を宣言して民衆に寄り添い、常陸の地では20年にもわたり教えを広めました。
その足跡には、親鸞聖人のみ教えが、今もなお息づいています。


ご誕生の頃

2023-02-24
ご誕生~法然上人との出遇い

1.ご誕生

親鸞聖人は、平安時代の末期、承安3(1173)年に京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範の長男としてご誕生されました。

親鸞聖人が生まれたのは、国の体制が大きく揺れ動いた激変の時代でした。公家中心の政治が行われた平安時代から、武士が実権を握る鎌倉時代へ。親鸞聖人のご誕生前に起こった「保元の乱(1156年)」「平治の乱(1160年)」によって、平清盛を棟梁とする平氏が政治の実権を握り、度重なる戦乱の末に敗北した源氏は遺恨を深め、世はさらなる戦乱の時代へと進みます。

さらには、台風や大地震、洪水などの自然災害や疫病がつぎつぎと起こりました。親鸞聖人5歳のときには京都に大火災が起こり、都の三分の一が消失、翌年には大飢饉が発生し、4万人を超える死者が出たといいます。

人々はいよいよ世の中が衰え救いのない「末法の世」が訪れたと、恐れおののきました。
親鸞聖人の幼少期は、このような混乱と荒廃に満ちた時代でした。

京都親鸞聖人ご誕生の地 法界寺

法界寺は親鸞聖人の誕生の地と伝えられている、日野の里にある真言宗醍醐派の寺院です。

この地には元々藤原氏の流れを汲む日野氏の伝領地があり、そこに日野家が別邸を建てたことから日野の里と呼ばれてきました。日野家の氏寺でもある法界寺は日野資業が創建したもので、その後伽藍が整備されました。

立教開宗の頃

2023-02-24
信州~常陸(1214年~1232年)|親鸞聖人のご生涯

9.関東での布教

陸国に到着された親鸞聖人は、下妻(小島の草庵)に3年ほど逗留された後、笠間郡の稲田の草庵に移り住まれ、この地を拠点におよそ20年にわたって布教を続けられることになります。

時代は源頼朝が鎌倉幕府を開いてから約30年が経過した頃、それまで政治や文化の中心であった京都から、関東が日本の中心となりつつありました。発展途上の関東の地では、まだ十分に浄土教信仰が広まっていませんでしたので、親鸞聖人は敢えてこの地での伝導を決意されたものと思われます。

「念仏を称えるだけで誰もが仏に救われる」という親鸞聖人の教えは次第に人々に受け入れられ、広まっていきましたが、それは一方で、周辺で修験道の行者として崇められてきた弁円べんねんという山伏の弟子や信者を奪うことになり、逆恨みをした弁円は親鸞聖人の命を狙います。呪術を行い、あるいは待ち伏せし、ついには親鸞聖人の草庵に乗り込んで聖人を殺そうとした弁円を、親鸞聖人は穏やかに迎えられ、ともに仏に救われる存在であるとして「同朋」と呼ばれたといいます。心を打たれた弁円は直ちに念仏者となり、親鸞聖人の門弟として教えを説き広めたと伝えられています。

このように、親鸞聖人の教えと生き方は、多くの人々に伝わっていきました。時には請われて下総(千葉県)や下野(栃木県)にまで足を延ばされ、こうした地道な伝道は次第に関東一円の人々に広まり、多くの人々が念仏に帰依しました。親鸞聖人の直弟のうち、とくに高弟といわれる人々は「二十四輩にじゅうよはい」として後世に伝わっています。

また、親鸞聖人は常陸での布教のかたわら、専修念仏の教えを体系的にまとめたお聖教しょうぎょう教行信証きょうぎょうしんしょう』の執筆を進められます。たくさんの経典などを参考にして、何度も筆を加えながら、元仁元(1224)年にほぼ完成されました。

常陸親鸞聖人の関東での布教の拠点

稲田の草庵跡西念寺


浄土真宗別格本山。別名「稲田御坊」と呼ばれ、親鸞聖人が常陸国稲田の領主であった稲田九郎頼重の招きに応じて、妻子ともどもこの地に草庵を結んだのが始まりとされています。 

妻の恵信尼公とともに20年間在住され、布教活動を熱心に行われ、浄土真宗の根本聖典である『教行信証』もここで著されたと言われています。

頼重は聖人の帰洛後この草庵の跡地に寺を開創し、それが現在の西念寺となっています。

付近には親鸞聖人の頂骨を納めたとされる「親鸞聖人ご頂骨堂」があり、聖人が稲田を離れるときに草庵を振り返られたという「見返り橋」、天然記念物の「お葉つき銀杏」などがあります。

大谷祖廟(東大谷) - 真宗大谷派のご廟

2023-02-24
親鸞聖人を訪ねて(御旧跡巡拝ガイ

12.往生

親鸞聖人の晩年、子の善鸞と覚信尼を京都に残し、妻の恵信尼さまとそのほかの子供たちは越後に帰されました。恵信尼さまは実家である三善家の財産を継がれたと考えられています。

京都の親鸞聖人の元には、しばしば関東から門弟たちが訪れました。親鸞聖人が86歳の時に訪ねてきた下野高田の顕智には、「自然法爾じねんほうに」という他力本願の境地について語られ、ご自身が生涯をかけて「阿弥陀仏の本願にまかせきる」という境地に到達されたことを示されています。

親鸞聖人は、90歳になられた弘長2(1263)年冬に弟の尋有じんうの住まいであった善法院で体調を崩し、徐々に衰弱されました。床につかれてからは、世俗の話は口にせず、ただ仏の御恩について話し、ひたすら念仏を称え続けたといいます。そして、お釈迦様が入滅された姿と同じように、頭を北にお顔を西に向け右脇を下にして臥した姿で、ついにはお念仏の声は絶え、往生されました。

90年に及ぶ波乱の生涯を閉じられた親鸞聖人のご遺骸は、翌日、東山の延仁寺で荼毘に付され、さらに翌30日に拾骨が行われて、その北の大谷という地にお墓が営まれました。

京都親鸞聖人が荼毘に付された地
延仁寺

京都親鸞聖人が荼毘に付された地

延仁寺


親鸞聖人はお亡くなりになった翌日に鳥辺野の南、延仁寺のあたりで荼毘に付されたと言われ、『御伝鈔』には「洛陽東山の西の麓、鳥辺野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」とあります。

東本願寺第21代厳如上人により1883(明治16)年に荼毘所が設けられており、「見真大師御荼毘所」の碑が立てられています。

京都親鸞聖人の墓所「大谷廟堂」の跡地 崇泰院(元大谷)
崇泰院(元大谷)

京都親鸞聖人の墓所「大谷廟堂」の跡地

崇泰院元大谷


親鸞聖人の末娘である覚信尼が、夫・小野宮禅念より譲り受けた土地を廟堂のための土地として提供し、関東の門弟の協力により遺骨を移して仏閣を建て、聖人の影像を安置した場所が大谷廟堂跡と伝えられる崇泰院です。

それまでは鳥部野の北の大谷の地に建てられていた、透垣を廻らせた笠塔婆風の石塔が聖人の墓であったと伝えられています。覚信尼の時代から約190年の間、浄土真宗の中心として護持されてきましたが、1465(寛政6)年の寛正の法難で破却されてしまいました。この廟堂を守るために「留守職」という管理者を置いたことが本願寺の基礎となっています。

崇泰院は知恩院の山内にあり、現在は本堂裏の玉垣の中に聖人の墓塔が立っています。

また、蓮如上人の誕生の地としても知られています。

京都真宗大谷派のご廟所
大谷祖廟(東大谷)

通称、東大谷といわれる大谷祖廟は真宗大谷派の御廟所で、親鸞聖人入滅後10年の1272(文永9)年、それまでの聖人の墳墓を改め、廟堂を建てて聖人の御影像を安置したのが起源です。

その後、いくたびかの移転等の変遷を経て、本願寺の東西分派後の1670(寛文10)年、墳墓にほど近い現在地(京都市東山区円山町)に祖廟として造営されました。元禄年間に御廟の改装、守堂の建立がなされ、1745(延享2)年には八代将軍・徳川吉宗から一万坪の土地を寄進されるなど拡充を続け現在に至っています。

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