本文へ移動

in 京都

思い出のページ 【京都、今昔物語】

東京奠都と京都衰退危機

2022-05-14
1864年の禁門の変(蛤御門の変)では、落ち延びる長州勢が放った火などで、
「どんどん焼け」という大火災で、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


京都近代化を遡る【01.東京奠都と京都衰退危機】
 千年の都をほこった京都も、幕末から維新にかけての急激な体制変換に決定的なダメージをうけた。1864年の禁門の変(蛤御門の変)では、落ち延びる長州勢が放った火などで、「どんどん焼け」という大火災で、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。
 その前後にも、京都の街中では攘夷と称するテロルが相次ぎ、これを取り締まるという京都見廻組や新撰組による粛清暗殺事件が頻発した。そして大政奉還と討幕運動の流れのもとで、各地で戊辰戦争が勃発。京都郊外の鳥羽伏見でも、薩長中心の新政府と幕府軍の戦闘が繰り広げられた。
 慶応4年7月17日(1868年9月3日)、江戸が東京と改称され、元号が明治に改められると、京都との東西両京としたうえで、明治2年(1869年)3月28日、2度目の東京行幸として、明治天皇が東京に入り、これ以降、天皇は東京を拠点とし、政府機構も順次、京都から東京に移され、明治4(1871)年にはほぼ東京への首都機能の移転が終わった。
 京都の公卿・政府役人・京都市民などからは東京遷都への反対の声が大きく、東京を首都と定め事実上の首都機能の移転がすすめられたが、京都の廃都の令は出されていないため、遷都ではなく「東京奠都(てんと)」と呼ばれることが多い。
 かくして首都機能の東京移転がすすむと、京都は平安京成立以来の危機に見舞われる。現在の京都御苑と呼ばれる地域には、京都御所(禁裏)を取り巻くように公家の屋敷が建ち並んで一街区を形成していたが、明治になると天皇に従って多くの公家が東京へ移り、公家屋敷はもぬけの殻となり、京都御所周辺は急速に荒廃していった。
 明治10(1877)年、明治天皇が京都を訪れ、周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、京都御所を保存せよとと宮内省に命じた。同様にこの状況を憂慮した岩倉具視は、御所の保存を建議した。これを受けて、京都府は旧公家屋敷の空家の撤去と跡地の整備を始め、御所を囲む火除け地を確保する区画を画定した。これが現在の京都御苑の始まりであった。
 このような京都衰退の危機に、幾つもの京都振興策を打ち出したのが、第2代京都府知事 槇村正直であった。槇村は長州出身で毀誉褒貶が激しい人物であるが、彼が京都復興第1期の推進者であったことは間違いないであろう。
京都御所(禁裏)を取り巻くように公家の屋敷が建ち並んで一街区を形成していた
明治になると天皇に従って多くの公家が東京へ移り、公家屋敷はもぬけの殻となり、京都御所周辺は急速に荒廃していった。
明治10(1877)年、明治天皇が京都を訪れ、周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、京都御所を保存せよとと宮内省に命じた。
同様にこの状況を憂慮した岩倉具視は、御所の保存を建議した。

西本願寺

2022-05-15

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


京都世界遺産を深掘り【14.龍谷山 本願寺(西本願寺)】
 通称「西本願寺」は、京都市下京区七条上ルの堀川通りに面した地にあり、浄土真宗本願寺派の本山であり、山号は龍谷山、正式名称は「龍谷山 本願寺」である。真宗大谷派の本山「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。
 弘長2(1262)年、浄土真宗開祖「親鸞」が入滅する、享年90。文永7(1272)年、親鸞の末娘 覚信尼は、親鸞の廟堂として京都東山に「大谷廟堂」を建立する。そして、元亨元(1321)年、第3世 覚如が大谷廟堂を寺格化し「本願寺」と号すると、親鸞を開祖と定め、以後「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになった。
 覚如は、親鸞の門弟門徒を「本願寺」のもとに統合しようと企図するが、強大な経済力・軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院によって弾圧を受けて、低迷を余儀なくされた。また、東国などでは親鸞の門弟たちによる教団が展開され、浄土真宗は決して本願寺に一本化されたわけではなかった。
 長禄元(1457)年、第8世「蓮如」が本願寺を継承したころには、本願寺は衰亡の極みで青蓮院の一末寺としてかろうじて継承されていた。寛正6(1465)年、本願寺は延暦寺衆徒によって破却され、蓮如は京都から近江に難をさけ、そして越前(福井県)吉崎に移り布教する。
 中興の祖とされる蓮如の布教により、門徒(真宗教徒)は東国に拡がりをみせ、北陸では加賀国守護富樫氏の内紛に関わり、やがて百年にわたる「加賀国一向一揆」にまで展開する。蓮如は一揆の鎮静をはかるが収められず吉崎を退去する。明応6(1497)年、蓮如は大坂石山に「大坂御坊」(大坂本願寺)を建立し隠棲、明応8(1499)年、山科本願寺で入滅する。
 戦国の100年間に、本願寺は日本有数の大教団として、また強力な社会的勢力としての地位を得た。これは、教団の自衛としての意味もあるが、力を付けた民衆の解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力ともなった。それは一方で、戦国大名など世俗権力との軋轢もまねき、その最大のものが、約10年にわたる「石山合戦」である。
 天下統一をすすめ京都に入った信長が、元亀元(1570)年、浄土真宗門徒の本拠地、大坂石山の「大坂本願寺(石山御坊)」からの退去を命じたが、石山本願寺勢力は信長に徹底抗戦する。10年にわたる交戦のあと講和が成立するが、徹底抗戦勢力が籠城したため、「大坂(石山)本願寺」には火が放たれ灰燼と化した。
 まもなく「本能寺の変」が起こり、信長が自害すると、あとを継いだ豊臣秀吉により石山本願寺跡地を含む一帯に「大坂城」が築かれた。本願寺は、秀吉の寺地寄進をうけて大坂の天満(てんま)に移るが、さらに天正19(1591)年、豊臣秀吉から京都に寺地の寄進を受け、現在地に移転した。
 「石山合戦」で和議を受け入れた第11世門跡 顕如は、徹底抗戦を唱える長男 教如との間にしこりが残り、教団の内部も穏健派と強硬派に分裂し、これが東西本願寺分立の伏線となった。顕如入滅にともない、教如が本願寺を継承するが、穏健派は三男の准如に継職させるよう秀吉に願い出て、弟の准如が第12世本願寺宗主となる。
 関ヶ原の戦い後、天下人となった家康に接近した教如は、家康から「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の寺領を寄進され、教如はここを本拠とする。かくして本願寺教団は、「准如を12世宗主とする本願寺教団(真宗本願寺派/西本願寺)」と、「教如を12代宗主とする本願寺教団(真宗大谷派/東本願寺)とに分裂することになる。正式には、慶長8(1603)年、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、「本願寺(東本願寺)」が開かれた。
 西本願寺境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、国の史跡に指定され、ユネスコ世界文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されているが、観光寺院ではなく信仰を旨とする寺であるため拝観料は無料で、境内および国宝の御影堂や阿弥陀堂に自由に入ることができ、国宝の唐門もすぐ横まで行ける。
 東西の本願寺は、五条通りから七条通りの京都の中心地に広大な土地を所有する。その所有地に多くの民家が建ち、借家も多く、それらの借家には高齢者夫婦などが住まっている。古くからの借家は家賃が安いので、高齢者は移転が難しく、下京区の高齢化が進んでいるという。
 この地区はJR京都駅の北面にあたり京都の玄関口であるが、商業集積は比較的遅れており、京都の商業中心地は四条河原町周辺に奪われている。これは、五条通りから京都駅前の塩小路通りに挟まれた広大な中心地域が、商業に積極的でなかった東西本願寺と旧国鉄の所有地であったためと言われている。

京都近代化を遡る【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】

2021-09-23
Facebook 佐々木信雄さん曰く
京都近代化を遡る【05.京都策第Ⅱ期・京電/京都市電】
 1895(明28)年、民間企業である「京都電気鉄道」により第1期区間が開業し、日本最初の営業用電気鉄道となった。背景には、国内に先駆けて琵琶湖疏水を利用して蹴上水力発電所が建設されたことがあり、その電力の活用に電車が挙げられたのだった。当時は電灯や産業用電力利用もほとんどなく、結果的に京電の路面電車が電力の唯一の使い道となった。
 1895(明28)年2月、京都市南部の伏見から京都駅前付近まで最初の路線が開通し、同年4月、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。これは京都岡崎公園を会場として第4回内国勧業博覧会が開かれ、その開催にあわせての開業であった。京電は琵琶湖疏水の発電によって電力が供給されたため、発電所の機械故障や琵琶湖の増水などによる停電で、たびたび電車の走行が止まった。
 さらに開業当初は運転技術や設備が未熟で、衝突事故や電圧変動による立往生などもよく発生した。当時は停留所の概念がなく、電車は任意の場所で乗降扱いを行っていたので混乱をまねいた。また、事故を防止するため、先導役の少年が電車の前を走りながら告知していたが、不安定な電圧が突発的に上がって電車が急加速、先導役の少年自身が轢かれるという事故もあったという。
 その後、京都市による路線建設も進められ、競合する京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、1918(大7)年に市に買収され「京都市電」に統合された。京都市の路面電車は、琵琶湖疎水の水力発電によって供給される潤沢な電力を基にして始められたが、それに重ね、京都の計画的に建設された碁盤の目状の主要道路が電車の運行に都合が良かったことや、人口が多く観光客も多く見込めることなどがあった。さらには、首都東京移転による危機感と市民の進取の風潮が大きく働いたうえに、1895(明28)年の平安遷都1100周年を記念して、内国勧業博覧会が催される事になったことも、追い風となった。
 京都市が京電を買収し競合区間の路線が統一され、大正中期から昭和初期までは市電の第一期黄金時代となった。路線は戦後に至るまで延長され乗客も増大、1963(昭38)年)には一日平均50万人を超える利用となった。しかし昭和30年代の後半からモータリゼーションが進み、さらに市電と競合する市バスや会社バスが増加すると、市電はむしろ主要道路を占有する邪魔者とされるようになってきた。
 1969(昭44)年)、当時の革新系市長により京都市の新たな交通計画が策定され、「十文字の地下鉄路線とそれを補完するバス路線網」が決定され、財政再建の名目で市電路線の撤廃が始められた。1976(昭51)年に全面撤去へと計画が変更され、1978(昭53)年には全面廃止された。なお、地下鉄路線網は当初計画から40年以上が経過した現在も未完部分を残したままで、京都市財政は破綻の危機に面している。その主要原因は、地下鉄建設の膨大な費用負担だといわれている。
 京電時代に「伏見ー京都駅間」(伏見線)や「京都駅ー北野間」(堀川線)など幾つもの路線が敷設されたが、走る電車はいわゆる狭軌(Narrow gauge)用であり、のちに京都市電と統合されたとき、京都市電の広い軌道を走る
最大文字数 : 10000車体と区別するため「N電」と呼ばれたという。一般に路面電車をチンチン電車の愛称で呼ぶことが多いようだが、京都ではもっぱら狭軌を走るマッチ箱のようなN電のことを、「チンチン電車」と呼んでいた。
 市営化後、堀川線は1961(昭36)年8月1日に廃止され、その他のN電も順次廃止されたが、私はこのころ中学生になったばかりで、東堀川通りを走るチンチン電車を、堀川通りを並走する市バスの窓から眺めた記憶があるが、結局、一度も乗ることがなかった。チンチン電車が廃止になる当日には、記念して造花で飾られた「花電車」が走ったという。

6系統

2022-04-21
 Facebook 石川進 さん曰く

秋空の京都、良いお天気です。
風来坊写し人な わたくし、例によって場所は判っておりません
1977. 10. 10  撮影

石川進
左隅に第一勧業銀行の看板が見えますが、
存続していれば みずほ銀行の支店場所が足掛かりになりましょうか?

石井忠
6系統ですと東大路通りか烏丸通り、
分岐は東大路なら百万遍、
烏丸なら烏丸今出川ですかね。
七条烏丸は東本願寺前でカーブしてましたからね。

嵐電、500形原型時代撮っていなかったと思ったら 有りました。

2022-04-20
Facebook 佐藤 雅彦 さん曰く、今までの車両からイメージ変えるということでデビューしましたが
他都市の路面電車のようにしたのですが それが裏目に出ました。2両廃車、残2両を近年両端ドアに改造しましたが。
TOPへ戻る