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思い出のページ 【京都、今昔物語】

京都雑記【09.京の町民自治の進長】

2021-12-22
Facebook 佐々木信雄さん曰く
京都雑記【09.京の町民自治の進長】
*1817.7.3/ 京都下京の町年寄(町組長)らが、町代(町役人)の専横を訴え、町組と町代の権限について町奉行所に判断を求める。
*1818.10.10/ 懸案の町代権限問題に、町奉行所は町組側勝利の判決を下す。
*1819.閏4.23/ 京都上京に、町自治最高機関としての「大仲(おおなか)」が組織される。
 応仁の乱をまつまでもなく、京の都には各地の武士団が攻め入り、街中で覇権抗争を繰り返し、都は幾度も焼け野原となる。負ければ帰れる国元がある武士たちに対して、京の町にしか居場所のない町民庶民は、いずれが勝つか分からない武士勢力に、旗色を鮮明にして支持するわけにはいかない。
 物事を曖昧婉曲に表現する京都人の独特の言い回しは、このような状況から発生したと思われる。どちらとも採れる独自の言語表現を獲得したわけで、これが京都人の意地悪さと錯覚されるが、いわば生活の必然の知恵として発生したものと考えるべきである。
 一方で、頼りにできない武士勢力に対して、京の町衆は自衛できる自治能力を持とうとした。その基礎単位となったのが「町組」であった。天文元(1532)年に始まった「天文法華一揆」が、町組の勃興時期と重なる。そして、法華一揆終焉後の荒廃した街の復興処理には、町組が重要な役割をはたしたとされる。
 江戸期に入ると京都の市街は発展し、新たな町(ちょう)が幾つも誕生し、町組の再編が行われた。別個に発展していた下京(しもぎょう)と上京(かみぎょう)は、市街地の発展につれて境界がつながるようになった。二条大路を境にして、下京と上京それぞれが、惣町(拡大町組)として組織されていった。
 各町では、町年寄(町組長)が代表して、町民の寄合い(会合)で合議されたが、町奉行との連絡役として「町代」が置かれていた。しかし町代は次第に町奉行配下の役人的性格を帯び、奉行の権威をかさに次第に横柄にふるまうようになった。
 そこで上京・下京のそれぞれが、町組の権限と町代の立場確認を求めて町奉行所に訴えていたが、奉行所は町組側の主張を認め、上京・下京には「大仲」という自治組織最高機関の設立が認められた。やがて京都全体の統一的自治機関に拡大してゆく。
 京都町衆の自治意識の強さは、このような歴史的経緯に裏付けされたものといえる。町衆の祭と言われる祇園祭も、その歴史は平安朝にまで遡るが、今のような山鉾の巡行の形をとるのは、室町期の町組の確立と無縁ではあり得ない。現在まで山鉾巡行を支えているのは、そのような強固な町組組織が機能している証左でもあろう。
 また、明治の初期、小学校設立は予算のない政府に代わって、町組の資金協力によって可能になったものが多い。市中心部の小学校区も、町組の単位に沿ったものが多いという。その後、昭和以降の人口増で、小学校区もさらに多くの「町」に分かれているが、その小学校のグラウンドでは、町別対抗の運動会やソフトボール大会が行われたものである。
 当方は、戦後すぐに生まれた世代だが、京都市北区(分区前は上京区)に生まれ育った。その当時でも「町(ちょう)」の結び付きは強く、町会を基本に役員が選ばれ、形骸化したとはいえ、それなりに町単位の催し事も多かった。また、ボランティア的だが青年会や子供会もあり、活動も活発だった。
 いま住んでいる地域では、隣近所の名前も憶えられないぐらいの付き合いしかない。町内会があるのかないのか、回覧板ひとつ回ってこない。それが良いのか悪いのかは、別問題ではあるが。

【今昔物語、時は半世紀前、1969年9月】

2021-08-18
大谷大学にも、嵐が・・・。

【学生の街 京都】

2021-05-20
京都には学生が多いと言われています。 これを大学生について統計からみていきましょう。
学校基本調査によると、令和2年5月1日現在 の京都府の大学の数は 34校です。大学数だけみると、全国7位ですが、人口 10 万人当た りの大学の数は
京都府は 1.22 校で全国1位となっています。 (表1)
学生の数は学校基本調査によると京都府の学生・院生 は 162,601人です。総人口に対する割合でも、京都府は 6.4%とな 
り、全国1位となっています。 (表2)
出典 令和2年学校基本調査(文部科学省) 人口推計(総務省) 
データで見ても、京都の学生さんの数は多いということがわかります。
道を歩いていて、50人に3人が学生だということになります。とはいえ、京都では観光客の方が多いですが。
この京都で一番古い大学はどこかご存知でしょうか?
この場合、旧制大学になった年、学校として創立した年という見極め方がありますが、ここでは、学校として創立した年で見ていきたいと思います。
種智院大学です。京都でと いうよりも、日本で一番古い創立の大学と言っていいと思います。大学としては、昭和24年(1949年)に新制大学としてスタートしていますが、その創立は天長 5年 (828)、弘法大師 空海 が綜藝種智院として 創設しました。
その他、龍谷大学も1639年 京都西本願寺境内に学寮として創立しています。
大谷大学も1665年の創立です。
これらの大学は最初は仏教の学問所としての創立でした。
今日は1900年に 京都法政学校(現 立命館大学)が設立された日です。
立命館大学の創立年は、実は二つあります。
これは、1869年、 西園寺公望が私塾立命館を創設しました。しかし、京都府庁の差留命令により1年弱で閉鎖されました。西園寺の秘書官であった中川小十郎が西園寺の意志を継ぎ、1900年に向学心を持つ勤労青年のために勉学の機会を与えるとともに、京都帝国大学教員の経済支援を兼ねた夜間学校として京都法政学校を設立。京都市上京区東三本木丸太町にあった料亭「清輝楼」(「吉田屋」の近隣にあった)を仮の校舎としました。
他方、1889年に、京都法学校(きょうとほうがっこう)が、京都市下京区寺町通四条下ル大雲院内に設立されました。その後入学希望者の増加に対応しきれなくなり、京都法政学校に事実上引き継がれることになりました。
現在の立命館大学では、京都法政学校が設立された1900年を創立と、私塾立命館が開設された1869年を立命館の創始としています。
○「立命館」の由来
『孟子』盡心章句(じんしんしょうく)にある「殀寿貳(ようじゅたが)わず、身を修めて以て之を俟(ま)つは、命を立つる所以(ゆえん)なり」(人間の寿命は天命によって決められており、修養に努めてその天命を待つのが人間の本分である)から採られました。
現在の立命館大学は、衣笠、朱雀、滋賀県の草津、大阪の茨木、サテライトとして東京と大阪梅田にキャンパスがあります。今回知らなかったことが、大学の本部が朱雀だったことです。てっきり、衣笠だと思い込んでいました。
【広小路キャンパス】
立命館大学は衣笠キャンパスがほとんどと思われる方が多いと思います。広小路キャンパスがあったことをご存知の方は、少なくなったかもしれません。
私が中学生の頃には、まだ広小路キャンパスもあって、一部衣笠キャンパスに移っていました。
私にとっては、この広小路キャンパスは、『二十歳の原点』高野悦子著でのイメージでした。学生運動華やかりし頃の広小路キャンパス。かなり後に、『二十歳の原点』で描かれた場所を歩いたことがありましたが、喫茶店の「しあんくれーる」もなくなっていました。そして、彼女がアルバイトをしていた京都国際ホテルも数年前に廃業されています。
いま、この広小路キャンパスの跡を辿ろうと思っても、残っているのは記念碑だけです。現在は、京都府立医科大学の図書館や京都府立文化芸術会館になっています。
【衣笠キャンパスへ】
1965年(昭和40年)から広小路キャンパスからの移転が始まり、1981年(昭和56年)に完全に移転が完了しました。
この衣笠キャンパスは、大清国第12代にして最後の皇帝愛新覚羅溥儀の寄付により作られたものです。
この衣笠キャンパスはきぬかけの道沿いにあり、バス停の向かいには堂本印象美術館、金閣寺、龍安寺、キャンパスの南には等持院もあります。そういえば、2020年3月に嵐電北野線の「等持院」を「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」に変更になりました。そのため、この駅名が日本一長い駅名となりました。
きぬかけの道周辺にいらっしゃったら、立命館大学のキャンパスをご覧になってみてください。

郷土史散策【05.東西の高低差と京都の街】

2021-09-23
Facebook 佐々木信雄さん曰く
郷土史散策【05.東西の高低差と京都の街】
 地図上の赤線、つまり京見峠から杉坂口、鷹峯から舟岡山を経由し、そこから千本通りを南下するところに一本の稜線があると考える。そしてそれはまさに、平安京の朱雀大路に重なる。つまりその部分が高くて、左側の右京は桂川水系、右側の左京は賀茂川水系とする。
 千束坂の下、鏡石通りに沿って金閣寺、衣笠方面に流れる紙屋川は天神川となって桂川に流れ込むのに、千束坂の上から逆側の釈迦谷、尺八池から流れ出る川が堀川や賀茂川側に流れ込む。古地図を眺めていて、この不思議に気付いたのが、朱雀大路稜線説である。
 右京の桂川流域は比較的ゆるやかな傾斜で、池、沼など湿地帯になりやすく、平安京の早期から右京部分が寂れたと考えられる。左京は賀茂川中心に勾配があって水はけが良いので栄えた。こういう理論が考えられる。京都の南北の高低差はよく言われるが、京の街の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる、東西の傾斜関係にはあまり注目されていないのでは。
 二枚目は明治22年の地図だが、このころまで、千本通りから西の右京がすっぽり田畑になってしまっていたことがうかがえる。これからも、右京一帯が低湿地化して廃れていたのが分かる。秀吉が紙屋川東側に御土居を築いたのも、それより西の旧右京を洛外とみなしたからであろう。

郷土史散策【04.平安京と洛中洛外】

2021-09-22
Facebook 佐々木信雄さん曰く
郷土史散策【04.平安京と洛中洛外】
≪図1≫
 西暦794年に都とされた「平安京」は、南北5.2km、東西4.5kmの長方形に区画された都城であった。北は一条通から南の九条通、東は東京極大路から西の西京極大路で区切られ、京内は東西南北に走る大路・小路によって碁盤の目のように条坊に分けられた。
 東西の中央部北端に内裏が設けられ、真南に向けて朱雀大路が通された。朱雀大路で分けられた東半分は「左京(東の京)」、西半分が「右京(西の京)」と呼ばれた(内裏から南方向を見ての左右だから、地図上では逆になる)。
≪図2≫
 平安京は、隋・唐の長安城に倣って造営されたが、右京は桂川流域の低湿地帯が多くをしめ、早くから廃れたという。鎌倉時代の文献には、左京を漢帝国の都「洛陽」に擬え、右京を隋・唐の都「長安」と呼んだと記されている。
 右京が廃れたことから、左京が実質的な市街地として残り、市内のことを洛陽の「洛中(らくちゅう)」と呼ぶようになった。その外側は辺土であり、後には「洛外(らくがい)」と呼ばれたとされる。
 したがって、京以外の土地から、天皇の住まう京の都に向うことは「上洛」と呼ばれた。たとえ江戸時代においても、将軍が江戸から京に行く場合は「上洛」と言ったのである。
 豊臣秀吉の時代には、すでに左京が実質的な京の町となっており、秀吉が「御土居」で囲った地域は、ほぼ左京に重なる。ゆえに「洛中」という言葉が、名実ともに京都の市街地を指すことになった。
≪図3≫
 御土居の周囲には、京から各地に向かう街道への出入口があり、「京の七口」などと呼ばれる。最も有名なのが東海道の出口で、三条大橋から東に蹴上(けあげ)方面に向かうあたりの「粟田口」。北方面には、丹波から山陰に向かう「長坂口」、鞍馬街道への「鞍馬口」、大原から鯖街道などを経て若狭・北陸方面に向かう「大原口」。
 南には、かつて羅城門があり平安京の南の出口であった「東寺口」があり、今は大阪へ向かう国道一号線の出口になっている。ほかにも、鳥羽伏見の戦いでせめぎ合いとなった「鳥羽口」「伏見口」「竹田口」、今も地名として残っている「荒神口」「丹波口」など、実際には七つを超える。
 江戸時代半ばごろから、京の町は鴨川を越えて東に発展し、やがて東山にせき止められる。明治になるとやっと、東には広がれないので、かつて寂れた右京方面に向った。それまでは、京の町は東へ東へと移動していった。たとえば、今の京都の中心街には、寺町通りや新京極通りという南北に走る商店街がある。新京極自体は明治の初めに京都振興のために作られたものであるが、その名前は京の極まり、すなわち京の端を意味し、かつての平安京の東の端を区画する「東京極大路」の通っていたあたりなのである。
 一方、「西京極大路」は、JR花園駅と阪急西京極駅を南北に結ぶあたりにあった。西京極は、野球場や総合球技場などが集まった京都市のスポーツ公園となっている。つまり、かつてはそれだけのスペースのあった僻地だったということを示す。
≪図4≫
 京の町が東へ移動していったように、京都人は歳を経るにしたがって東へ移ってゆくという笑話がある。私たちは、中学高校生のとき、繁華街に出る時には「寺町・新京極」より東へ行くなと言われたものだ。京都に来た修学旅行生にも、そのような指示があるともいう。そのせいで新京極商店街は、修学旅行生向けのちゃちな土産物を売る店ばかりが増えて、京都人があまり行かなくなった時期もあったようだ。
 京都の街は、東へ向かうに従って「大人の街」になってゆく。中高生はこの辺りで、遊んでいろと言うことで、それ以上の若者は、京都のメインストリート「河原町通り」でショッピングやファッション・外食を楽しむ。そして二十歳を過ぎて成人すると、「木屋町通り」辺りを徘徊して、グループコンパなどアルコールを含む飲食で楽しむ。
 年配となってゆとりができると、鴨川を越えて「祇園町」方面に向かう。この辺り一帯には、高級クラブやスナックなどの高級飲食店がびっしりと並び、もちろん芸妓・舞妓はんにお出ましいただいて「お茶屋遊び」もできるわけだ。そしていよいよ寿命ががきわまりあの世に逝くことになると、「東山」の寺院の墓地の世話になるのである(笑)
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