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支える人

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

曲軒は、実は直軒でした。

2020-10-22
最期の作品は、こちらでした。
ちょっとだけですが・・・。
「人間とはふしぎなものだ」と主水正が云った、「悪人と善人とに分けることができれば、そして或る人間たちのすることが、善であるか悪意から出たものであるかはっきりすれば、それに対処することはさしてむずかしくはない、だが人間は善と悪を同時に持っているものだ、善意だけの人間もないし、悪意だけの人間もない、人間は不道徳なことも考えると同時に神聖なことも考えることができる、そこにむずかしさとたのもしさがあるんだ」(下、135~136ページ)

曲軒の極まりです。

2020-10-22
曲軒は、山本周五郎の生き方そのものです。
赤ひげの生き方も、また然りでした。

山本周五郎という生き方

2020-10-22

あるとき、と山本周五郎が書いている。

《私は家人の箪笥をあけてみて、自分の躯が唐竹割りにされたようなショックを受けた。彼女の母親から譲られたその古風な箪笥は、五つある抽出の全部がからっぽになっていたのである。(中略)ほんの常着用の物を幾らか残すだけで、きれいさっぱりなくなっていたのである》(「からっぽの箪笥」)

ノーベル賞

2020-10-22
二人の巨人
Facebook佐々木信雄さんの投稿
 湯川英樹は1907(明40)年1月23日、東京麻布で地質学者小川琢治と小雪の三男として生まれるも、すぐに父琢治の京都帝大教授就任に伴い京都市に移住する。京都市立京極小、京都府立一中、三高、京都帝大学理学部と進み、同じくノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎とは、ほぼ同年代で同じコースを歩んだ。

ノーベル賞ということ

2020-10-22
日本人初の快挙でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
【20th Century Chronicle 1935年(s10)】
◎湯川英樹 中間子論を発表
*1935.2.-/ 湯川英樹大阪帝大講師が、のちのノーベル賞受賞につながる中間子論を発表する。
 1934(昭9)年、大阪帝大講師の湯川英樹は中間子理論構想を発表、翌1935(昭10)年2月には『素粒子の相互作用について』を発表し、中間子(π中間子)の存在を理論的に予言した。原子核を構成する陽子と中性子を結合させる、強い相互作用の媒介となる「中間子」が理論的に存在することを示した。
 戦後の1947年になってから、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からπ中間子を発見し、湯川の理論の正しさが実証された。これにより1949年(昭和24年)日本人として初のノーベル賞受賞者となる。湯川のノーベル物理学賞受賞は、戦争で打ちひしがれた日本国民を勇気づける事件となった。
 湯川英樹は1907(明40)年1月23日、東京麻布で地質学者小川琢治と小雪の三男として生まれるも、すぐに父琢治の京都帝大教授就任に伴い京都市に移住する。京都市立京極小、京都府立一中、三高、京都帝大学理学部と進み、同じくノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎とは、ほぼ同年代で同じコースを歩んだ。
 京都帝国大学を卒業後、京都帝大講師、大阪帝大講師として研究を続け、この大阪時代に「中間子論」を発表する。この時期に、湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となって小川姓から湯川姓となる。父小川琢治は地質学者であり、その子供たちも学者兄弟として有名である。長男の小川芳樹は冶金学者、次男の貝塚茂樹は東洋史学者、三男の湯川秀樹は物理学者、四男の小川環樹は中国文学者として、それぞれ名を成している。
 当時は日中戦争中であり、日本人学者は海外から評価されづらい状況だったが、最先端の量子力学研究者らが集まるソルベー会議に招かれ、以後アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つようになった。戦前には徐々に評価されるようになり、戦後のノーベル賞受賞後の1953(昭28)年、京都大学基礎物理学研究所初代所長に就任、京都大学及び日本の理論物理学の発展に尽くした。
 またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」に、当時の第一級の科学者ら11人連名の共同宣言者として名前を連ねた。1981(昭56)年、京都大学退官後も住み続けた京都市左京区の自宅で死去、享年74。
(この年の出来事)
*1935.3.16/ 政権を握ったナチスのヒトラーが、ベルサイユ条約を破棄し、再軍備を宣言する。
*1935.3.21/ 無実を訴え続けていた無期懲役刑の吉田石松が、秋田刑務所を23年ぶりに仮出所。ただちに再審を請求し、「昭和の巌窟王」と呼ばれる。(1963.2.28無罪確定)
*1935.3.-/ 安田与重郎・亀井勝一郎らが「日本浪漫派」を創刊する。
*1935.4.6/ 満州国皇帝溥儀が来日、天皇が東京駅に出迎える。
*1935.9.-/ 第1回芥川賞・直木賞が決定、芥川賞に石川達三「蒼氓」、直木賞に川口松太郎「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」が選ばれる。
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