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支える人

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

のらくろ

2020-10-17
1931.1.-/ 田河水泡の漫画『のらくろ二等卒』の『少年倶楽部』への連載が開始される。人気を博し、以後連載は10年9ヵ月続く。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1931年(s6)】
◎「のらくろ二等卒」
*1931.1.-/ 田河水泡の漫画『のらくろ二等卒』の『少年倶楽部』への連載が開始される。人気を博し、以後連載は10年9ヵ月続く。
 講談社「少年倶楽部」にて1931年から連載が始まる。当時の少年雑誌は「読物(少年小説)」が主流だったが、人気小説を連載中の人気作家佐藤紅緑のアドバイスなどから漫画を掲載するようになったという。それまで漫画は「ポンチ絵」と呼ばれて、時事的な問題の風刺画が主であった。時期的には、現在のようなコマ割りや吹き出しという形式は登場し始めたころだった。
 文筆家志望で落語作家などを手掛けていた田河水泡は、自らの軍隊経験、たまたま飼い出した犬などから、物語性のある「のらくろ」の連載につながっていった。戦前の漫画としては稀有な長期連載となり、太平洋戦争の始まる直前に編集長判断で打ち切りになった。内務省筋から、時節柄、漫画というふざけたものの掲載を許さないという通知があったからだという。
 当初は、志願兵でドジばかりしながら、後半は少し手柄を挙げて2年満期で除隊という構想だったが、人気沸騰のため継続連載となる。最初は四足で歩く犬として描かれたが、昇進するにつれて擬人化され見慣れた「のらくろ」となってゆく。階級も、二等卒(二等兵)だったが徐々に階級を上げ、最終的に大尉まで昇進する。予定では、少佐に昇進させるつもりだったが、軍からさすがに佐官はだめだと苦情があり、やむを得ず大尉で除隊させたとされている。
 田河水泡は戦後も長く活躍し、平成元年90歳で没した。そのため単行本、全集版、様々な職業の外伝、戦後新シリーズなど多岐ににわたり、その姿の変遷や軍隊の位も変更されているものが多い。1930年代の子供雑誌には、『のらくろ』や『冒険ダン吉』『タンクタンクロー』などの人気漫画が連載され評判を呼んだ。
 一方でこの時期、「絵物語」というジャンルが成立した。これは紙芝居から発展したもので、戦後の劇画などにもつながる。大分割された紙面で、絵と文字の説明部分が同じ程度のスペースを占めたものが基本で、文字部分が多く物語表現に適し、絵も漫画よりリアルな表現であった。軍部の検閲を意識して、軟弱とみられた漫画から絵物語に形式を変えたものもみられた。
 紙芝居の大ヒット作『黄金バット』や『少年ケニヤ』が絵物語として連載され、『冒険ダン吉』『タンクタンクロー』などは、当初の絵物語がのちにコマ割りされ漫画となった。私自身、昭和30年前後の少年雑誌にはまった世代だが、『少年ケニヤ』は絵物語、『冒険ダン吉』や『タンクタンクロー』は漫画化されたものを読んだ記憶がある。
(この年の出来事)
*1931.3.6/ 右翼団体「桜会」の橋本欣五郎と民間右翼の大川周明が、軍部政権樹立のクーデターを計画、未遂に終わる(3月事件)。
*1931.10.17/ 参謀本部の橋本欣五郎中佐ら「桜会」による軍部内閣樹立クーデターが未然に発覚、陸軍将校らが検挙される(10月事件)。
*1931.10.31/ 東京朝日新聞が、北海道・東北の大凶作・飢饉を報じる。
*1931.11.10/ 天津で日中両軍が衝突するなか、旧清朝の宣統帝溥儀が、日本軍の手引きで大連へ脱出する。

お上です。

2020-10-16
Facebook永井由紀夫さんの投稿より

小林一三

2020-10-15
阪急、東宝・・・・。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1929年(s4)】
◎小林一三と阪急電鉄
*1929.4.15 大阪の梅田に阪急電鉄経営の初の本格的ターミナルデパート「阪急百貨店」が誕生する。
 従来のいわゆる老舗百貨店は、江戸時代からの呉服店など「暖簾(のれん)」を誇り、旧市街の中心地に大店舗を展開するのが常識だった。そこへ、阪急電鉄の総帥小林一三は、大阪梅田駅の新ターミナルビル竣工に合わせて、「阪急百貨店」を開店させた。鉄道会社が百貨店を経営する事例は海外にもなく、疑問の声に対しては「便利な場所なら暖簾がなくとも客は集まる」と言って、「ターミナル・デパート」というカテゴリーを作り出した。
 小林一三は山梨県に生まれ、福澤諭吉塾長の慶應義塾に学び、三井銀行東京本店に勤務するなど、本来関西に無縁だったが、大阪北浜で銀行を立ち上げた岩下清周に誘われ大阪へ赴任。当初の目的であった証券会社設立の話は立ち消えになったが、たまたま行き詰っていた「箕面有馬電気鉄道」の話を聞き、岩下から資金を調達すると、1907(明40)年)、「箕面有馬電気軌道」と社名を改め、小林は同社の専務として経営の実権を握る。
 しかし当時は何もない野山に線路を通すわけで、わずかな観光客以外は乗客も期待できない。小林は、乗客がないならば乗客が住む街を作ればよいと、沿線に宅地を開発し、大阪へ通うサラリーマンでも購入できるようにと、まだ珍しい割賦販売などをも取り入れた。山地をただ同然の価格で買収し、付加価値を付けて分譲するという技は、線路をもつ鉄道会社ならではの発想、この手法は、関東の東急の五島慶太や西武鉄道堤康次郎などが丸ごとまねして、私鉄事業の基本的な事業展開となった。
 鉄道を「線」としてではなく、その沿線を含めて「面」と捉え、その面にアメニティを創出することで、さらなる事業収入を拡大する小林の発想は画期的であった。沿線宅地の開発分譲だけではなく、宝塚には宝塚歌劇団劇場や宝塚遊園地という娯楽施設を開設、さらには六甲山ホテルの開業でホテル事業も展開、プロ野球球団阪急ブレーブスをも創設し、その極め付けとしてのターミナルデパート阪急百貨店であった。阪急沿線の分譲地に住まった住民は、その沿線で生活を完結させてしまうことができた。
 大正の初めの有名なキャッチコピー「今日は帝劇、明日は三越」は、帝劇の開設時に配布されたプログラムに掲載された三越の広告に添えられたものであった。これは「大正ロマン」の時代を彷彿とさせるが、このコピー対象とされたのは「山の手有閑マダム」であろう。
 一方、阪急百貨店が誕生した昭和の初めは「昭和モダン」と呼ばれ、「モガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)」が街中を闊歩する時代、若い男女がファッションリーダーとして登場する。若い彼・彼女は、今でもファッションセンスに定評のある阪急百貨店でショッピングをし、宝塚大歌劇場でレビューを楽しむという姿が想像される。
(この年の出来事)
*1929.2.23/ 約3年間にわたって、強盗に入っては説教をするという「説教強盗」が逮捕される。
*1929.5.-/ 小林多喜二「蟹工船」が「戦旗」5・6月号に発表されるも、発禁となる。
*1929.6.3/ 日本政府が、中国「国民政府」を正式に承認する。
*1929.6.-/ 秋田県の元教師成田忠久が、教育の地方分権などを提唱し「北方(きたかた)教育社」を創設。翌年には雑誌「北方教育」を創刊し、「生活綴方運動」を始める。
*1929.8.19/ 世界一周飛行中のドイツのツェッペリン伯号が、茨城県霞ヶ浦の飛行場に着陸する。
*1929.8.-/ 雑誌「改造」の懸賞文芸評論で宮本顕治「敗北の文学」が当選、2等に小林秀雄の「様々なる意匠」。「改造」8月号に「『敗北』の文学」、9月号に「様々なる意匠」が掲載される。

佐々木信也

2020-10-12
Facebook村上 なおみさんの投稿
今日は佐々木信也さんの誕生日です。おめでとうございます。
佐々木信也は、神奈川県立湘南高校時代、夏の第31回全国高等学校野球選手権大会に、1年生ながらレギュラーとして出場して優勝。第2回大会の慶應普通部以来、33年ぶりの関東勢優勝のため、「深紅の優勝旗が箱根の山を越えた」といわれた歴史的な大会でした。
慶大卒業後、スカウトされた球団は、幸か不幸かパ・リーグのお荷物球団、高橋ユニオンズ。「幸」は、選手層が薄かったため、新人ながらチャンスを貰い、それに応えてルーキーイヤーながら154試合全イニング出場。シーズン出場の日本記録(タイ)で、もちろん新人は初めてです。
「不幸」は、所属球団が次々合併してしまったこと。佐々木信也も、1年目にそれだけ実績を残したのに、繰り返される合併で年々出番が減り、なんと4年目のオフに余剰戦力扱いで自由契約になってしまいました。
しかし、その後、解説者、スポーツキャスター、さらにタレントとしての市場を開拓しました。

日本選手団入場

2020-10-10
第18回オリンピヤード東京大会の開会式です。
選手宣誓 小野喬
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