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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

戦後という時代の始まりは、再び銃を手にすることでした。

2020-10-21
6.9 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 50's / 1954年(s29)』
◎陸海空自衛隊が発足
○6.9 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
 日本を占領した連合国軍は、当初日本の軍事力を完全に無力化する予定であった。しかしソ連が核保有国となり冷戦構造が顕著になるとともに、大陸では中国人民共和国が成立し、さらに1950年に朝鮮半島で戦争が勃発すると、全く状況が変わってきた。日本に駐留の米軍は、その主力を朝鮮半島に向けざるを得ず、空白となる日本の治安維持は、日本自体が担う必要に迫られ「警察予備隊」を組織させた。
 1951年、サンフランシスコ講和条約が成立すると、同時に(旧)日米安全保障条約も締結される。これは、占領軍が撤退すると同時に、米軍の継続駐留や基地の存続を認め、日本の防衛は日本自身が主体となり、米軍はこれを援助するというものであった。その趣旨を明確にするために翌1952年、警察予備隊は「保安隊」と改組された。
 1954年、安保条約を具体的に補完するため「日米相互防衛援助協定」が結ばれ、米国は日本に駐留するとともに日本に軍事支援を与え、その支援を受けて、日本は自国の防衛のために軍備を整えることが義務付けられた。これにより日本は、防衛の目的に限り再軍備する事を認められ、それに対応して保安隊は「自衛隊」と改組され、事実上の自国防衛軍となった。
 とはいえ自衛隊は、設立当初から現在に至るまで、論議の的になり続けてきた。詳細には立ち入らないが、憲法九条との関係で、自衛隊は軍隊であるとかないとか、無意味な空論が続けられてきた。自衛隊は名実ともに自衛軍であり軍隊である。問題は、それが憲法で認められ得る軍隊なのかどうか。もし認められないなら、憲法を変更するかどうか、それだけの問題だろう。
 とここまで書いて、50年前の高校生の時に、こっそりローカル新聞に投稿した内容と全く同じなのに気付いた。クラスの女子に気付かれて恥ずかしい思いをしたが、とにかく50年間自分の見解が変わっていないことよりも、50年間政治状況が全く変わっていないことの方に驚かされた(笑)
*この年
朝鮮特需による好景気が終わる/電気洗濯機・冷蔵庫・白黒テレビ(or掃除機)が「三種の神器」となる/ヘップバーン・カット大流行/東映娯楽映画シリーズで中村(萬家)錦之助・東千代之介などのアイドル誕生
【事物】短波放送/パートタイマー/ラジオの深夜放送
【流行語】死の灰/スポンサー/水爆マグロ/ロマンスグレー
【歌】お富さん(春日八郎)/岸壁の母(菊池章子)/原爆許すまじ
【映画】七人の侍(黒沢明)/二十四の瞳(木下恵介)/ローマの休日(米)
【本】伊藤整「女性に関する12章」/三島由紀夫「潮騒」/ローゼンバーグ夫妻「愛は死を越えて」

この選択は、誰が何と言おうと、間違いでした!

2020-10-21
学徒出陣壮行会が行われました。
Facebook英霊の本日の出来事9l
昭和18年10月21日の本日、明治神宮外苑競技場で出陣學徒壮行式を挙行致しました。
第二次欧州大戰終盤の昭和18年に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農學部農業経済學科などの一部の理系學部の)學生を在學途中で徴兵し出征させたことである。
日本國内の學生だけでなく、當時日本國籍であった臺灣人や朝鮮人、満洲國や日本軍占領地、日系二世の學生も對象とされた。
學徒動員と表記されることもある。
「概要」
日本は昭和12年以来、當初は中華民國との支那事變、続いて昭和16年からは亜米利加・英吉利など聯合國との大東亞戰爭を続けていた。
特に亜細亜・太平洋地域に及ぶ廣大な戰線の維持や昭和17年以降の戰局悪化で戰死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった。
従来、兵役法などの規定により大學・高等學校・専門學校(いずれも舊制)などの學生は26歳まで徴兵を猶豫されていた。
しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶豫の對象は狭くされていった。
まず昭和16年10月、大學、専門學校などの修業年限を3ヶ月短縮することを定め同年の卒業生を對象に12月臨時徴兵検査を実施して、合格者を翌昭和17年2月に入隊させた。
この昭和17年には、さらに豫科と高等學校も對象として修業年限を6ヶ月間短縮し、9月卒業、10月入隊の措置をとった。
そして、さらなる戰局悪化により翌昭和18年10月1日、當時の東條内閣は在學徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755號)を公布した。
これは、理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸學校の在學生の徴兵延期措置を撤廃するものである。
この特例の公布・施行と同時に昭和十八年臨時徴兵検査規則(昭和18年陸軍省令第40號)が定められ、同年10月と11月に徴兵検査を実施し丙種合格者(開放性結核患者を除く)までを12月に入隊させることとした。
この第1回學徒兵入隊を前にした昭和18年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省學校報國團本部の主催による出陣學徒壮行會が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊學生を中心に7万人が集まった。
出陣學徒壮行會は、各地でも開かれた。
しかし翌年の第2回出陣以降、壮行會は行われなかった。
學徒出陣によって陸海軍に入隊することになった多くの學生は、高學歴者であるという理由から、陸軍の幹部候補生・特別操縦見習士官・特别甲種幹部候補生や、海軍の豫備學生・豫備生徒として、不足していた野戰指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。
昭和18年10月には教育ニ関スル戰時非常措置方策が閣議決定され、文科系の高等教育諸學校の縮小と理科系への転換、在學入隊者の卒業資格の特例なども定められた。
さらに翌昭和19年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、學徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。
「對象」
昭和18年の徴兵對象者拡大の際、學徒出陣の對象となったのは主に帝國大學令及び大學令による大學(舊制大學)・高等學校令による高等學校(舊制高等學校)・専門學校令による専門學校(舊制専門學校)などの高等教育機関に在籍する文科系學生であった。
彼らは各學校に籍を置いたまま休學とされ、徴兵検査を受け入隊した。
これに對して理科系學生は兵器開發など、戰爭継続に不可欠として徴兵猶豫が継続され、陸軍・海軍の研究所などに勤労動員された。
ただし、農學部の一部學科(農業経済學科や農學科)は「文系」とみなされて徴兵對象となった。
また、教員養成系學校(師範學校)の理系學科(数學、理科)に在籍する者も猶豫の制度が継続された。
「學徒出陣の実施」
昭和18年10月21日、東京都四谷区の明治神宮外苑競技場で「出陣學徒壮行會」が文部省主催、陸海軍省等の後援で実施された。壮行會の様子は社團法人日本放送協會(NHK)が2時間半にわたり実況中継(アナウンサー:志村正順)を行い(外部リンク参照)、また映画「學徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われた。
秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々(引き続き徴兵猶豫された理工系學部生、中等學校(舊制)生徒、女學徒などが計96校、約5万名が學校ごとに集められた)の前で東京都・神奈川縣・千葉縣・埼玉縣の各大學・専門學校からの出陣學徒(東京帝國大學以下計77校)の入場行進(行進曲:観兵式分列行進曲「扶桑歌」 奏楽:陸軍戸山學校軍楽隊)、宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戰詔書の奉読、東條首相による訓辞、東京帝國大學文學部學生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされる。
出陣學徒は學校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた學校旗を掲げ、學生帽・學生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い列した。
壮行會を終えた學生は徴兵検査を受け、昭和18年12月に陸軍へ入營あるいは海軍へ入團した。
入營時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戰況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戰地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戰死者を出した。
昭和19年末から昭和20年8月15日の敗戰にかけて、戰局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戰死する學徒兵も多数現れた。
全國で學徒兵として出征した對象者の総数は日本政府による公式の数字が發表されておらず、大學や専門學校の資料も戦災や戰後の學制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多い。
出征者は約13万人という説もあるが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままである。
ただし、當時の文部省の資料によれば當時の高等教育機関就學率(大學・専門學校・舊制高等學校などの総計)は5%以下であり、さらに理工系學生は引き続き徴兵猶豫されたため學徒兵の実数は決して多くなかった。
しかしその多くが富裕層の出身であり、将来社會の支配層となる豫定の男子であった大學生が「生等もとより生還を期せず」(江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戰場に向かった意味は大きく、日本國民全體に総力戰への覚悟を迫る象徴的出来事となった。
(ウィキペディア参照。)

負けました!

2020-10-16
接収、身包み剥がれます。
伊号400潜水艦  Facebook金敷瑞貴さんの投稿より
2020-09-21

花山さんだけが知る東条の最期。
多くの人が犠牲になった悲劇の責任者は、戦争についてこのように語ったといいます。
故・花山信勝さん(カセットテープの声)
「人間の欲望というものは本性であって、国家の成立というようなことも「欲」からなるのだし 、自国の存在だとか、自衛というようなきれいな言葉で言うことも みな国の欲である」

 これは、何を意味する言葉なのか。東条の研究をしている埼玉大学の一ノ瀬俊也教授は、こう説明します。   「東条も戦争に負けた後、“この戦争ってなんで起こったんだろう。自分はその間、何をしていたんだろう”と非常に深く考えたと思います。その中で戦争は人間の欲望によって、起こるものだということを、仏様の道について学ぶ中で悟ったんじゃないかなと思います」(埼玉大学 一ノ瀬俊也 教授)

教戒師 花山信勝師の音声記録

2020-09-21

カセットテープの音: 「いよいよ死に直面したこれらの人たちの気持ちを、子々孫々へ伝えねばならないのです」  穏やかな声で語り続ける男性。一体誰なのでしょうか? 「教誨(かい)師の花山信勝という方」(蓮成寺 青木住職)

 教誨師とは、刑務所などで受刑者に対して精神的なケアなどを行う人のこと。  花山信勝さんは戦後、GHQ管理の下、戦犯者が収容されていた「巣鴨プリズン」で、教誨師を勤めていた僧侶です。

 このテープは、晩年の花山さんが当時の体験を記録として残したものでした。
  故・花山信勝さん(カセットテープの声): 「誰も知っていない東条さんの最後が、どうであったかということの点を申し上げたい」  
花山さんは、太平洋戦争開戦時の首相で、A級戦犯として絞首刑になった東条英機とも面談していたのです。
故・花山信勝さん(カセットテープの声): 「(東条英機は)“巣鴨プリズンに入ってから、初めて人生という問題について考える余裕ができた”と言われたのです。気の毒な人だったなと思います」

 1948年12月、東条らA級戦犯者7人の死刑が執行され、連合国の代表らとともに、唯一の日本人として立ち会ったのです。
「これが初めて(花山さんが) このお寺にみえた時の写真なんですね」(蓮成寺 青木住職)
  青木さんの父親・順正さんと親交のあった花山さんは、処刑に立ち会った約3か月後に蓮成寺を訪問。  講演で、当時の様子を語りました。 「(花山さんの話を聞くために) 人が庭まであふれているんですね。たくさんの身内を亡くした人たちも、日本の指導者にひどい目に遭わされた。その人(東条)がどんな形で亡くなったかというのは関心があったわけですね」(蓮成寺 青木住職)

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