兵器・武器
闘いの転機(戦いの前と後)
よく闘いました・・・。
最低、最悪の作戦
壊滅です。
思いは届きませんでした。
軍靴の音が、帝都に響きました。
【20th Century Chronicle 1936年(s11)】
◎二・二六事件
*1936.2.26/ 陸軍皇道派青年将校が約1400名の兵を率い、首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、東京朝日新聞などを襲撃する。(2・26事件)
*1936.2.29/ 戒厳司令部がラジオで「兵に告ぐ」を放送、反乱事件が収束へ。
*1936.7.5/ 東京軍法会議で2・26事件に判決。17名に死刑、5名に無期禁固。12日、15名に死刑執行。
1936(昭11)年2月26日未明、日本の陸軍皇道派の青年将校らは天皇親政を求めて、1400名にわたる下士官兵を率いて決起する。彼らが指揮する部隊は各方面を分担し、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞社を占拠した。
決起青年将校らは陸軍首脳に「昭和維新」の断行を迫り、天皇の承認を信じて陛下の御聖断を要請したが、側近らを襲撃され統帥権を犯された昭和天皇は激怒し武力鎮圧を命じた。政府は翌日27日未明に戒厳令を布告、蜂起部隊を反乱軍と規定し降伏を迫り、29日からは「兵に告ぐ」のラジオ放送を始め、アドバルーンや宣伝ビラを繰り出して帰順勧告が開始された。やがて投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉の自決未遂を最後に全員投降、4日間に及んだ反乱クーデターは鎮圧された。
事件の背景には、統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚たち(統制派)と、政財界の堕落した特権階級を排除し天皇親政の実現を図る革新派の青年将校ら(皇道派)の対立があったと言われる。これには、陸大卒の軍幕僚キャリア組と、士官学校から下士官というノンキャリア組の対立構造を見ることもできる。
陸軍中枢は、皇軍派青年将校の動きを危険思想として監視させており、1934(昭9)年11月、クーデタ-を企図したとして皇道派の村中孝次大尉や磯部浅一主計を逮捕した(陸軍士官学校事件)。さらに翌年7月、皇道派がリーダーとする真崎甚三郎教育総監が罷免され、皇道派と統制派との反目は度を深めた。これらの遺恨から、統制派の中心人物とされた永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こる(相沢事件)。
これらの事件を受け、皇道派排除の流れに危機を感じる青年将校らは、「蹶起趣意書」をしたためクーデターを実行しようとするが、そのリーダーとなると特定しがたい。士官学校事件で軍現役から排除された村中や磯部は、真崎甚三郎大将や川島陸軍大臣を訪れ担ぎ出すことを意図したが、ともに言を左右して曖昧な態度を示した。
青年将校らが属する東京の師団歩兵部隊第1師団の満州への派遣が決まると、青年将校らは決起すべきタイミングが来たと考えた。彼らの思想的指導者とされる北一輝や西田税も、時期尚早と考えていたようであり、実際に決起した将校の中には、彼らの思想的影響を受けたものは意外に少なかったとされる。結局、村中や磯部が、現役である野中四郎大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉などと申し合わせて決行したことになる。
思想的深まりもなく、事後の明確な運営方針もなく、全体を統率するリーダーもなく、一時の心意気と義憤だけに突き動かされた「維新」などは成功するべくもなく、昭和天皇の怒りのもとに鎮圧された。非公開・弁護人なし・上告なしの特設軍法会議において、わずか約2ヵ月の審理で主謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら青年将校17名に死刑の判決、民間の北一輝とその弟子西田税らは別の裁判で翌年に死刑が宣告された。
その後、粛軍の名のもとに皇道派を蹴落とし主導権を握った統制派は、永田鉄山亡き後の統制派を牛耳った東条英機に率いられ、日中戦争を開始し、日本はファシズムへの道を本格的にたどることになった。
(この年の出来事)
*1936.2.5/ 全日本職業野球連盟が結成され、東京巨人軍など7チームが加盟する。
*1936.3.9/ 広田弘毅内閣が、陸軍の介入で難航の末に成立。
*1936.5.18/ 内閣が陸・海軍大臣現役武官制を復活、これにより陸・海軍の意向で組閣が難航する。
*1936.11.7/ 帝国議会議事堂(現国会議事堂)が落成する。