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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

栗林忠道の闘い

2020-09-17
Facebook佐々木信雄さんのコメント
1945年2月16日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。前哨戦に続き、19日明け方から猛烈な艦砲射撃が始まり、さらに爆撃機および艦載機による銃爆撃が続くと、午前9時、第1波が上陸を開始して、本格的な上陸戦が展開された。水際での日本軍の抵抗は少なく、海兵隊は円滑に上陸し前進したが、日本軍は地下坑道に潜み艦砲射撃に耐えて、10時過ぎになってから一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。
 19日だけで米海兵隊は500名以上の戦死者を出したが、夕方までには圧倒的な兵力で海岸堡を築き東海岸線への上陸を果たした。翌20日以降、島南端にある摺鉢山の要塞と、島中央北部の飛行場のある元山方面とに分かれて侵攻開始したが、摺鉢山の戦いは熾烈を極めた。張り巡らした地下坑道に潜伏し、ゲリラ的に反撃を加える日本軍に対し、米軍は坑道入り口から火炎放射器を浴びせたり、入り口をブルドーザでふさぎ上部に開けた穴からガソリンを流し込み焼き尽くす「馬乗り攻撃(日本兵側の呼称)」などで、逐一つぶしていった。
 23日午前、アメリカ軍は攻撃開始後7日目にしてようやく擂鉢山を制圧し、山頂に到達した海兵師団兵士が付近で拾った鉄パイプを旗竿にして星条旗を掲揚した。しかしその星条旗はみすぼらしくその場面を確認した者も少なかったので、あらためて別の兵士たちによって大きな星条旗を掲揚するシーンを、従軍専属カメラマンに撮らせたものが有名な「硫黄島の星条旗」として残された。その写真をもとにして、アーリントン国立墓地の近くの「合衆国海兵隊戦争記念碑」は作成されている。
 栗林忠道陸軍中将指揮下の守備軍は、3月5日戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移したが、7日、米海兵師団は奇襲を断行し中央突破、日本軍を島の北部と東部に分断した。この日、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発する。戦訓電報は、戦況を分析し、のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送るものであるが、栗林は恩師にあたる蓮沼蕃侍従武官長にも宛てている。この電文は客観的合理的な提言であるが、参謀本部に握りつぶされることを危惧したためと言われる。
 栗林中将は無意味なバンザイ攻撃を許さず、最後まで可能な限り組織的攻撃をすべしと命じた。しかしいよいよ追い詰められると、16日栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。17日、大本営はその多大な功績を認め日本軍最年少の大将に昇進させるが、栗林は同日に、最後の総攻撃を企図し各部隊へ最後の指令を送った。
 しかし出撃の機会が見つけられず転進したのち、26日栗林大将は最後の反攻を敢行する。栗林大将以下、残された約400名の将兵はアメリカ軍陣地へ攻撃をかけたが、この最後の攻撃は決して万歳突撃ではなく、最大限の打撃をあたえる決死の夜襲であった。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は混乱に陥り、200名以上の死傷者を出したとされる。
 また、予科練育ての親とも言われた市丸利之助海軍少将は、途中から合流し総攻撃に加わったが、遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、英訳させたものとを部下とともに懐中して戦死した。米軍が将校の遺体を検査することを見越して携行したもので、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、アメリカの新聞にも掲載された。それは、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げつつ共産主義ソ連と連携する連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
 末期的な前線における栗林中将や市丸少将の冷静な論述は、国民に知らされることなく、大本営は3月21日、硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」・・・栗林や市丸の理知的な思考を、参考にさえできなかったのは誰なのか。
 日本軍には増援や救援の具体的な計画はもとよりなく、硫黄島守備兵力2万名はほぼ玉砕戦死。一方、アメリカ軍の戦死・戦傷は3万近くにおよび、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍の被害が日本軍を上回った稀有な戦いであった。また、硫黄島上陸とほぼ同時に始められた、対ドイツのノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦屈指の最激戦として米国でも認識されている。

ヤルタ会談

2020-09-17
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』 (硫黄島陥落) ○2.4 ヤルタ会談 / Fルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)。

玉砕

2020-09-16
中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決
6月15日アメリカ軍は、上陸支援艦の支援射撃の下に、島南部の海岸から上陸作戦を実行した。日本軍は奮戦したものの、その結末は悲惨なものとなった。当初、楽勝すると安閑としていた大本営は、6月17日未明の日本軍総攻撃の失敗の報に接し、あわてて増援を派遣しようとするがままならず、近海でのマリアナ沖海戦では海軍力を壊滅的に失っており、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には、サイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。
 サイパン最大の市街地ガラパンが占領されると、陸海軍合同司令部は島北部へ退却を続けつつ、7月7日をもって全軍で玉砕突撃とする事を決めた。そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決すると、残された日本兵士は、米軍が「バンザイ突撃」と名付けた白兵突撃が行われた。

山下奉文

2020-10-09
Facebook佐々木信雄さんの投稿
1942.2.15 [シンガポール] 日本軍が英領シンガポールを占領する。
 前年12月、英国への宣戦布告前にマレー作戦を開始していた日本軍は、1942年1月末には英領のマレー半島を占領、2月始めにはシンガポールを目指した。シンガポールには、大英帝国アジア支配の拠点として、東南アジア最大の植民地軍と最強といわれた要塞がおかれていた。
 前年末の「マレー沖海戦」では、英国海軍が切り札として出撃させた戦艦プリンス・オブ・ウェールズなどが撃沈されており、制海制空権は日本軍が優勢であった。さらにマレー半島を占領されてしまった英国軍は、残されたシンガポールにこもって防衛戦に徹するしかなくなっていた。兵力人員は拮抗していたが、勢いと装備にまさった日本軍は、シンガポール市街をほぼ包囲し降伏を迫った。2月15日、日本軍に最終防衛線を突破された敵将「アーサー・パーシバル」中将は、13万の残存兵と共に降伏、これは英国史上最大規模の降伏であった。
 この時、降伏交渉の席で対面したのがマレーの虎と呼ばれた猛将「山下奉文」中将であり、敵将パーシバル中将に対して、机を叩きながら「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話が報道され、一躍有名になった。実際には、通訳を交えたまどろっこしいやり取りのなか、「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という冷静に言った趣旨を、通訳がうまく伝えられないことに苛立って放った言葉であったという。
*山下/パーシバル会談 https://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI
 シンガポール占領時には「シンガポール華僑粛清事件」というものが引き起こされる。シンガポールには華僑が多く住み、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると考え、山下奉文軍司令官は、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長鈴木宗作中将、軍参謀辻政信中佐が指示し、辻参謀が作戦の監督役とされた。
 シンガポール在住の成人男子華僑は全員集められ、抗日分子かどうか選別されたが、その選別は困難なうえに期日を定められていたため、かなり雑になった。ここでも、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と檄を飛ばすなどしたため、期日に終了させるために員数合わせ的な処刑も行われたという。
 山下奉文は、その後、敗色濃厚なマニラ防衛指揮官として派遣され、終戦後、戦犯とされマニラでの軍事裁判で死刑判決を受ける。その罪状は、この「シンガポール華僑粛清事件」とマニラ市街戦中に起きた「マニラ大虐殺」の指揮官としてのもので、現地で絞首刑を執行される。シンガポールの現場で処刑をあおってまわった辻政信は、終戦時にはインドシナから中国に潜伏して、戦犯を免れた。

牟田口廉也

2020-09-18
日本の陸軍軍人。陸士22期・陸大29期。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。
自分のせいではなく、部下の無能さのせい
牟田口廉也は、終戦直前に予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に内地で敗戦を迎えた。A級戦犯に指名されるも不起訴になり、別の下級シンガポール軍事法廷に送致されて有罪とされるも、2年で釈放されている。戦後しばらくは公の場に顔を出さず反省の意を示していたが、ほとぼりが冷めると、戦時中と同様に「自分のせいではなく、部下の無能さのせい」と自説を繰り返したという。
 結果的に負け戦の将だったため、敵兵や現地住民を殺したり残虐行為をはたらく機会が少なかったのが幸いし、敵国やGHQの手で戦犯として問われた罪は軽かった。しかしながら、下級参謀だった辻正信などと同様、多数の日本人兵士を死地に追いやった罪は、ついに日本国民自身の手で問われることはなかった。
【牟田口司令官の作戦指導の実像】
牟田口司令官が考案した補給不足打開作戦は、牛・山羊などの「駄牛中隊」を編成し、必要に応じてそれを食料に転用する「ジンギスカン作戦」というものであったが、牛や山羊は急流渡河時に多くが流され、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な山地で、兵士の口に入る前にほとんどが失われた。そして人力で運ぶしかなくなった重砲・重火器は、行く手の険しい地形に阻まれるなど、前線で敵軍と向かい合う前に、ほとんどの戦闘力を消耗している始末だった。
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