兵器・武器
矢でも、鉄砲でも・・・。
戦争ということについて
2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
(大東亜戦争のイデオローグ)
『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
○1.- 「世界史的立場と日本」座談会が、「中央公論」に4回に渡って掲載され始める。
○7.- 「近代の超克」座談会が行われ、「文学界」9・10月号に参加者による論文が掲載される。
相次いで行われた雑誌主催の二つの座談会は、「大東亜戦争」の思想的基盤を提供したものとして、戦後痛烈な批判をあび、当時一級の知識人による戦争協力として言及される。「世界史的立場と日本」座談会の参加者は、京都帝大の西田幾多郎門下生で、「京都学派」に所属する高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高の哲学者及び歴史学者によって行われた。
陸軍における開戦
2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
(南方侵攻-2)
○1942.2.15 [シンガポール] 日本軍が英領シンガポールを占領する。
前年12月、英国への宣戦布告前にマレー作戦を開始していた日本軍は、1942年1月末には英領のマレー半島を占領、2月始めにはシンガポールを目指した。シンガポールには、大英帝国アジア支配の拠点として、東南アジア最大の植民地軍と最強といわれた要塞がおかれていた。
前年末の「マレー沖海戦」では、英国海軍が切り札として出撃させた戦艦プリンス・オブ・ウェールズなどが撃沈されており、制海制空権は日本軍が優勢であった。さらにマレー半島を占領されてしまった英国軍は、残されたシンガポールにこもって防衛戦に徹するしかなくなっていた。兵力人員は拮抗していたが、勢いと装備にまさった日本軍は、シンガポール市街をほぼ包囲し降伏を迫った。2月15日、日本軍に最終防衛線を突破された敵将「アーサー・パーシバル」中将は、13万の残存兵と共に降伏、これは英国史上最大規模の降伏であった。
この時、降伏交渉の席で対面したのがマレーの虎と呼ばれた猛将「山下奉文」中将であり、敵将パーシバル中将に対して、机を叩きながら「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話が報道され、一躍有名になった。実際には、通訳を交えたまどろっこしいやり取りのなか、「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という冷静に言った趣旨を、通訳がうまく伝えられないことに苛立って放った言葉であったという。
*山下/パーシバル会談 https://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI
シンガポール占領時には「シンガポール華僑粛清事件」というものが引き起こされる。シンガポールには華僑が多く住み、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると考え、山下奉文軍司令官は、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長鈴木宗作中将、軍参謀辻政信中佐が指示し、辻参謀が作戦の監督役とされた。
シンガポール在住の成人男子華僑は全員集められ、抗日分子かどうか選別されたが、その選別は困難なうえに期日を定められていたため、かなり雑になった。ここでも、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と檄を飛ばすなどしたため、期日に終了させるために員数合わせ的な処刑も行われたという。
山下奉文は、その後、敗色濃厚なマニラ防衛指揮官として派遣され、終戦後、戦犯とされマニラでの軍事裁判で死刑判決を受ける。その罪状は、この「シンガポール華僑粛清事件」とマニラ市街戦中に起きた「マニラ大虐殺」の指揮官としてのもので、現地で絞首刑を執行される。シンガポールの現場で処刑をあおってまわった辻政信は、終戦時にはインドシナから中国に潜伏して、戦犯を免れた。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎」
『Get Back! 40's / 1940年(s15)』 (日独伊三国同盟)
2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんコメント
『Get Back! 40's / 1940年(s15)』
(日独伊三国同盟)
○9.27 [ベルリン] 日独伊三国同盟が調印される。
1940年(昭和15年)9月27日、日本・ドイツ・イタリアの間で「日独伊三国間条約」が締結された。いわゆる「日独伊三国同盟」の成立であり、第二次世界大戦における枢軸国の中心軸が姿を現した。すでに1937年に「日独伊防共協定」が結ばれていたが、これは「防共」すなわちソ連共産主義の拡張を防ぐという建前であった。三国同盟では曖昧だった協力関係を明確にし、第三国からの攻撃に対しては相互に援助するという取り決めがなされた。
しかし三国間には、同盟に関する微妙な利害の食い違いが存在した。「防共協定」では、日本は満州国北方で対峙するソ連の脅威を抑止するのが狙いだったが、ドイツはソ連軍を東西に分散させ、ドイツ東部方面の脅威を削ぐ意図を持っていた。しかしその後、ドイツが一方的に「独ソ不可侵条約」を結ぶと防共協定は意味を失う。
直後にドイツがポーランド侵攻を開始し第二次大戦が勃発すると、独ソでポーランドを分割したあと、ドイツは取って返してベネルックス三国からフランス侵略を進めた。ヒットラーはさらに独ソ不可侵条約を破棄してソ連侵攻、さらには英国にまで視野を向けていた。そのためには、日本をソ連と東部で戦端を開かせ、英米とも対立して牽制させる意図があった。
日本では海軍を中心に、三国同盟に反対する意見も多かったが、ナチスドイツがフランスを陥落させると、同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍では「バスに乗り遅れるな」と南方進出の「南進論」が勢力を増していたが、それは英米との対立を深めることになり、その英米を牽制するためにも三国同盟が必要とされるようになった。
日独伊三国は、英仏など先発国に比して植民地獲得競争に出遅れており、植民地拡大に乗り出すと必然的に英仏の利益とぶつかるという共通の利害状況をもっていた。しかし枢軸3国が統一した戦略で連合国側と対抗するということなどは無く、ドイツはヨーロッパ戦線、日本は中国及び南方戦線、イタリアは地中海から北アフリカと、それぞれの利益をめざして侵攻しただけであった。
軍事・経済に劣るイタリアは早々と降伏し、ドイツはソ連と東部戦線で膠着状態となり、西部戦線に物量を誇る米が参戦すると、防御一方に追い込まれた。日本は南方戦線で英仏蘭などの一部植民地軍を一気に攻略するも、米との太平洋戦争での物量の戦いで敗色濃厚となる。日独伊が統一の戦略をもって世界戦を戦うなど、物理的に不可能な三国同盟であった。
三国同盟条約の条文そのものも、決してそのような統一戦を想定したものではなく、条約加盟国が戦闘相手国以外の第三国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じるというものであった。独ソ戦が始まった時にも、日本にはそれに参戦する義務はなく、ドイツに呼応することなく中立を保った。また、日本が真珠湾攻撃によって米と開戦した時にも、ヒトラーとムッソリーニは参戦義務がなかったが、独自の判断で米への宣戦布告をした。
その後、日独伊新軍事協定などによって同盟関係は強化されたが、合同幕僚長会議など緊密に連動戦略をとった連合国側に対し、枢軸国では戦略に対する協議はほとんど行われなかった。対ソ宣戦、対米宣戦の事前通知も行われず、とても一枚岩の同盟とは言えなかった。ヒットラーは黄色人種の日本を蔑んでおり、日本を自己の戦略に利用しようとしただけだと思われる。もとより同盟などというものは、そういう性質のものでではあるが。
*この年
工業労働力不足が深刻化する。農・商業からの転職急造/スポーツ用語の日本語化進む
【事物】アルミ貨10銭/国産カラーフィルム/愛国子供カルタ
【流行語】新体制/臣道実践/八紘一宇/一億一心/バスに乗りおくれるな
【歌】湖畔の宿(高峰三枝子)/蘇州夜曲(霧島昇・渡辺はま子)/月月火水木金金(内田栄一)
【映画】支那の夜(伏水修)/小島の春(豊田四郎)/民族の祭典(独)/駅馬車(米)
【本】織田作之助「夫婦善哉」(海風)/会津八一「鹿鳴集」/田中秀光「オリムポスの果実」
在支那全陸軍統率の支那派遣軍総司令部を設置致しました。
2020-09-12
昭和14年9月12日の本日、在支那全陸軍統率の支那派遣軍総司令部を設置致しました。
「沿革」
昭和12年7月、盧溝橋事件勃發後發生した第二次上海事変への對応として上海派遣軍が編成され、続いて盧溝橋事件への対応として支那駐屯軍が方面軍たる北支那方面軍に格上げされた。
昭和12年10月には上海への増援として第10軍が編成され杭州上陸作戰を行い、同月、上海派遣軍と第10軍の上級司令部として中支那方面軍が編成された。
昭和13年2月の南京陥落後、中支那方面軍は隷下の両軍を含めて中支那派遣軍へと再編成された。
こうして中支那派遣軍と北支那方面軍が支那大陸方面での作戰に當っていたが、昭和149月に両者を統括する「総軍(総軍の編成は日露戰争における満洲軍以来)」として大陸命362號に基づき支那派遣軍を編成した(これに伴い中支那派遣軍は廃止)。
(ウィキペディア参照。
「沿革」
昭和12年7月、盧溝橋事件勃發後發生した第二次上海事変への對応として上海派遣軍が編成され、続いて盧溝橋事件への対応として支那駐屯軍が方面軍たる北支那方面軍に格上げされた。
昭和12年10月には上海への増援として第10軍が編成され杭州上陸作戰を行い、同月、上海派遣軍と第10軍の上級司令部として中支那方面軍が編成された。
昭和13年2月の南京陥落後、中支那方面軍は隷下の両軍を含めて中支那派遣軍へと再編成された。
こうして中支那派遣軍と北支那方面軍が支那大陸方面での作戰に當っていたが、昭和149月に両者を統括する「総軍(総軍の編成は日露戰争における満洲軍以来)」として大陸命362號に基づき支那派遣軍を編成した(これに伴い中支那派遣軍は廃止)。
(ウィキペディア参照。
予科練
2020-09-07
昭和12年9月1日の本日、帝國海軍甲種飛行豫科練習生制度を創設致しました。
大日本帝國海軍における航空兵養成制度の一つ。
志願制。
“豫科練”と略称で呼ばれることが多い。
「歴史」
ー戰前ー
昭和4年12月、海軍省令により豫科練習生の制度が設けられた。
「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小學校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戰技教育が行われた。
全國からの志願者5807名から79名が合格し、昭和5年6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した(後の乙飛)。
昭和11年12月、「豫科練習生」から「飛行豫科練習生」へと改称。
昭和12年、更なる搭乗員育成の為、舊制中學校4學年1學期修了以上(昭和18年12期生より3學年修了程度と引き下げられた)の學力を有し年齢は満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行豫科練習生(甲飛)制度を設けた。
従来の練習生は乙種飛行豫科練習生(乙飛)と改められた。
甲飛の募集の際、海軍兵學校並みの待遇や進級速度が喧伝され、また甲飛の応募資格が海軍兵學校の応募資格(舊制中學校4學年修了程度)と遜色なかったために、海軍の新設航空士官學校との認識で甲飛に入隊した例も多かった。
ところが、兵學校相當の難関試験に合格し、晴れて入隊した練習生に与えられた階級は海兵團で訓練中の新兵らと同じ最下級の四等水兵で、制服も水兵服であった。
それらの低待遇に失望した生徒が、母校の中學後輩に「豫科練は目指すな」と愚痴をこぼすまで問題になった。
當初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため、昭和14年3月、豫科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移した。
翌年同基地内に新設された土浦海軍航空隊に担當が變更された。
昭和15年9月、海軍の下士官兵からの隊内選抜の制度として従来から存在した操縦練習生(操練)・偵察練習生(偵練)の制度を、豫科練習生の一種として取り込み、丙種飛行豫科練習生(丙飛)に變更した。
「教育」
教育は、普通學(12科目)・軍事學(9科目)・體育(プールでの遠泳訓練や綱引きなど10種目)の他、精神講話など多岐にわたり、當初の履修期間は2年11か月だった。
その後、履修期間は徐々に短くなり、終戰直前には1年8か月で、海軍二等飛行兵から海軍飛行兵長に昇格し終了した(乙飛、1942年以降の階級)。
甲飛の履修期間も當初の1年2か月から終戰前には6か月に短縮された。
修了後は練習航空隊で飛練教育を受け、その後実戰部隊に配備された。
一日中訓練漬けではなく、休憩や自習の時間もあった。
「分類」
甲種飛行豫科練習生(甲飛) 昭和12年發足。
乙種飛行豫科練習生(乙飛) 昭和5年發足。
丙種飛行豫科練習生(丙飛) 昭和15年發足。
操縦練習生・偵察練習生の制度に代わるもの。
特乙飛制度の新設によって廃止となった。
乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛) 昭和17年)2月發足。
特別丙種飛行豫科練習生(特丙飛) 昭和19年12月に第1期教育開始。
海軍特別志願兵の朝鮮人日本兵・臺灣人日本兵對象。
実例は1期(朝鮮出身者50人・臺灣出身者50人)のみで、鹿児島空で教育開始後、1945年6月に土浦空へ異動して教育中に終戰。
「甲飛と乙飛の對立」
甲種飛行豫科練習生制度の導入以降、両制度を甲・乙と言う優劣を表す名前に變更した為、また昇進速度の違いなどもあり、練習生間での對立が問題となった。
豫科練航空隊を増設する際、甲飛・乙飛を分離する計画もあったが、戰況の悪化によって後發航空隊による甲乙分離計画は立ち消えとなり、末期まで尾を引いた。
「その他」
豫科練を表す軍歌として『若鷲の歌』がある。
昭和17年11月からは制服を軍楽兵に範を取った「七つ釦」の制服を採用する事になった。
制服には7個のボタンが付いており、"7つボタン"と言えば豫科練を表す言葉であった。
練習生の制服には佩刀の制度はない。
豫科練出身者の顕彰と平和學習のための施設として、土浦海軍航空隊の跡地に「豫科練平和記念館」が開館している。
土門拳は海軍に訓練風景の写眞撮影を依頼され1944年の6月から一ヶ月間、甲種十三期三十一分隊と共に生活をしている。
撮影にこだわるあまり訓練を何度もやり直させるため、豫科練生らには不評だったという。
(ウィキペディア参照。)
画像は、1942年當時の豫科練生
大日本帝國海軍における航空兵養成制度の一つ。
志願制。
“豫科練”と略称で呼ばれることが多い。
「歴史」
ー戰前ー
昭和4年12月、海軍省令により豫科練習生の制度が設けられた。
「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小學校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戰技教育が行われた。
全國からの志願者5807名から79名が合格し、昭和5年6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した(後の乙飛)。
昭和11年12月、「豫科練習生」から「飛行豫科練習生」へと改称。
昭和12年、更なる搭乗員育成の為、舊制中學校4學年1學期修了以上(昭和18年12期生より3學年修了程度と引き下げられた)の學力を有し年齢は満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行豫科練習生(甲飛)制度を設けた。
従来の練習生は乙種飛行豫科練習生(乙飛)と改められた。
甲飛の募集の際、海軍兵學校並みの待遇や進級速度が喧伝され、また甲飛の応募資格が海軍兵學校の応募資格(舊制中學校4學年修了程度)と遜色なかったために、海軍の新設航空士官學校との認識で甲飛に入隊した例も多かった。
ところが、兵學校相當の難関試験に合格し、晴れて入隊した練習生に与えられた階級は海兵團で訓練中の新兵らと同じ最下級の四等水兵で、制服も水兵服であった。
それらの低待遇に失望した生徒が、母校の中學後輩に「豫科練は目指すな」と愚痴をこぼすまで問題になった。
當初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため、昭和14年3月、豫科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移した。
翌年同基地内に新設された土浦海軍航空隊に担當が變更された。
昭和15年9月、海軍の下士官兵からの隊内選抜の制度として従来から存在した操縦練習生(操練)・偵察練習生(偵練)の制度を、豫科練習生の一種として取り込み、丙種飛行豫科練習生(丙飛)に變更した。
「教育」
教育は、普通學(12科目)・軍事學(9科目)・體育(プールでの遠泳訓練や綱引きなど10種目)の他、精神講話など多岐にわたり、當初の履修期間は2年11か月だった。
その後、履修期間は徐々に短くなり、終戰直前には1年8か月で、海軍二等飛行兵から海軍飛行兵長に昇格し終了した(乙飛、1942年以降の階級)。
甲飛の履修期間も當初の1年2か月から終戰前には6か月に短縮された。
修了後は練習航空隊で飛練教育を受け、その後実戰部隊に配備された。
一日中訓練漬けではなく、休憩や自習の時間もあった。
「分類」
甲種飛行豫科練習生(甲飛) 昭和12年發足。
乙種飛行豫科練習生(乙飛) 昭和5年發足。
丙種飛行豫科練習生(丙飛) 昭和15年發足。
操縦練習生・偵察練習生の制度に代わるもの。
特乙飛制度の新設によって廃止となった。
乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛) 昭和17年)2月發足。
特別丙種飛行豫科練習生(特丙飛) 昭和19年12月に第1期教育開始。
海軍特別志願兵の朝鮮人日本兵・臺灣人日本兵對象。
実例は1期(朝鮮出身者50人・臺灣出身者50人)のみで、鹿児島空で教育開始後、1945年6月に土浦空へ異動して教育中に終戰。
「甲飛と乙飛の對立」
甲種飛行豫科練習生制度の導入以降、両制度を甲・乙と言う優劣を表す名前に變更した為、また昇進速度の違いなどもあり、練習生間での對立が問題となった。
豫科練航空隊を増設する際、甲飛・乙飛を分離する計画もあったが、戰況の悪化によって後發航空隊による甲乙分離計画は立ち消えとなり、末期まで尾を引いた。
「その他」
豫科練を表す軍歌として『若鷲の歌』がある。
昭和17年11月からは制服を軍楽兵に範を取った「七つ釦」の制服を採用する事になった。
制服には7個のボタンが付いており、"7つボタン"と言えば豫科練を表す言葉であった。
練習生の制服には佩刀の制度はない。
豫科練出身者の顕彰と平和學習のための施設として、土浦海軍航空隊の跡地に「豫科練平和記念館」が開館している。
土門拳は海軍に訓練風景の写眞撮影を依頼され1944年の6月から一ヶ月間、甲種十三期三十一分隊と共に生活をしている。
撮影にこだわるあまり訓練を何度もやり直させるため、豫科練生らには不評だったという。
(ウィキペディア参照。)
画像は、1942年當時の豫科練生
【アーカイブス 航空機編】
飛行機の時代の到来
2024-09-28
急降下爆撃機が空母を沈めたミッドウェー海戦
85機の飛行機 vs 2隻の軍艦
大日本帝国の対空戦闘
2024-11-19
【カラー化】日本海軍 雷電 防空戦闘機隊 の勇姿 厚木航空隊 昭和20(1945)年
大日本帝国の対空戦闘imperial japanese army Anti-air warfare
B-29
2024-06-05
B-29 SuperFortress Engine Start / Maintenance Check Flight
Restored B-29 takes to the air
B-29 FIFI Arrival Flight
Birth of the Boeing B-29 Superfortress - 1945
B-17
2024-06-05
Full start-up and take-off of the B-17 Sentimental Journey (Raw engine sound, no music)
B-17F「フライング·フォートレス」の内部
When a Tailgunner and Sabotage Saved a B-17
【アーカイブス 艦船編】
Sink the Bismarck!
2024-11-04
1960 Film in English Full HD, Kenneth More, Dana Wynter, Carl Möhner
The Search For the Battleship Bismarck w/Robert Ballard 2005
【戦艦大和 起工から87年】
2024-11-01
facebook NHKアーカイブスさん曰く
日本海軍が建造した世界最大の戦艦、大和。1937年に起工されました。
全長263メートル、世界最大の46センチ砲は、1発で戦艦1隻を沈める威力があるとされていました。
広島県の呉海軍工廠で造船部に配属された西畑作太郎さんは、のちに「大和」と呼ばれる戦艦の設計作業に携わりました。
「大和を設計する部屋には、囲いを設けて、その入り口に守衛が立っていました。『関係者以外は口外一切まかりならん』と。海軍工廠にとっても、どんな船を造りよるんかいう事は一切口にしてはならんと。線図というか艤装図(船の装備などの詳細を記した図面)を見るとね、今の船と全然様子が違うんで、学校で習った船の様子とちょっとかけ離れておるなという気はしておったんですがね」。
「鉄板の厚さが40ミリとか35ミリとかで、なんでこんな頑丈な船を造る必要があるんかいなとは思いましたよ。それで、昭和16年にアメリカに宣戦布告したんだという話を聞いて、あぁ、それでだな、あんなでかい船を造ったのはいうのはね。その瞬間に思い当たりましたね」。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150094_00000
呉海軍工廠で「大和」の部品製造に携わった徳川敏明さんは、製造工程が偽装されていたことを明かしています。
「船体が出来たときに、なんか船体が半分は隠されとるげないうようなやったけん、そうしたら見たいですよね。今度は。どんぐらいにやっとんだ思って。そうしたら全く上をカムフラージュしておりましたね、偽装。偽装して。ほやけん約300メートルあるんだけど、150メートルぐらいは偽装して、大和の船体じゃないようにしてこっちを造るいうような方法をとっておられましたね」。
「僕らも号艦いうのを造っているからね、僕も海軍へ出るいうことになっとると思おてから、ほいじゃけ絶対にそういう船、僕は乗せてもらいたいなと思いましたよ」。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150093_00000
1943年12月、「大和」はトラック諸島近海で魚雷を受け、西畑さんは呉のドックで復旧作業に携わります。
「もう悲惨ですよ。だってその穴から現場へ出入りしていたんでね。ですから、穴の大きさもこの部屋以上の穴が空いていましたから。『不沈戦艦、不沈戦艦』って言うのが軍人さんですよ。だって、海に浮かんでいるものが沈むのは当たり前な話でね。ですから造った人とか技術者が『不沈戦艦大和』いう言葉を使う事はないんですよ。それは沈みにくい船じゃ言うのは分かるんですがね」。
太平洋戦争末期の1945年4月、大和に特別な命令が下ります。「海上特攻隊」として沖縄に突入せよ。それは、生きて再び帰ることを望んではならない作戦でした。最後は浅瀬に乗り上げてでも、砲撃を続けるよう求められたのです。
4月6日に出撃した大和は、翌7日、鹿児島県の沖合でアメリカ軍艦載機の激しい攻撃を受けました。左舷に魚雷を集中して撃ち込まれ、決定的な打撃を受けた大和は大きく傾き、沈没しました。この時、乗り組んでいた3332人の9割以上が船と運命をともにしました。
「大和」の乗組員だった鶴谷游健さんは、「総員退去」の命令が出たときのことを、こう証言しています。
「総員退去になったら、自分ら鉄かぶと脱いですぐにもう外に飛び出られる。だけど、下におる者はばっちり上ってくるところを蓋されて閉められて、1階から下の者はもう、生きとっていたかってもう生き埋めやわな。あんなかわいそうなと思うわ。露天甲板以上はな、助かる率は多いんやけどな。ほんま生き埋めの者がほとんどやわな」。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150090_00000
「大和」の設計に携わった西畑さんは、戦後も造船関係の仕事に就きました。
「今から考えてみるとね、あぁ、私も微力ながら日本の一大プロジェクトに参加できた一員じゃったんじゃなあ思うて。誇りに思っていますよ」。
巨大戦艦 大和 ~乗組員たちが見つめた生と死~
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001230007_00000
全長263メートル、世界最大の46センチ砲は、1発で戦艦1隻を沈める威力があるとされていました。
広島県の呉海軍工廠で造船部に配属された西畑作太郎さんは、のちに「大和」と呼ばれる戦艦の設計作業に携わりました。
「大和を設計する部屋には、囲いを設けて、その入り口に守衛が立っていました。『関係者以外は口外一切まかりならん』と。海軍工廠にとっても、どんな船を造りよるんかいう事は一切口にしてはならんと。線図というか艤装図(船の装備などの詳細を記した図面)を見るとね、今の船と全然様子が違うんで、学校で習った船の様子とちょっとかけ離れておるなという気はしておったんですがね」。
「鉄板の厚さが40ミリとか35ミリとかで、なんでこんな頑丈な船を造る必要があるんかいなとは思いましたよ。それで、昭和16年にアメリカに宣戦布告したんだという話を聞いて、あぁ、それでだな、あんなでかい船を造ったのはいうのはね。その瞬間に思い当たりましたね」。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150094_00000
呉海軍工廠で「大和」の部品製造に携わった徳川敏明さんは、製造工程が偽装されていたことを明かしています。
「船体が出来たときに、なんか船体が半分は隠されとるげないうようなやったけん、そうしたら見たいですよね。今度は。どんぐらいにやっとんだ思って。そうしたら全く上をカムフラージュしておりましたね、偽装。偽装して。ほやけん約300メートルあるんだけど、150メートルぐらいは偽装して、大和の船体じゃないようにしてこっちを造るいうような方法をとっておられましたね」。
「僕らも号艦いうのを造っているからね、僕も海軍へ出るいうことになっとると思おてから、ほいじゃけ絶対にそういう船、僕は乗せてもらいたいなと思いましたよ」。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150093_00000
1943年12月、「大和」はトラック諸島近海で魚雷を受け、西畑さんは呉のドックで復旧作業に携わります。
「もう悲惨ですよ。だってその穴から現場へ出入りしていたんでね。ですから、穴の大きさもこの部屋以上の穴が空いていましたから。『不沈戦艦、不沈戦艦』って言うのが軍人さんですよ。だって、海に浮かんでいるものが沈むのは当たり前な話でね。ですから造った人とか技術者が『不沈戦艦大和』いう言葉を使う事はないんですよ。それは沈みにくい船じゃ言うのは分かるんですがね」。
太平洋戦争末期の1945年4月、大和に特別な命令が下ります。「海上特攻隊」として沖縄に突入せよ。それは、生きて再び帰ることを望んではならない作戦でした。最後は浅瀬に乗り上げてでも、砲撃を続けるよう求められたのです。
4月6日に出撃した大和は、翌7日、鹿児島県の沖合でアメリカ軍艦載機の激しい攻撃を受けました。左舷に魚雷を集中して撃ち込まれ、決定的な打撃を受けた大和は大きく傾き、沈没しました。この時、乗り組んでいた3332人の9割以上が船と運命をともにしました。
「大和」の乗組員だった鶴谷游健さんは、「総員退去」の命令が出たときのことを、こう証言しています。
「総員退去になったら、自分ら鉄かぶと脱いですぐにもう外に飛び出られる。だけど、下におる者はばっちり上ってくるところを蓋されて閉められて、1階から下の者はもう、生きとっていたかってもう生き埋めやわな。あんなかわいそうなと思うわ。露天甲板以上はな、助かる率は多いんやけどな。ほんま生き埋めの者がほとんどやわな」。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150090_00000
「大和」の設計に携わった西畑さんは、戦後も造船関係の仕事に就きました。
「今から考えてみるとね、あぁ、私も微力ながら日本の一大プロジェクトに参加できた一員じゃったんじゃなあ思うて。誇りに思っていますよ」。
巨大戦艦 大和 ~乗組員たちが見つめた生と死~
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001230007_00000
【アーカイブス】作戦の記録
[NHKスペシャル] ミッドウェー海戦を追体験する 敗軍の将・山本五十六と海に沈んだ若き命
2024-04-27
真珠湾攻撃の後、連戦連勝を重ねた日本。しかし1942年6月、ミッドウェー海戦で大敗北を喫する。空母「赤城」に乗り組んだ兵士の手記を元に、壮絶な戦いを追体験する。
[NHKスペシャル] ”玉砕”の報を受け、国民は戦い抜くことを決意した | 新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実(前編) | NHK
NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実 前編」
NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実 前編」の情報はこちら https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2Q...
戦争の時代を生きた人々の日記や手記「エゴドキュメント」から、1年ごとに歴史を追体験するシリーズ。
戦死者が増加する中、若者や子供が戦力として国家総力戦の渦に巻き込まれていく1943年を描く。
戦場では将兵たちが「愛する妻よ、さようなら」と遺書を残しアメリカ軍に突撃していく。
部隊の全滅が「玉砕」と美化される中、市民は「祖国重大な時」「あとに続け」と戦争協力を強め、十代の若者たちが兵士へと志願していく。
[NHKスペシャル] 日本兵は爆弾を抱えてアメリカ軍の戦車部隊に自爆攻撃をしかけた | 新・ドキュメント太平洋戦争 1943 国家総力戦の真実(後編) |
新・ドキュメント太平洋戦争 1943 国家総力戦の真実 後編
1943年11月、中部太平洋で、その後の戦局に大きな影響を与える戦いが起きた。
タラワの戦いといい、アメリカ人の対日観を一変させたといわれる激戦である。
また、ブーケンビル島では、連合国軍の攻撃にさらされることになった。
そして多くの人が飢えと疫病で命を失っていくことになる。
新・ドキュメント太平洋戦争は、戦争の時代を生きた人々の日記や手記「エゴドキュメント」から、1年ごとに歴史を追体験するシリーズ。
戦死者が増加する中、若者や子供が戦力として国家総力戦の渦に巻き込まれていく1943年を描く。
[NHKスペシャル] 戦局打開のため、国は少年たちに目を向けた | 新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実(後編) | NHK
NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実 後編」の情報
NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実 後編」の情報はこちら https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2Q...
80年前の1943年、敗北を重ね、戦力を消耗していった日本。
際限なき戦争動員が市民の暮らしを一変させ、戦火から遠かった若者や子どもが巻き込まれていく。
海軍は、パイロット養成機関である予科練の募集を強化。中学生ら3万人が名乗りをあげた。
ノルマに応じて、志願を呼びかけた学校。
教師や親は、苦渋の決断を迫られる。秋には、学徒出陣が決まり、大学生も学業半ばで戦場へ向かう。
その先には、過酷な運命が待っていた。
ロケーションは戦艦長門艦上
2024-05-28
トラ・トラ・トラ!(Tora! Tora! Tora!) 淵田中佐(Commander Fuchida)
【大日本帝国】
海行かば・昭和12年・映画「Tora! Tora! Tora!」から・作詞:大伴家持・作曲:信時 潔(無信託)
映画「トラ・トラ・トラ」 - オープニング
狙撃
2024-05-16
抗日映画|5000人の日本軍が総攻撃を開始するが、中国軍によって全滅した。
日本海海戦の戦艦「三笠」=“艦オタのワンダーランド” になっていた! リピーター続出 “歴史のスルメ” 的艦内!
2024-05-28
日露戦争でロシアのバルチック艦隊を旧日本海軍の連合艦隊が打ち破った日本海海戦。このとき旗艦を務めた「三笠」は、いまも横須賀市内で保存展示されています。日本海海戦記念日である5月27日を前に訪れてみました。
オタにとっては至福のひと時
横須賀に今も残る、旧日本海軍の戦艦「三笠」。実はその艦内には多くの歴史的資料が展示されており、博物館としても楽しめるようになっています。
とはいえ、建物内を歩く博物館と違い「三笠」は艦内そのものが展示物と言えるものです。かつ収蔵品や艦内模型など、歴史に関する資料もかなりの点数があるため、情報量がものすごく、見れば見るほど深みにハマっていくのが自分でもわかるほど。たとえるなら、噛めば噛むほど味が染み出るスルメのような施設なんです。なので、私も含め、リピーターが多いのも頷けます。
歴史散策:戦艦三笠とヴェルニー公園(横須賀)
Battle of Tsushima (Empire of Japan vs Russian Empire)
【TBSスパークル】1902年5月18日 軍艦三笠をイギリスから譲り受ける(明治35年)
【アーカイブス 一線を越えてしまった兵器】
特攻
2024-11-22
【100歳の元特攻隊員】裏千家15代家元・千玄室さん 茶人が伝える“平和への思い” 終戦から78年【newsおかえり特集】
【報ステ】「“平和”を使わない世界にしないと」100歳元特攻隊員からの継承(2023年8月14日)
“国家と個” 特攻隊員たちの葛藤【報道特集】
特攻
2024-11-22
【8.15 特別番組】特攻 國破れても國は滅びず[R5/8/15]
「私のこと忘れて」特攻隊員が恋人に綴った最後の手紙 消えゆく戦争の記憶どう残すか【サンデーステーション】(2024年8月14日)
特攻作戦に異議を唱えた異色の部隊とは「南九州、特攻の地から」
【特攻兵】「こんなモノで死ぬのか…」生き残った特攻隊員が語る 伏龍と震洋
特攻 歪められた戦果 ~元兵士 戦後70年の証言~
~元兵士 戦後70年の証言~
鹿児島・知覧にはかつて、特攻隊の基地があった。知覧特攻平和会館には、沖縄戦の特攻で命を落とした1036人の遺影が並べられている。昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸。知覧から連日のように特攻機が出撃した。4月22日、約50機が出撃する大規模な作戦が行われた。軍令部の記録には、海軍は2隻を撃沈、陸軍は第六航空軍が7隻、第8飛行師団が12隻に大きな損害を与えたとしるしてある。一方、アメリカ海軍作戦年誌には沖縄で特攻機によって損害を受けたのは7隻としており、日本側の記述の21とはかけ離れている。4月22日の攻撃に参加した高橋増雄さん(92歳)は知覧から沖縄に特攻機を誘導する任務を負った。特攻隊に与えられたのは、本来は作戦には使われない九九式高等練習機だった。高橋さんは特攻機を沖縄付近まで誘導して引き返した。戦果があったかは確認しなかった。 福岡に司令部があった第六航空軍。司令官・菅原道大中将は戦後、回想録に「状況が許す限り、偵察機による偵察。隊長機に無電機をつけて攻撃開始を報告させる。無線電話の傍受、米軍は電話無統制でそれを傍受した。」としるした。北島令司さんは特攻機の突入を見届けるのが任務だった。北島さんは「ほとんど敵機に突っ込む前に海に落ちた。終戦間際はほtんど成果は無かったと思う」と語った。元通信兵・岡部覺治さんは当時の通信システムを使って当時の連絡の様子を再現した。岡部覺治さんは「突入報を突入するときには押しっぱなしにする。突入したか撃ち落とされたらその連絡は途絶える。自分の命をかけて攻撃に行った。地上にいるものとすれば、戦艦をひとつやっつけたと考えたい。そう言い聞かせた」と語った。 戦果確認の3つ目の手段である米軍の無線傍受。4月22日のの特攻作戦にも記録が残されていた。「大破」など敵機を有効に攻撃していたと記されていた。通信傍受をしていた松本憲太郎さんは「一隻も沈んでない。そんなこと書いた人間いたんですね。ヒットしたけど大したことないときは、パス、過ぎたと記録した」と語った。後ろで戦果を判定していた上官がその戦果を誇張していた。 歪められた戦果は国民の士気を高めるために使われた。米軍の当時の映像資料では「日本はあらゆる種類の航空機を特攻に使い、中には訓練機もある。アメリカ海軍は作戦を遂行した特攻機はわずか1%と見積もっている」と伝えていた。航空機による特攻で4000人の若者が命を落とした。高橋増雄さんは特攻機を誘導していた。2014年、戦後初めて知覧に行き、自分が誘導した人達の遺影と向き合った。高橋さんは「今自分があるのはこの人達のためだと思った」と語った。北島令司さんは戦後同僚の遺族を訪ね歩いた。特攻機の突入を見届けるのが任務だった北島さんは「俺の息子が死んでなんでお前がこんなところに来たんだと言われて胸が締め付けられる思いでした」と語った。 2015/02/14
覚えておきたい特攻隊の話〜知覧、鹿屋、万世、南九州ミリタリーヒストリーレポート〜
731部隊の真実
2024-11-21
NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」
「標本室は目の開けられないくらい・・・」731部隊の実態、元少年兵の目に焼きついた光景【報道特集】 | TBS NEWS DIG
核爆弾
2024-05-28
カメラに映った核実験トップ10
Hiroshima – Short Film
【原爆】原子爆弾はどのような仕組みで大爆発を起こすのかゼロから解説 原爆 | 太平洋戦争 | 日本史
【核兵器/核爆弾】原子爆弾の仕組みを詳しく解説【ロシアが使いそう・・・】
ビキニ被ばく船員訴訟
2024-07-18
「核のない世界を」有志らがビキニ被ばくの本を出版
ビキニ被ばく船員訴訟について
マーシャルの報告(ビキニ被ばく船員訴訟 原告団長 下本節子さん)
ビキニ被ばく船員訴訟報告
《60年隠された「ビキニ事件」の真相とは》
「ビキニ事件」を知って…!室戸市で被ばく者が当時の状況を語る【高知】 (22/05/09 19:00)
「言葉にできんような腹立ち」水爆実験で被曝した元マグロ漁船員
「核兵器のない世界を」水爆実験で高知のカツオ漁船を含む多くの日本の漁船が被ばく “ビキニ被ばく”伝える展示