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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

D-day

2020-09-16
6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(ノルマンジー上陸作戦)
○6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。(第2戦線を構築)
 ノルマンディー上陸作戦は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に連合軍によって行われた。ドイツ占領下の北フランス海岸への上陸侵攻作戦で、正式作戦名は「ネプチューン作戦」。なお、上陸からパリ解放までの作戦全体は「オーバーロード作戦」とされ、本作戦で用いられた「D-デイ」は作戦決行日6月6日を表す。ノルマンディー上陸作戦は、ドイツに占領されたフランス側に西部戦線を構築することで、ソ連による東部戦線とともにベルリンを挟撃するという、ヨーロッパ戦線の決定的転機となった作戦であった。
 東部戦線では1943年、スターリングラード攻防戦で、ソ連軍がかろうじてドイツ軍をくい止めて反転攻勢に出るところであった。英米を主とする連合国軍は、フランスが占領されて消滅していた西部戦線を再構築して、東西からドイツを挟撃する必要に迫られていた。パリを奪回するには、イギリスから北フランスに上陸作戦をとるしかなく、多大な犠牲をともなうこの作戦は、何度も計画されたが実行する機が熟せず、いよいよソ連軍が反抗攻勢に出るこの機会を逃すわけにはいかなかった。
 英国からドーバー海峡をはさんで対岸のカレーは、最短距離でもっとも予想される上陸地点であった。独軍も諜報をめぐらせ、時期が迫った上陸作戦地点を必死で探っており、連合国はカレーを思わせるような偽装作戦を仕掛けていた。ヒトラーは連合軍フランス侵攻が迫っていると考え、北アフリカ戦線で戦車隊を指揮し「砂漠の狐」と恐れられたエルヴィン・ロンメル陸軍元帥を、フランス北部防御部隊の司令官に任命した。
 国防軍最高司令部は上陸先をカレーと考えたため、ロンメルが連合軍が上陸すると想定していたノルマンジー海岸の防備は遅れていた。ロンメルは、連合軍の圧倒的な航空勢力のもとでは内陸での機動部隊の展開は不利と考え、水際で徹底的に殲滅することが必須と考えていた。しかし西方総軍総司令官ルントシュテットは、連合軍を上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。結果、折衷案で海岸線と内陸部に機甲師団を均等に配置されることになった。
 計画通り「D-Day」の1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行される。雨季に上陸する可能性は低いと考えられていたため、ロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っていた。このためロンメルは軍団を指揮することが出来ず、ロンメルが危惧した連合軍の制空権下で、ルントシュテット作戦下の内陸部の装甲師団の行動は制約され、有効な反撃が出来なかった。
 連合国の上陸作戦大軍は、イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、ユタ・オマハ・ゴールド・ジュノー・ソードの上陸海岸ごとに5つの管区に分けられており、航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、水陸両用戦車を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられていた。そして1944年6月6日、5つの管区で一斉に上陸を開始し、オマハ以外では犠牲を少数にとどめ上陸を果たした。
 米第1歩兵師団が担当したオマハ・ビーチにおいては、最悪の苦難を経験した。いくつかの予想外の出来事とともに、ドイツ側の守備隊は予想された二線級の歩兵師団ではなく、東部戦線で激戦の経験を持つ第352歩兵師団が、事前にロンメルにより移動配置されていた。上陸部隊の第一波は独軍守備隊の抵抗で海岸へ釘付けとなり、そこへ第二波以降の部隊が次々に詰め掛け、海岸線はパニックに陥った。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50%だったとされ、「ブラディ(血まみれの)オマハ」と呼ばれる惨状であった。
 ノルマンジー上陸作戦の成功は、言うまでもなくヨーロッパ戦線の帰趨を定める大作戦であった。ナチスドイツは、東西からの挟撃を受け、翌年5月に無条件降伏する。この作戦は、映画・テレビなどで何度も取上げられている。
*『史上最大の作戦』(The longest day/1962/米映画):ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム、ヘンリー・フォンダなど英米独の豪華キャストによる超大作。 https://www.youtube.com/watch?v=Aar1gnR498g
*『プライベート・ライアン』(Saving Private Ryan/1998/米映画):監督スティーヴン・スピルバーグ、主演トム・ハンクスで、ノルマンディー上陸作戦を舞台に、一人の兵士「ライアン」の救出に向かう兵隊たちのストーリー。救出されるライアンはマット・デイモン。 
*『バンド・オブ・ブラザース』(Band of Brothers/2001/米):スティーヴン・スピルバーグ、トム・ハンクスによるテレビ・ノンフィクションシリーズ。 https://www.youtube.com/watch?v=CQs2Y9nQH2s
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

最低・最悪の作戦、インパール作戦

2020-09-14
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(インパール作戦) 
○3.8 [インド・ミャンマー] ビルマ(ミャンマー)の日本軍がインパール作戦を開始する。
○7.2 [インド・ミャンマー] 大本営がインパール作戦の中止を命令する。
 1944年(昭和19年)3月、日本軍は、インド北東部の都市インパールを攻略する作戦を開始した。連合軍の反攻の食い止めを目指し、中国国民党政府への援助(援蒋ルート)の遮断を戦略目的とした。しかし、補給線を軽視した杜撰な作戦により多くの犠牲を出し、無謀な作戦の代名詞ともなっている。
 「牟田口廉也」中将を総司令官とし、第15軍隷下3個師団を主力とする日本軍は、補給増援がままならない中で作戦を開始するが、ビルマ・インド国境間には100km以上にわたって、ジャングル・2000m級の山地・数本の急流が横たわっていた。1個師団がインパール北方のコヒマを目指し、残り2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。
 牟田口司令官が考案した補給不足打開作戦は、牛・山羊などの「駄牛中隊」を編成し、必要に応じてそれを食料に転用する「ジンギスカン作戦」というものであったが、牛や山羊は急流渡河時に多くが流され、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な山地で、兵士の口に入る前にほとんどが失われた。そして人力で運ぶしかなくなった重砲・重火器は、行く手の険しい地形に阻まれるなど、前線で敵軍と向かい合う前に、ほとんどの戦闘力を消耗している始末だった。
 迎え撃つイギリス軍が採用した円筒陣地は、外周を重火器で防備し、包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支える態勢で、頑強な防備をほこった。最前線の日本兵は、空腹のうえ軽装備だったためまったく歯が立たず、これを「蜂の巣陣地」と呼んだ。さらに、飢えた日本兵は、敵軍輸送機の投下した食糧物資を奪うための決死隊を組み、これで飢えをしのいで「チャーチル給与」と呼ぶありさまだった。
 インパール作戦は、当初から無謀な作戦であるとの反対が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められとされる。司令部に要請した支援もなく、前線部隊の自壊の危機に瀕した第31師団長佐藤幸徳陸軍中将は、後方司令部で作戦継続を厳命する牟田口司令官の命令を拒否、独断で撤退する。この抗命事件は牟田口の逆鱗に触れ、佐藤師団長を更迭する。同様に他の2師団長も更迭、主力3師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った。
 7月3日、やっとのことで作戦中止命令が下されたが、投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していたという。もはや撤退戦を維持する戦闘戦力もなく、事実上の壊走だった。退却路は戦線以上に悲惨であった。日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患し、次々と脱落してゆき放置された。延々と続く友軍の腐乱死体や白骨が横たわる退路を、日本兵は「白骨街道」などと呼んだという。
 インパール作戦の失敗後、日本陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した。しかし軍法会議で責任を追及し事態を解明することなく、多くは予備役投入などでお茶を濁した。責を問う軍法会議が開催した場合、インパール作戦失敗の要因が明らかにされ、その責任追及が軍中枢に及ぶことを回避したためとも言われる。まさに『失敗の本質』が解明されることなく、同じ失敗が繰り返される構造を示したものとなった。
 牟田口廉也は、終戦直前に予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に内地で敗戦を迎えた。A級戦犯に指名されるも不起訴になり、別の下級シンガポール軍事法廷に送致されて有罪とされるも、2年で釈放されている。戦後しばらくは公の場に顔を出さず反省の意を示していたが、ほとぼりが冷めると、戦時中と同様に「自分のせいではなく、部下の無能さのせい」と自説を繰り返したという。
 結果的に負け戦の将だったため、敵兵や現地住民を殺したり残虐行為をはたらく機会が少なかったのが幸いし、敵国やGHQの手で戦犯として問われた罪は軽かった。しかしながら、下級参謀だった辻正信などと同様、多数の日本人兵士を死地に追いやった罪は、ついに日本国民自身の手で問われることはなかった。
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

レイテの闘い

2020-09-16
帝国剣豪艦隊は壊滅、特攻が始まりました。
Facebook佐々木信雄さんのコメントです。
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(レイテ沖海戦)
○10.20 [フィリピン] 米軍4個師団がレイテ島に上陸。24日レイテ沖海戦が始まり、25日に日本の連合艦隊は壊滅状態に陥る。
 「レイテ島の戦い」は、1944年(昭和19年)10月20日から戦われたフィリピン・レイテ島での攻防で、日本軍守備隊とアメリカ上陸部隊の激しい地上戦となった。10月20日、連合軍はレイテ島上陸に着手、20万以上の陸上部隊が投入され、数千の航空機と海上からは艦隊による火力がこれを支援した。
 フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官に着任後間もない山下奉文大将は、マニラのある比国の中心ルソン島に主力を集中した戦闘を考えていたが、大本営は連合軍が襲ったレイテ島に主力を移動して迎え撃つ命令を出した。同時に大本営は「捷号(しょうごう)作戦」を発動して、日本海軍が残存軍艦の総力をあげた艦隊を派遣し、アメリカ側も太平洋に展開する大半の軍事力を投じため、10月23日から25日にかけて、史上最大の海戦と言われる「レイテ沖海戦」が戦われた。
 日本海軍はマリアナ沖海戦で空母部隊が壊滅していたが、戦艦大和、武蔵という超巨大戦艦姉妹艦を投入して背水の陣をしき、はじめて神風特別攻撃隊による攻撃を行うなど総力を投入したが、武蔵が撃沈されるなど多大な艦隊戦力を失い、この海戦での敗北を最後に日本軍艦隊は事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。
 その直前の台湾沖航空戦やレイテ沖海戦では、現地からの大戦果の誤報や過大報告が相次ぎ、それを信じた大本営は戦況を読み誤った。フィリピン現地の山下大将の状況把握を無視して、レイテ島への主力陸上部隊の移転を命じたが、移送中に大損害を受け補給もままならず、戦闘以前に溺死餓死などで多くの死者を出すことになった。約2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。そしてこのレイテ島戦は、翌年8月の終戦まで続く「フィリピンの戦い」の大方の帰趨を決する戦闘となった。
 南西太平洋方面の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、フィリピンの奪回作戦に執念をもやした。なにより、フィリピンを支配する在マニラ・アメリカ極東陸軍の司令官であったとき、日本軍に追い詰められ豪州に脱出、" I shall return " と負け惜しみを言うしかない屈辱を味わった地である。さらに事実上のフィリピン総督として、農園を持つなど個人的に多くの資産を形成していた。
 アメリカ参謀本部では、フィリピンを飛ばして台湾や沖縄に侵攻する案が強く、フィリピン奪還は戦略上必要なしとの判断であった。しかしマッカーサーは、「フィリピン国民との約束」の履行を理由に、フィリピン作戦を強引に主張した。マッカーサーは、フィリピンからの「敵前逃亡」("I shall return"は兵士間ではこの意味だった)を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復という、個人的な理由を優先させた。
 また、ルーズベルト(民主党)は大統領選を控えており、国民的人気のマッカーサー(共和党)が対抗馬になるのを恐れて、マッカーサーに手柄を立てさせないように仕組んできていたが、彼が大統領選に出る気がないという言動をしたため、その要求をしぶしぶ呑んだとも言われている。膝まで海に浸かってレイテ上陸を果たすマッカーサーの写真は有名だが、実際の場にカメラマンが居ず、あらためて場を設定して撮り直させたものだという(笑)
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

(太平洋戦局の転換)

2020-09-07
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『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
(太平洋戦局の転換)
○5.7 [南部太平洋] ニューギニア珊瑚海海戦
○6.5 [中部太平洋] ミッドウェー海戦
○8.7 [南部太平洋] ソロモン海戦・ガダルカナル島の戦い
 1942年5月8日、ニューギニア東南海域の珊瑚海で、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合国軍の空母部隊が交戦し、史上初の航空母艦同士の決戦となった。この海戦は空母艦載機による戦いとなり、両艦隊は互いに相手の艦を視界内に入れないで行われた史上最初の海戦でもあった。
 双方の損害はともに、空母1隻沈没・1隻大破でぼぼ対等であったが、総合戦力の劣る日本軍には相対的に大きなダメージであり、目標としたニューギニアの拠点ポートモレスビーの攻略作戦に海軍の支援が不可能になった。開戦以来連戦連勝を続けた日本軍は、この海戦で初めて進攻を阻まれる。
 珊瑚海海戦の海軍は、陸軍のポートモレスビー攻略作戦の補助の役割であり、しかも枝葉とされた第五航空戦隊が珊瑚海海戦で健闘したことは、むしろ真珠湾攻撃以来、一方的な勝利を収めてきた主力機動部隊である第一航空艦隊の第一、第二航空戦隊にとっては自信を深めさせた。しかも陸軍は中国大陸を最重要視し、しかもニューギニアでも無謀な陸路攻略戦で難航していた。
 そこで、陸軍の協力を宛にしないでできる海軍独自の作戦として、海軍はハワイに近い中部太平洋のミッドウェー島攻略作戦に全力を集中する作戦を立てた。連合艦隊司令長官山本五十六は、真珠湾奇襲で米の戦意をそぎ早期和平に持ち込む計画であったが、意図どおりには進まず、米海軍力の回復をおそれた。そこで海軍主力を集中して、ハワイ攻略作戦を大前提として、その布石でハワイの一歩手前にあるミッドウェー島攻略を企図した。
 ミッドウェーはアウェーの戦いであり、長期戦をさけ、米主力艦隊の空母機動部隊を誘い出して殲滅する作戦であった。ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の1942年6月5日から7日にかけて、ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で戦われた。日本海軍の機動部隊と米国の機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失うことになる。
 本来、大本営の軍令部は、ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア・フィジー・サモアの攻略作戦(FS作戦)によって、アメリカとオーストリアの分断を考えていたが、海軍連合艦隊の早期決着のミッドウェー作戦に折れた形になった。だが、そのミッドウェーの大敗北により、海軍力の大打撃でFS作戦は中止となった。
 しかし日本軍は、ラバウル以南に前身航空基地を創設して米豪分断をめざし、ガダルカナル島に飛行場を建設してソロモン海域の制空権を確保しようと考えた。一方、アメリカ軍統合参謀本部はミッドウェーの勝利を踏まえて、第1段対日反抗作戦「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」を開始し、日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島攻略でその戦端をきった。
 8月7日、米海兵隊を主力とし豪軍の支援を受けた海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下で上陸を開始し、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。奇襲を知った日本海軍は、援軍の艦隊を送り、数次にわたつて「ソロモン海戦」が戦われるとともに、陸上では半年にわたる壮絶な消耗戦が行われた。最終的に12月31日の御前会議において撤退が決定されたにもかかわらず、さらに1ヶ月を経た1943年2月1日からやっと撤退作戦が行われた。
 いわゆる「大本営発表」という粉飾戦果は、初めての劣勢戦闘となった珊瑚海海戦に始まり、大敗ごとに誇大になってゆき、このときのガダルカナル撤退では「転進」と公表された。転進とされたものの、大半の兵士は南方戦線に残されたままで、ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、戦後の1947年であったという。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎

提督死す!

2020-09-08
前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。
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『Get Back! 40's / 1943年(s18)』
(山本五十六司令長官 戦死)
○4.18 [南部太平洋] 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で、搭乗機が撃墜され戦死する。
 ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、3月中旬、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨げるべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第三艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し敵の戦線を攪乱させるという目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。4月18日、ブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。
 山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して一カ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之(阿川佐和子の父親)などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
*この年
種々の替え歌流行(見よ東條のハゲアタマ〜)/決戦料理の名のもとに野草の食用が推奨される
【事物】いも駅弁・いもパン/硫黄マッチ/貯蓄券/酒場・ビヤホールに順番券
【流行語】転進/元帥の仇は増産で/玉砕
【歌】加藤隼戦闘隊(灰田勝彦)/お使いは自転車に乗って(轟夕起子)/勘太郎月夜唄(小畑実・藤原亮子)
【映画】姿三四郎(黒沢明)/無法松の一生(稲垣浩)/花咲く港(木下恵介)
【本】島崎藤村「東方の門」(中央公論)/山本周五郎「日本婦道
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