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兵器・武器

闘いの転機(戦いの前と後)

万年二位の果ては・・・。

2020-11-12
ひたすら「護憲と反安保」を掲げ続けた日本社会党は、まもなく、旗終い・・・か?

スターリン批判の余波

2020-11-12
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1956年(s31)】

◎フルシチョフがスターリン批判

*1956.2.24/ ソ連共産党第20回大会秘密会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判の演説をする。

 1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第20回大会において、非公開の会議とはしたが、スターリン批判の演説を行い世界を驚かせた。スターリン(53年死去)の死後も伏せられてきたスターリンの個人崇拝、独裁政治、粛清の事実が公表され、それまでの公式見解であった戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は不可避)を批判、西側との平和共存路線への転換や、平和的社会主義への移行の可能性に言及し、従来のスターリン体制からの大きな転換を表明した。

 

 ソ連におけるスターリン批判は、東側社会主義陣営にも大きな波紋を及ぼした。東ヨーロッパ社会主義国では、スターリン体制に対する反発から自由化要求の運動が強まった。6月にはポーランドで「ポズナニ暴動」が起こった。ソ連の軍事介入が懸念されたが、直前に政府軍が鎮圧し自主的な事態収拾となった。その結果、一部分権化され経済改革が施されたが、本格的な自由化は認められなかった。

 

 10月には、ハンガリーで市民が政府に対して蜂起、政府関係施設や区域を占拠し、自からの政策や方針を実施しはじめて市民自治の様相を呈した。ソ連軍は2度にわたって介入、戦車部隊によって鎮圧し、親ソ政府を樹立して改革を停止させた。スターリン批判にもかかわらず、ソ連共産党は決して東欧衛星諸国の自主化・自由化は許さなかった。

 

 一方で、スターリン批判は中国との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント・雪どけ)路線を、毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、中ソ関係は急速に悪化した。金日成の北朝鮮も、中国と同様に修正主義として強く批判した。毛沢東、金日成ともに、自らの「スターリン型独裁支配」体制を脅かされることを懸念したことは言うまでもない。

 

 日本においては、前衛党主導・世界永続革命論を唱えるトロツキストたちが刺激を受け、60年・70年安保へと向かう過程で、学生を中心として「新左翼=前衛党の結成」へと突き進んだ。

 

 1961年には2度目のフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去、燃やされた。さらに、スターリングラードをはじめスターリンの名を冠された都市や地名は改名され、スターリンの巨大な銅像は撤去され、徹底的な「非スターリン化」が行われた。スターリン神話は徹底的に破壊されたとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視する恐怖支配や政治的弾圧の構図は、のちのソ連崩壊まで変わることはなかった。

 

 1997年のモスクワ放送は、『10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6200万人が殺害され、そのうち、4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1260万の命を奪った』と放送したとされる。

 

(この年の出来事)

*1956.1.31/ イタリアのコルチナダンペッツォで開かれた第7回冬季オリンピックで、猪谷千春が日本人初のメダル(男子回転・銀)を獲得する。

*1956.5.9/ 日本登山隊が、ヒマラヤの未踏峰マナスルの初登頂に成功する。

*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。

*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)

*1956.11.22/ オーストラリアのメルボルンで、第16回オリンピックが開催され、日本選手は117人が参加、4種目で金メダルを獲得する。

*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。

再軍備

2020-11-10
Facebook佐々木信雄さんの投稿
 
【20th Century Chronicle 1954年(s29)】
◎陸海空自衛隊 発足
*1954.6.9/ 防衛庁設置法と自衛隊法(防衛2法)が公布され、7月1日、陸海空の自衛隊が発足する。
 日本を占領した連合国軍は、当初日本の軍事力を完全に無力化する予定であった。しかしソ連が核保有国となり冷戦構造が顕著になるとともに、大陸では中国人民共和国が成立し、さらに1950(s25)年に朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発すると、全く状況が変わってきた。日本に駐留の米軍は、その主力を朝鮮半島に向けざるを得ず、空白となる日本の治安維持は、日本自体が担う必要に迫られ「警察予備隊」を組織させた。
 1951(s26)年、サンフランシスコ講和条約が成立すると、同時に(旧)日米安全保障条約も締結される。これは、占領軍が撤退すると同時に、米軍の継続駐留や基地の存続を認め、日本の防衛は日本自身が主体となり、米軍はこれを援助するというものであった。その趣旨を明確にするために翌1952年、警察予備隊は「保安隊」と改組された。
 1954(s29)年、安保条約を具体的に補完するため「日米相互防衛援助協定(MDA)」が結ばれ、米国は日本に駐留するとともに日本に軍事支援を与え、その支援を受けて、日本は自国の防衛のために軍備を整えることが義務付けられた。これにより日本は、防衛の目的に限り再軍備する事を認められ、それに対応して保安隊は「自衛隊」と改組され、事実上の自国防衛軍となった。
 とはいえ自衛隊は、設立当初から現在に至るまで、論議の的になり続けてきた。詳細には立ち入らないが、憲法九条との関係で、自衛隊は軍隊であるとかないとか、無意味な空論が続けられてきた。自衛隊は名実ともに自衛軍であり軍隊である。問題は、それが憲法で認められ得る軍隊なのかどうか。もし認められないなら、憲法を変更するかどうか、それだけの問題だろう。
 とここまで書いて、50年前の高校生の時に、こっそりローカル新聞に投稿した内容と全く同じなのに気付いた。クラスの女子に気付かれて恥ずかしい思いをしたが、とにかく50年間自分の見解が変わっていないことよりも、50年間政治状況が全く変わっていないことの方に驚かされた(笑)
(この年の出来事)
*1954.2.1/ 女優マリリン・モンローが、夫のMLB野球選手ジョー・ディマジオと新婚旅行で来日する。
*1954.1.2/ 皇居の一般参賀で、二重橋上で群衆が折り重なって倒れ、16人が死亡、65人が重軽傷を負う。(二重橋事故)
*1954.4.21/ 犬養健法相が、検事総長へ指揮権を発動して、造船汚職容疑の佐藤栄作自由党幹事長への逮捕請求を阻止する。
*1954.11.24/ 自由党分派・改進党・日本自由党の3党合同によって「日本民主党」が結成される。(総裁鳩山一郎)
*1954.12.6/ 左右社会党など野党共同で吉田内閣不信任案を提出、7日、吉田内閣が総辞職して長期政権に幕。10日、鳩山一郎内閣が成立する。
*1954.-.-/ 電気洗濯機・電気冷蔵庫・電気掃除機が「三種の神器」と呼ばれる。のち掃除機に代わってテレビジョンが加えられる。

人間魚雷 回天

2020-11-09
昭和19年11月8日の本日、人間魚雷「回天」第一陣の菊水隊仁科関夫少佐以下、徳山湾大津島よりウルシー、帛琉海域へ初の水中特攻出撃致しました。
昭和19年8月15日、大森仙太郎特攻部長は「この兵器(回天)を使用するべきか否かを、判断する時期だ」と發言、明治維新の船名からこの兵器を「回天」と命名した。
そして同年9月1日、山口縣大津島に黒木・仁科と板倉光馬少佐が中心となって「回天」基地が開設され、全國から志願で集まった搭乗員で9月5日から本格的な訓練が開始された。
これが、「回天」特攻の始まりである。
しかし、9月7日早朝に黒木が殉職すると、仁科を含めた搭乗員は「黒木に続け」と言わんばかりに、昼の猛訓練と夜の研究會で操縦技術の習得に努め、技術を習得できた者から順次出撃していくこととなった。
同年10月下旬、豊田副武聯合艦隊司令長官から「回天」による特攻作戰命令「玄作戰」が發令され、特別攻撃隊は「菊水隊」と命名された。
仁科も創案者の一人として菊水隊員に選ばれ、黒木の遺志を継ぐために出撃直前まで熱心に「回天」の研究・改良に務めていた。
同年11月8日に、仁科は菊水隊(母潜「伊-47」)として黒木の遺骨を持ってウルシー環礁へ向けて出發、同年11月20日午前3時50分に發進し、午前5時過ぎに黒木の遺骨を抱いたまま米油漕艦「ミシシネワ」へ特攻・戰死した。
21歳没。
「ミシシネワ」は當時の最新鋭大型タンカーで、亜米利加側の戰死者は63名だった。
(ウィキペディア参照。)
画像は、回天特攻によって横転したミシシネワ。
潜水艦の甲板上に搭載された回天。

所謂戦後処理の総括

2020-11-01
結審いたしました。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1946年(s21)】
◎極東国際軍事裁判
*1946.5.3/ 極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷される。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)は、日本が降伏した後の1946(昭21)年5月3日から1948(昭23)年11月12日にかけて行われた。裁判の被告は、「平和に対する罪」(A級犯罪)、「人道に対する罪」(C級犯罪)および「通常の戦争犯罪」(B級犯罪)という3つの容疑に分類され裁かれた。B級・C級の被告などは、多くは戦争現地で開廷された不備な軍事裁判で裁かれたが、東京裁判ではもっとも重要とされたA級戦犯28名が起訴された。逮捕出頭前に自殺したものが5名おり、起訴された者のうち、大川周明は精神障害で訴追免除、永野修身と松岡洋右は判決前に病死したため、25名が被告として判決を受けた。
東条英機の頭をはたく大川周明 https://www.youtube.com/watch?v=hwaEgrfEcsI
 1948(昭23)年11月に下された判決は、死刑7名(東條英機/板垣征四郎/松井石根/土肥原賢二/木村兵太郎/廣田弘穀/武藤章)、終身刑16名、有期禁固刑2名であり、同12月23日、7名の絞首刑は執行された。なお収監されていた受刑者は、獄中死亡者をのぞいて、1956(昭31)年3月末時点ですべて仮釈放されている。
 石原莞爾のように戦犯指名を免れた者や、岸信介のように戦犯指名されながら不起訴となったもの、また本来は軍国主義者でなかった文民の広田弘毅のように、首相として軍国主義者に流されたとして死刑に処された者もいる。東京裁判を、戦勝国による戦敗国を裁いたものだとか、「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するとか、裁判としての不備を指摘されるのはもっともである。しかし、あくまで「軍事裁判」であり、あまりにも不当な戦争の事後処理として、裁判の不当性は、戦争自体のはらむ不当性に起因するものとしての必要悪だとも考えられる。正当な戦後処理裁判など、かつて一度もなかったし、当然と言えば当然でもある。
 私事だが子供の頃の実家には、何か漢語が書かれた額が掲げてあった。本文は読めなかったが、「畑俊六」という署名落款があったのだけは鮮明に憶えている。家族の誰もがその謂れも人物も知らず、奥の間の飾りとして掲げてあった。父親が、友人の古道具屋の片隅に無造作に転がしてあったものを、ただでもらってきて掲げただけだという。のちになってから、畑俊六がA級戦犯として、東京裁判で無期懲役刑の判決を受けた人物だと知った。戦前戦中ならばそれなりの価値のある揮毫であっただろうと思うと、なぜかその額をいとおしく思ったものである。
 
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