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ヨキヒトの仰せ

ヨキヒトの仰せ【文字データ編】

西行で死ぬか、親鸞で生ききるか。それが問題だ。宗教学者・山折哲雄さんの終わり方

2023-02-21
2019.05.12 構成/岡見理沙 撮影/大岡敦

日本人の宗教観から日本文化まで、幅広い研究で知られる宗教学者の山折哲雄さん。
若い頃からさまざまな病を経験しながらも、87歳を迎えた今年、死生観についての考えを『ひとりの覚悟』(ポプラ社)にまとめました。
そんな山折さんに、「自らの終わり方」について、なかまぁるの冨岡史穂編集長がインタビューしました。

「私たちの使命」

2023-02-05
facebook 東本願寺 同朋会館(真宗大谷派 研修部)さん曰く
1/21〜23の日程で、九州教区の駐在教導さんと教化相談員さんが奉仕団として来館されました。
同朋会運動について語り合い、「私たちの使命」を作成し、夜遅くまで話し合っておられる姿には熱いものを感じました。
写真は、解散式に東講堂において、ご本尊の前で宣誓されているご様子です。筆者も皆様を迎える一人として、熱い促しを頂いたように感じております。
2泊3日ありがとうございました。

※本文章は、参加者からの了承を得て掲載しております。 

「法蔵菩薩は我々の代表者か、仏の代表者か?」(曽我量深師)

2023-02-03
facebook宮岳文隆さん曰く
「法蔵菩薩は我々の代表者か、仏の代表者か?」(曽我量深師)
「法蔵菩薩は我々の代表者か、仏の代表者か、普通は仏の代表者と云われて来たが決してそうではない。助ける方の代表者は単なる助ける方の代表者ではない。
 第十八願に十方衆生とあるが、その十方衆生の中に阿弥陀仏が居るか居ないかが第十八願の問題である。助ける方に属する仏が、助かる方に属する筈はないというのは単純な見解である。一体之を助けるには助かる身になってみねばならぬ。助かる身の中に助ける人を見るのである。
 真実助かる身になって助ける本願が成就されるのである。第十八願の十方衆生とは『我々十方衆生』といふのである。衆生の悩みを我が悩みとして衆生と同じ悩みを持つ。(中略)『成唯識論』の中に『摂して自体と為して安危を共同(ぐどう)す』とある。即ち衆生をあまねく摂して自らの体とする。法蔵菩薩は一切衆生を自己におさめて自らの体とするのである。安危は生死であり、苦楽である。死ぬも生きるも衆生と共にする。自分一人悟りを開こうとするのではなく衆生と共に悟りを開こう――これが法蔵魂である。(中略)法蔵菩薩は助ける仏の代表者と一応解釈されるが更に深く掘り下げると我等一切衆生の代表者である。助ける仏の代表者は救いを求める我等衆生の代表者でなければならぬ。」(『曽我量深講義集』第2巻22頁より)
■「摂して自体と為して安危を共同(ぐどう)する」すなわち「あなたが喜べば私もいっしょに喜び、あなたが地獄に落ちれば私もいっしょに地獄に落ち、どこまでも未来永劫あなたと運命を共にするよ」と呼びかけてくださるのが法蔵菩薩です。これは「タスケテ」としての法蔵菩薩の声です。しかしそれだけにとどまらず、その声に感動して地獄を恐れる私を破って「地獄におちてもさらに後悔すべからずそうろう」と立ち上がってくださるのもまた法蔵菩薩です。これは「タスカリテ」としての法蔵菩薩です。法蔵菩薩は、「タスケテ」にとどまらず「タスカリテ」にまでなって私の中から発起してくださるのです。これを如来回向の信心というのでしょう。そこから新しい生活が始まると。

如来大悲の恩徳に報いるということ

2023-01-30
facebook 鈴木 君代さん曰く
如来大悲の恩徳に報いるということ
「如来大悲の恩徳に報いるために、この職を拝命いたします。」これは、4年前、東本願寺の教学研究所長に任命された蓑輪秀邦先生が、その職を受けられるとき、当時の安原宗務総長の思いに応えておっしゃった言葉です。
「如来大悲の恩徳に報いるために」というドラマチックにも聞こえる宣言の背景には、深い理由がありました。五十年前、蓑輪所長は、京都大学哲学科を卒業された後、教学研究所に研究員として奉職されたのです。そこで平野修先生、宮城顗先生というよき師、よき友と呼べるような方々に出会われました。中でも特に、当時教学研究所長であった蓬茨祖運先生を通して親鸞聖人の教えと出遇われたのです。「仏法を聞くということは、自分のなかに巣食っている傲慢性に気がつくと同時に、他の人びとを仰ぎ見ていくという道に立つということだ」と、後年蓑輪先生御自身が同じ教学研究所長の職に就かれてからも、折に触れてお話されました。そのように自らの体験を語りながら、「よきひと」に出遇うということが、真宗の教えに生きたいと願うものにとって、どれほど大切なことなのかということを教えてくださいました。
 私が蓑輪所長と実際にお会いしたのは、十五年前、大谷祖廟で納骨の受付をしていたときでした。私は先生のお顔は存じていましたから、声をかけられた時には本当に驚きました。さらにそのときの会話の内容は一生忘れられないものでした。先生は、受付に立っていた私の名札をご覧になって、「あなたは鈴木さんといわれるのですか?」と聞かれました。私が頷くと、「出身はどちらですか?」と聞かれ、「京都です」と私が答えると、かなり驚かれて、「京都生まれで、名前が鈴木さんなのですか。実は、私の妻も旧姓は鈴木で、出身は京都なんです。あなたは妻に本当によく似ています」と言われたのでした。
 私は先生に「お連れ合いはどちらにおられますか?」とお聞きしたところ、「今日は、親鸞聖人の御廟所である大谷祖廟に妻の納骨に来たのです」と言われ、白い遺骨の箱を受付に差し出されたのでした。私にとって、それが蓑輪所長との忘れることのできない最初の出会いだったのです。
 ちょうどその頃、私は、親鸞聖人が「愚禿鸞」と名告られるくらい尊敬しておられた曇鸞大師の『浄土論註』を学びたいと富山や新潟で開催されていた学習会に通っていました。『浄土論註』は、印度の龍樹菩薩から天親菩薩へと伝えられてきた念仏による救済の道を、如来の本願力回向による他力易行道として仏教史上にはじめて位置づけられた書です。私は、『浄土論註』をとおして、現実問題のただ中に仏法の課題があるということを見つけたいと思っていました。
 そのときの学習用テキストが東本願寺出版部から発行されている『解読浄土論註』でした。その本を編纂された方が蓑輪秀邦先生で、福井県の仁愛女子短期大学の教授として、私の大切な友人が御指導いただいていたのです。
 その不可思議な出会いから、六年後、私は蓑輪先生と高倉会館で開催された各教区教学研究機関の交流会で再会させてもらいました。先生は福井教区の教学研究所長として来られていて、私はその事務担当者でした。
 休憩時間に、私の方に満面の笑みで来られた先生は、開口一番、「あなたの名前は鈴木さんといわれるのですか?」と六年前と全く同じように話しかけて来られました。次の言葉の前に、すぐさま私は、「私は、先生の奥さまに似ているのですよね?」とお答えしました。どうして知っているのかというような表情をされた先生に、大谷祖廟にお連れ合いの納骨をされたとき、お会いして同じ会話をさせていただいたことをお話したのです。
 私と交わしたあの会話すべてを忘れておられる先生に、かなり驚きましたが、それからは、私のことをしっかり覚えてくださるようになりました。年月を経て忘れてしまわれても、また私の姿をご覧になって、同じことを言われるくらい、亡くなられたお連れ合いに似ているということに不思議な縁を感じました。そしてその再会から二年後、東本願寺の教学研究所長になられ、同じ職場で、毎日お会いさせてもらうことになったのでした。
 大学時代、西谷啓冶先生からキュルゴールを中心に哲学を学ばれた先生の世界は、他の先生方とは少し違っていました。生涯の師となる先生をとおして親鸞聖人の仏教と出遇っていかれたことは、先生の著書『キュルケゴールと親鸞』のあとがきに次のように書かれています。「親鸞との出会いの上でもっとも大きな影響を受けたのは、私が大学卒業後に勤務することになった真宗大谷派教学研究所の当時の所長蓬茨祖運先生である。親鸞との出会いの上でいちばん感動したのは、彼の思索の方向がキュルゴールと同じだと気づいたとき、なかんずくキュルケゴールのいう絶望からの飛躍は、親鸞では阿彌陀如來の真実心のはたらきかけによって人間の内面に生ずる「慚愧」という心であること、そういうことがはっきりしたときであった」
 「仏法を賜るというのは、生活の中に歩みがはじまることです」というのは、蓬茨祖運先生の言葉ですが、教学研究所を十年で退職され故郷の福井県鯖江に帰られた後、その言葉を「実験」されてきました。寺院を預かる一人の住職としてお寺を担われながら、仁愛大学の教授として学生と向き合い、図書館長として新しい図書館の建築に関わられ、そして、全国各地へ講演会も請われるままに出講されていました。自分が生きる大地に立つこと、生活の場に身を置くことで、広い世界を知ってゆかれたのだと思います。
 先生の書かれる文章には、いつも日本語の持つ美しさが感じられます。いったん執筆や校正作業がはじまると集中され、夜中になってしまうこともしばしばあります。文章を書くということもまた、自分に与えられた大切な仕事であるということを示されるように、時には目が充血するくらい真剣に取り組む姿を何回も見せていただきました。
「親鸞聖人の宗教は大地性にある。空から見れば大地は美しいが、いったんその地に降り立って足を踏み出せば、ねばねばした汚泥に足を取られて大地にたたきつけられる。動植物の残滓(ざんし)が悪臭を放ち、虫たちが美しかった花びらを食い尽くす。命をもった者の生き残りの戦いがはてしなく続く。しかし、これらはみな大地の底から噴出する生命のダイナミックな営みなのだ。親鸞聖人は、空の高みから大地を眺めてその汚濁にみちた地上の現実に驚き眉をしかめてしり込みした人ではない。その混沌たる大地に立って如来の願心に触れ、本願他力の大道を直覚した人である」
(『教化研究』第149号巻頭言「知の高みより愚の大地へ」 )
 2011年3月11日、あの震災の起こった日は、東本願寺で親鸞聖人七百五十回御遠忌のオープニングイベント「いのちとことばの響舞台」の前日で、私たち職員はその準備をしていました。そのステージで歌うために沖縄から来られた古謝美佐子さんが、たまたま隣にいた私に「今、地震が起きてるさ。揺れているよ」と話しかけられて、それで私も気づきました。京都でも地震を感じたのです。
 東日本を襲った地震と津波が、東北の大地を、人々の暮らしといのちごと呑み込んでいく映像がテレビから流れました。さらには福島第一原発の過酷事故の発生によって、当然のことながら翌日開催予定のイベントは中止になりました。
 親鸞聖人七百五十回御遠忌を機縁として企画されたシンポジウムは中止されましたが、このようなときだからこそ、いまの思いを語っておかなければならないとパネリストである高史明・佐喜眞道夫・阿部ユポ・山本義彦四氏から声が上がって、震災の翌日、「人間に光あれ-生きる力と大地の回復を願って」のテーマのもと、在日コリアン、沖縄、アイヌ民族、被差別部落という差別の現実から立ち上がり、人間解放の道を歩み続ける人たちにお話いただき、蓑輪所長がその聞き役を務められたのです。私もまた、原発震災の余波の中で一緒に聞かせてもらうことができました。
 その内容は、後日『響:いのちのひびき ことばのひびき-~真宗と人間解放~』として、東本願寺出版部より発刊されました。
 蓑輪先生の情熱的な「あとがき」に、「真宗では生きる力を本願力と表現されます。親鸞聖人は、「本願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなし・・」と和讃でうたわれています。そういう力というものの大事さを改めてこのシンポジウムで学ばせていただきました。曇鸞大師は「本願力」ということの「願」と「力」の関係について「願をもて力を成ず。力もて願に就く」と述べています。私はこの曇鸞大師の文を分かりやすく訳してみました。「ほんとうに人間として他と共に生きたいという願いが起こると、体に力がみなぎってくる。力がみなぎってくれば願いはかならず実現する」と。
「部落差別の問題も民族差別の問題も、みんなその根底に自分たちが本当に安心して生きていくことができる場が奪われ続けてきたという体験があるから、それを取り戻す、あるいは回復するということが運動の根幹となっているもだということを改めて知ることができました。このシンポジウムはそのことを「奪われたアイデンテイテイを取り戻す闘い」というようなことばでそれぞれが表現しておられます。アイデンテイテイとは、自己が自己であることの独自性、個性、仏教でそれを独尊性というのでしょう。そのアイデンテイテイを奪われるというのは、その者の生きる場が奪われることであり、いのちが奪われることであります。そういう意味で「大地の回復」というテーマは今回の大切な確かめになったと思います」
 あの震災から二年半が過ぎました。福島では、原発事故が収束するどころか、水漏れが放置され放射線量が高い状態が続き、放射線被曝の中での生活を強いられています。いまこの国は、憲法第九条を変えて戦争ができる国にしようとしています。オスプレイが配備され、米軍基地がもたらす生命の危機の中に生活する沖縄があります。
本願を生きるとは、自分の欲望を満足させることに躍起になって、誰かの犠牲の上に成り立つ私たちの生き方、在り方を問い続けていくことです。
「念仏には大地性がある」という言葉をいま思います。この大地に立って、仏さまの教えをいただいて生きていく道は「南無阿弥陀仏」しかありません。
「如来大悲の恩徳に報いる」というのは、個の救いが「響きあういのち」の中にあることに気づいて、自然に身を粉にしても報ずるというはたらきに向かわせるのだと思います。大切な御用をたまわって、「如来大悲の恩徳に報いる」という生き方、このことが今、私たちに求められているのではないかと思っています。
宗門を愛し、人を愛し、尊敬する人ある時は、かならず人が誕生する。これ私の信念です。宗門を愛してるか、人を愛しているか、尊敬する人はいるか。いま私が問われています。親鸞聖人の教えに還るということをいのちとして行ってきた同朋会運動は今年で52年目を迎えました。如来の恩徳に応える道、『人の誕生』と『場の創造』の実現を願う歩みはこれからです。

今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」

2023-01-20
親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi)

また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』354頁

 ブッダが大いなる医師に、その教えが薬に喩えられることは、よく知られていることである。

 私が愛読している仏教通信誌に『崇信』がある。その最近号に次の文が出ていた。


語れないことを語ってしまっていないか、語りすぎていないか、ということがあります。これは児玉〔暁洋〕先生が、どこかでいわれていたことだと思いますが、医者は間違った薬を出したり、間違った処置をしたら、人を殺してしまうことがある。お坊さんは間違った説教をしたら、いのちを殺してしまう、というようなことをいわれていたと思います。(7頁)


 この文を記したのが岸上仁氏である。医者であり僧侶でありまた仏教研究者でもある岸上氏の表現だけに説得力がある。そして、このことは、私もつねづね感じていたことであった。もちろん私も、人生に苦悩を抱えた一人と向き合うときは、それなりに緊張し、言葉を選びながら語っている。数学においてはたった一つの数字のミス、法廷においては不用意な一言が、致命的な結果をもたらすことになる。果たして私はそのような厳しさをもって、仏典を読み、仏教を他者に語っているだろうか。はたして私は、医療行為に関わるような覚悟をもって、親鸞の教えに関わっているだろうか。

 いや、私には、そのような姿勢はないとはっきりと言える。先ほどの岸上氏の文のもととなった児玉師の言葉の中に「人びとが、それほど真剣に聴いてくれないのであるから幸いであるが」という指摘がある。その状況に救いを見出しているのが私の正直なところである。

 お釈迦さまは、多くの場合、ただ一人の人に向かって、その人の問いに対して、語りかけている。そこに人生の医師として応病与薬(病に応じて薬を与える)という厳粛な姿勢がある。一人の人生を左右するような極限の場面においては、語ってはいけない時と言葉があり、語らねばならない時と言葉があるのだ。

 仏教を他者に語るとはどういうことか。それは、冷たい説明や解答を提供することでもなく、相手の感情に巻き込まれることでもなく、時流に迎合することでもない。たとえ正解はなくとも、たとえ試行錯誤に終わっても、つねに生きることの深みと悲しみに立って、ともに如来の智慧のもとに所与の問題に向かい合うことなのだ。

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