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ヨキヒトの仰せ

ヨキヒトの仰せ【文字データ編】

『恵信尼消息』を拝して(2007年5月)

2024-07-12
廣瀬 杲 (大谷大学名誉教授)
聖典としての『恵信尼消息』

『恵信尼消息』というものにつきましては、みなさま方、ずいぶんと深いご了解を持っておいでになろうかと思います。『恵信尼書簡』とか、あるいは『恵信尼文書』とも呼ばれております、いわゆる親鸞聖人の奥さまの恵信尼さまが、お嬢さまであります京都にお住まいの覚信尼さまにあてたわずか10通ほどのお書きもの、お手紙類です。

しかもそれは、建長7、8年(1255、1256)というころから始まって、恵信尼さまがお亡くなりになるその年までと言ってもいいあいだのお手紙です。このお手紙は特に近代、現代の真宗の歴史の研究、あるいは親鸞聖人の実像を探っていこうとする、そういう研究のなかでは、非常に大きな意味を持つと考えられていますし、またそのとおりだと思います。

例えば、親鸞聖人というお方が、公のこととしてではない限りは、ほとんど私事をおっしゃらないということがありまして、結果的に、親鸞聖人は、どういうお方なのかということを推し量っていく手掛かりがないというのが、親鸞聖人の実像を探っていこうとする先生方の苦しみであり、いら立ちであろうかと思います。

そういうなかで大正10年(1921)、この『恵信尼書簡』が発見されました。西本願寺のお蔵のなかから、鷲尾教導という先生が見つけてくださったわけです。それによって一挙に、いままでわからなかった親鸞聖人のお姿、比叡山でのご修行、あるいは越後でのご生活、その他のいろいろなことがわかってきたといわれているのです。

ところで私は、そこで考えさせられるのです。考えさせられるというのは、そういうことについての確かめをしてくださいます先生方のご意見を聞いておりまして、「親鸞は自分のことについては、ほとんどお語りにならなかった。だからして、親鸞の実像というものはわかりにくいのだ」というお言葉、たしかにそうだと思います。思いますけれども、私はもう少し視点を変えるべきではないかと、いつも思っているのです。

それは何かと申しますと、私事を常に語らなかった、そのこと自体は無意味なのかということです。私はそうは思わないのです。語らないというところに、何を聞き取っていくかということが、私たちにとって1番大事な問題だと思います。書いていないものは、ないものだ。書いてあるものは、あるものだ。この発想でいけば、おそらく親鸞聖人の研究といいましても、ついにどこかで行き詰まりがくるに違いないと思います。

近代、現代の歴史研究ということによって、明らかにされてくる親鸞研究というものは、たしかに素晴らしいものでありますし、そのなかで『恵信尼消息』といわれている文書が、史料として大きな役割を果たしているということもわかっております。そういうなかで、そのお手紙類を見て、そこに親鸞の実像が見えてきた、その手掛かりとして、『恵信尼消息』というものが非常に大きな意味を持っているのだというならば、かなりこれは問題のある考え方ではないでしょうか。

私は「『恵信尼消息』について」とは、講題を出しておりません。その講題では、私が本当にお話ししたい内容を言い当てていないということになると思います。

みなさま方は、「『恵信尼消息』を拝して」ならば、敬語を使っただけであって、本当は「ついて」ということだろうとお考えになるかもわかりませんけれど、それは私にとって困るのです。『恵信尼消息』というお手紙類、それは、単に近代の歴史研究のなかで親鸞像が見えてくる、その手助けを積極的にしてくれるのだという視点では、私は納得がいかないのです。

「拝して」というのは、決して敬語を使っただけではないのです。本当に『恵信尼消息』は、単なる1つの歴史研究のなかでの史料にとどまらず、むしろ、そういう視点を撤回せしめていくような大きな意味を持っている。

結論のほうから言いますと、『恵信尼消息』は、全体が私にとって拝まれるべきお聖教としていただかなくてはならないほど、大きな意味を持っているのではないのかということを申しあげたいわけです。そういう問題を提起しておりますのは、私自身の中に、はっきりした課題があるからです。

「宗祖としての親鸞」とは

私にとって1つ、どうしても解けないといいますか、どうしてもはっきりしない問題があったのです。あったというか、こんにちもあるのです。それは、やはり「宗祖としての親鸞聖人」とは、どういうお方なのかということです。

しかし、それが御遠忌の基本理念として示されるように、表に出れば出るほど、「宗祖としての親鸞聖人」とは、いったいどのようなお方であり、どのようなことをわれわれに明らかにしてくださったお方なのかという問いを立ててみますと、結局、宗祖ということばも、1つの飾り言葉に、私たちはしてしまっているのではないのだろうか、という思いがしてならないのです。

宗祖に遇えなくして、宗祖を語るということの欺瞞、嘘です。それを平気でやっているのが私たちなのではないだろうかと思います。いったい、宗祖としての親鸞聖人に、どうしたら遇えるだろうか。おそらく私はこの問いのなかで4、50年、あっぷあっぷしてきたのではないか、とさえ思います。

宗祖としての親鸞聖人を明らかにしてくださった、親鸞聖人入滅以降の歴史の語りかけというのが、あったのだろうか、なかったのだろうか。あるいは、聞き落としてしまったのか、見落としてきたのだろうかという問いを立ててみますと、やはりそこには、いくつかのあり方をもって私たちに教えてくださっていることがあると思います。

本願寺の聖人 親鸞

その概要を少し申しあげておきます。まず第1に、私たちに親鸞聖人というお方を真正面から、これが親鸞聖人なのですよと語りかけてくださる、真像を問うてきた最も積極的な、しっかりとした枠組みを持っていた親鸞聖人の伝記というものがございます。

『御伝鈔』です。覚如上人が一代いちだいを賭けた『御伝鈔』というものは、われわれにどういう親鸞像を教えてくださっているのかと言いますと、これは解説する必要もないほど、はっきりしているのです。「本願寺の聖人、親鸞」を明らかにしている、それ以外ではない。

私は善いか、悪いかと言っているのではありません。そうではなくて、消しがたい事実を、教団が担っているという1つの視点ではないかと思うのです。最初の書き出しが、「それ、聖人の俗姓は藤原氏」ということから始まって、藤原一家の歴史をずっと過去を見渡していくかたちで語って、そのなかに身を置いて生まれたのが親鸞というお方であると位置付けられてあります。

『御伝鈔』の出発は決して、仏者親鸞という書き出しではない。いわゆる、ときの権力を左右するであろう位置にあった藤原一家、この藤原一家の流れのなかに身を置いていたのが親鸞であるという書き出しから始まっているわけです。1番最初がそこから始まったということは、親鸞聖人の真像をわれわれに示してくださる方向は、世俗にあったならば、いわゆる、ときの権力を左右することのできるような血筋のなかで生まれたのだろうと、そういうことを強調なさっているように見えます。

そして、そのことはまた、真宗教団と言っております私たちにとりまして、大ざっぱに申しますと、やはり本願寺の聖人という方を御開山と仰ぐような教団であることだけは、これは有無を言わさないのではないでしょうか。

これが、はっきりしていけばしていくほど、教団とは何かという問いを徹底していくように、われわれには迫ってきていると言わざるをえなくなります。これが私は、『御伝鈔』というかたちで、私たちに親鸞聖人の姿を示してくださった、その覚如上人の営みであり、それは教団形成のうえでは非常に大きな意味を、こんにちでも担っていると言わざるをえないと思うのです。

史上の親鸞

近代の歴史観と申しますか、視点というものから、親鸞という実像を問うていこうとすると、『恵信尼消息』が大正10年に発見されたと申しましたけれども、大正11年(1922)に中沢見明という先生が、『史上の親鸞』というお書きものを発表なさいました。これは当時、ずいぶんインパクトを与えたお書きもののようであります。
これはある意味では、『御伝鈔』を相手取って、その虚構性というものを暴き出すかたちで『史上の親鸞』、歴史上に生きていた親鸞像をはっきりさせていこうという営みです。こんにちまで至っております親鸞の実像を探る歴史研究であろうと思います。

歴史のうえに登場してくる親鸞像というものを探っていくということは、たしかに素晴らしい研究、近代的な研究という意味で、本当に実証性を持ったものだということはわかります。しかし、その揚げ句に、どういう親鸞が生まれてくるかと言いますと、1つの具体的な言葉をとおして申しあげます。

大正のころ、『史上の親鸞』という、そもそもの題名が、非常によく親鸞研究の1つのあり方を私たちに示してくださっているとおり、その研究のなかから、親鸞という存在はいなかったのではないだろうか、架空の存在だったのではないだろうか、親鸞聖人抹殺ということが、充分な論拠を持ってではありませんけれども、論議のなかで語られたということがあります。

私はそのことを、そう軽くは感ずるわけにはいかないと思うのです。なぜならば、親鸞聖人の実像を探っていくその研究姿勢のなかから、親鸞抹殺ということまでやってのけることのできる冷酷さというものが、そのなかを貫いている。

とすると、近代の歴史研究の営みのもとに明らかにされてくる親鸞像は、たしかにわれわれが、ある意味では待望していた親鸞の姿が浮かんでくるということになろうかと思いますけれども、その質としてあるものは、ときによりますと、いろいろの史料が充分に役割を果たさないとなると、親鸞という存在は地上にいなかった人ではないかということで、切って捨てられる。親鸞聖人を殺してしまうということを平気でやってのけるような、ある意味の冷たさというものが、実は親鸞聖人の研究ということのなかに、私は見取っていかなくてはならないことではないかと思うのです。

「そんなことを言っていたら親鸞聖人の実像は、ちっともはっきりしてこないじゃないか」とおっしゃるかもわかりませんけれども、実像をはっきりさせていこうとするとき、私たちはどういう実像を明らかにしたいのでしょうか。

今2つの視点を申しましたが、1つは『御伝鈔』が示している視点、もう1つは、近代研究といわれている歴史の研究のなかから明らかにしていこうとする実像としての親鸞像という研究。この親鸞像は「人間親鸞」といわれます。しかし、これらの親鸞像が、ついに私たちに明らかにしえないもの、それが、宗祖親鸞聖人とはあなた方にとってどういうお方として、うなずかれているのでしょうかという問い掛けだろうと思うのです。

この2つの親鸞像を超えなくては、宗祖というお言葉で仰ぐところの親鸞聖人は明らかにならないということは、ある意味で共通の認識を持つことができるのではないかと思います。

先にも申しましたが、私はその問い掛けに、困り抜いているのです。結局、宗祖として仰ぐ親鸞聖人には、1度もお遇いしていなかったのではないかと思うのです。

もう1つの視点

『御伝鈔』と、それから近代真宗史の研究のなかから生まれてくる親鸞実像の探究と、2つ申しました。もう1つあると思うのです。750年の伝統のなかで、今の2つとは違うかたちで、親鸞像を思い起こさせてくれるような伝達があると思います。伝説の親鸞という視点が1つあったと思います。

例えば、越後に親鸞聖人にちなんだ七不思議、「越後七不思議」というものがあります。これは、私はずいぶん大切なことを、はっきりと言葉にせずして語ってくださっていると思うのです。伝説ですから、そういう事実があったとは申しません。しかしそれは、先の2つの視点というもの以上に、親鸞聖人の実像を、われわれに考えさせてくれることだけは間違いないと思います。

「逆さ竹」というお話があります。親鸞聖人が越後から越中、あのあたりを歩きながら、教法を広めていこうとなさった。ところが誰も、その話を聞いてくれない。親鸞聖人もほとほと疲れ果てたのでしょうか、途中で腰を下ろして、つえに突いていた竹の棒を前に置いて、「此里に親の死したる子はなきか 御法の風になびく人なし」という歌を歌われた。竹のつえは、太い根のほうを手に持ちます。自生の竹とは逆さになっているわけです。それで、そのつえをとんと突いたら、その竹のつえから、枝葉が出て、茂っていった。だから、葉っぱが全部逆さまに付いてくるのだそうです。それで「逆さ竹」と言うのです。

親鸞聖人というお方は、越後で何をしていたのかよくわからないと言われます。流罪に遇った、罪人になったというけれども、どういう暮らしをしていたのかわからない。確かにそのようです。しかし同時に、親鸞聖人は越後では、布教、教化ということは一切いっさいなさらなかったのではないかという見解もあるわけです。

ところが、それに対して、親鸞聖人の御在世のころから伝統されてきた「逆さ竹」の伝説は、親鸞聖人の、教法宣布の歩みの至難さ、困難さを、われわれにはっきりと示してくださるわけです。生き生きとした親鸞像というものが、ここには見えるわけです。その地方で生きていた人々の実感したものを伝えている、伝説の親鸞というものは、どれほど理性・知性で固めた説明では、どうしても手の及ばないものを、私たちに語りかけてくださっているのではないのでしょうか。

決して私は、伝説がいいとは言っていません。ただ伝説の親鸞というかたちで伝えられている親鸞像は、やがてもう1つの新たな親鸞像を見いださなければならないということを、われわれに予告していてくれるのではないかと思うわけであります。

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facebook 田代俊孝 先生曰く

2024-01-18
『真宗学講義ノート』同朋大学別科の受講生が作ったノートです。別科生はもちろん、安居や各地の秋安居で参考書として領布したら、希望が多くて3刷までしました。最近ご希望の方がありましたので残部を法蔵館に置いて頂くことにしました。領布価格は税込1300円。法蔵館へお早めに。もう増刷する予定はありません。
この講座は、真宗学概論で、寺倉襄先生、池田勇諦先生の後を受け、30年間近く担当していた講座です。授業の前に正信偈の訓読をしていました。作られた方は、元建設省関係の研究員でPCを持ち込んで授業を受けていました。追加項目を加筆された方も異分野の修士課程の修了者です。内容は図表などを用いて綺麗に整理されています。今から思うとよくも一年間でこんなにたくさん話したと思います。よく、学生から言葉もテンポも早すぎると怒られました。

第31回真宗教学学会講演会

2023-12-20
◆テーマ 「人と生まれて―信仰と社会―」 

◆講演会レジュメ・当日資料(※二次利用禁止) https://drive.google.com/drive/folder... 

◆講演①
    講 師:島薗 進 氏(大正大学客員教授、NPO東京自由大学学長、東京大学名誉教授) 
    講 題:「日本仏教における「救い」と社会倫理」 

◆講演②(本動画です) 
   講 師:東舘 紹見 氏(大谷大学教授) 
  講 題:「宗祖親鸞聖人の求道と「世間」」 

◆真宗教学学会講演会について 真宗教学学会では、毎年、真宗本廟(東本願寺)の報恩講期間中に、宗派内外から講師をお招きして講演会を開催しています。その講演会のテーマを、今年度からは新たに「人と生まれて」と設定しました。 今春の「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」では「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」とのテーマが掲げられました。三帰依文の冒頭でも「人身受け難し、いますでに受く」とあります。人と生まれたことは、決して当たり前ではありません。その意味をたずねていくことが、私たち一人ひとりの大切な課題ではないでしょうか。 私たちは共に人の身を受け、今ここに共に生きています。人と生まれたことは、私たちが共に生き合うにあたってまず確認しておかなければならないことでしょう。 そこで、このテーマを掲げる最初の年は、「信仰と社会」というサブタイトルをつけました。信仰は私個人の中に起こる出来事ではありますが、私を取りまく社会の中で問いかけられ、意味づけられてくるものです。信仰は社会とのいかなる関係にあるのか、信仰者は社会といかなる関係を結ぶのか。共に考える機会となることを願っています。

わが師の文章との出遇い

2023-12-16
細川 行信(ほそかわ ぎょうしん、1926年2月18日 - 2007年10月24日)は、浄土真宗の仏教学者。
facebook 土田龍樹さん曰く
今年もあと半月。あっという間の一年でした。
今年はゼミの恩師細川行信師の十七回忌でした。
ふと思いおこしてみると、小生が卒業してまもなく、住職となり、寺報を発行すべく、先生にお願いして原稿を書いていただいたのを思い出しました。もう35年も前のことです。
今読み返してみると師恩を沁みじみ感じます。
お育てに感謝です。ナンマンダブ
その原稿を十七回忌のご勝縁にあたり、ご紹介させていただきます。
この原稿は、昨年六月に大谷大学教授細川行信先生が当紙のために書きおろして下さったものです。
『すみません』
大谷大学教授 細川行信
『一杯のかけそば』を読んで
三月に卒業式をおえて多くの学友が、それそれの国許へ帰られました。私は今学年も留年、このまま二年後に停年を迎えそうです。
と言っても明日をもしれぬ命ではありますが。
さて四月に入り、入学式のあと多忙な日々からようやく月末の連休を迎え、ゆっくり新聞の文化欄を見ていると、大反響を呼んだ『一杯のかけそば』の本が詳しく紹介されていました。
その内容に強く心をうたれましたので、さっそく書店に行きましたが、どの書店も品切れ。残念に思っていましたところ、ちょうど民放のテレビで本の朗読と口演を聴いて、聞くたびにとどめなく涙がでました。
そのうち特に『一杯のかけそば」の深い共感から、この本を書かれた栗良平さん自らの口演を承って、私なりに悲喜の涙が尽きなかったのです。一体何が頑固な私の心に身にしみるのでしょうか。
実は晩春の今、家の小庭に咲く花一杯の密柑、その甘酸ぱい香りを胸一杯に吸って、書庫で朝のひとときをお念仏の御聖教に親しんでおります。
こうした中で、お念仏の香光が感じられます。すなわちそれは聖人のご和讃に念仏の元祖法然上人を偲んでの一首、「浄土和讃』のおわりに「染香人のその身には、香気あるがごとくなりこれをすなわちなづけてぞ香光荘厳ともうすなり」が念頭にうかびます。
従って『一杯のかけそば』もまた香光荘厳としてお念仏せずにはおれません。
『一杯のかけそば』の始まりは、十五年前の大晦日の夜、二人の男の子を連れて北海亭の戸を開いて「すみません、あのーかけそば一人前、よろしいでしょうか」との母親、それに応じて一・五人分のそばをだしてとてもおいしく一人前を三人が互いに譲りあっていただき、その親子がそば屋さんに「ありがとうございました。どうかよいお年を」の声。
それを弟の淳ちゃんが作文に「一杯のかけそば』として綴り、それが北海道の代表に選ばれたこと。
その親と子が額をあわせて語る会話に読むもの聞くもの共に泣かずにはおれません。
私もその情景を想像しながら、かっての『おしん』の苦労をこえて心あたたまるもの、人間が忘れかけていた真実をしらせていただきました。それこそ私は「すみません」「ありがとう」の言葉に違いないと、ふと私の口よりお念仏が出てまいります。
お念仏、すなわちみ仏の名号を、親鸞聖人は「円融至徳の嘉号」といわれ、それは「悪を転じて徳を成す正智」と申されました。その仏の御名は濁世に生きる「極重悪人」の私が身にかけられ、わが心を貫徹するもので、濁悪をすま(清澄)して「すみません」と申す外ございません。
これを仏教では懺悔(さんげ)といい、仏法聴聞の大地であります。
かって特攻隊の一員として大海原に散った若人が、いわゆる辞世の句に「すくわれぬ身にしみわたるみ名の声」と詠んだ手帖を前に、母も妻も、そして四十五年たった今も涙しながら、お念仏申さずにはおれません。
何よりも「すくわれぬ」と自身を省かれる深さこそ、その底の底から一人ももらさず救う大悲の願心に感応いたします。そして「身にしむ」というしみとおるお念仏の香光、その染香人のご和讃を重ねて味あわせていただくのです。
このところ、今年は『奥の細道』の三百年ということで、元禄二年(一六八九)三月二十七日今の陽暦に当てると五月の十六日、前途三千里の旅に出発した。奥州路を白河より平泉へと進み、高館での「夏草や兵どもが夢のあと」は、かつての古戦場をしのんでの感懐。それは「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」として詠まれた一句。ついで尿前(しとまえ)の関を越えて出羽の国へ入り、山形領の立石寺という山寺を訪れた。そこでの「閑さや岩にしみ入る蝉の声」に、私は岩のごとき身にしみとおる仏のお呼び声を聞く思いで、ふとお念仏がこぼれました。ところで、この蝉の声について私は先年、一夏のあいだ木々の多い病院で療養中、蟬しぐれを耳にして曇鸞大師の『浄土論註』にある「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず」の言葉を想起しました。その蟪蛄はつくづくぼうし。かって「岩にしみいる蝉の声」について、斉藤茂吉と小宮豊隆との間に論争があったといいます。
しかし私は曇鸞大師の『論註』より、閑かな浄土を夢みて、わが煩悩の身に染み入るのは、つくつくぼうしの一心不乱の声かといます。
そして六十三回の春秋を重ねた私は、「閑さや」の俳聖芭蕪の句より、さらに近くは一杯のかけそばの「すみません」「ありがとう」より、お念仏の懺悔と報恩を味わい、ひとときの今を精いっぱい念仏の息をしながら、かけがいのない人生の旅を歩んでまいりたいと念じております。
お約束の原稿ようやく書きあげましたが、大変おそくなってごめんなさい。
著作集

鈴木大拙氏

2023-10-07
鈴木大拙氏に聞く 古田紹欽 武藤義一
聞き手は、松が岡文庫の古田紹欽さんと埼玉工業大学名誉学長の武藤義一さんです。昭和38年の収録です。
鈴木大拙博士の日常生活 その1
ラジオ「心の時代」お話しは岡村美穂子さんと楠恭さん。 聞き手は金光寿郎さんです。
鈴木大拙博士の思想と行動をめぐって その1
お話しは岡村美穂子さんと楠恭さん。 聞き手は金光寿郎さんです。
鈴木大拙の日本的霊性をめぐって 岡村美穂子
鈴木大拙の世界 上田閑照
鈴木大拙の世界 上田閑照 お話は、京都大学名誉教授の上田閑照さんです。
岡村美穂子 見事な人々1
岡村美穂子 見事な人々の1回目です。 お話しは大谷大学講師の岡村美穂子さん、聞き手は金光寿郎さんです
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