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ヨキヒトの仰せ

ヨキヒトの仰せ【文字データ編】

ある結婚式で

2022-12-20
「いのちのうた   ー教育と宗教への思い」  竹下哲 著 より
facebook小栗洋慶さん曰く
「いのちのうた
  ー教育と宗教への思い」
 竹下哲 著 より
ある結婚式で
 この式場の前を本明川が流れていますが、その川向うにⅠ高校があります。
 十年ほど前、私がこの学校の校長をしていたとき、新婦のお父さんもこの学校の先生でした。誠実な、すばらしい先生でした。そして、新婦S子さんもまた、まさにそのときの生徒だったのです。 紺の制服がよく似合う、明るい、純情なお嬢さんでした。
 こういう二重の縁に連なる喜びをもって、私はこの式場に駆けつけてまいりました。 そして、S子さんと生涯を共にすることになる新郎はどんな人だろうか、と胸を弾ませて見守っていました。
 予期したとおり、男らしく、頼もしい男性です。 誠実そうな人です。 私は安心しました。ホッとしました。よかったなあ、と思いました。似合いの夫婦というのは、こういうカッ
プルを言うのでしょうか。
 若いお二人を前にして、私は校長の昔に還ったような気持ちです。二人の生徒にお説教をするような調子で、しばらくの間、お話をさせていただきたいと存じます。
 ーーある会社で、採用試験がありました。大学生たちが、わんさと押しかけてきました。筆記試験がすんで、いよいよ面接となりました。
 一人の青年が面接室にはいっていくと、正面に社長さんが座っています。そして、開口一番、「君は今まで、親の体を洗ってあげたことがあるかね。」と聞くのです。
 経済か社会の問題でも聞かれるのだろうと思っていた青年は、不意をつかれて、「いい
え、アンマぐらいしたことはありますが、親の体を洗ってやったことはありません。」と答
えると、社長さんは「君は父親を早く亡くして、母一人子一人だね。きょう帰ったら、お母さんの体のどこでもいいから洗ってあげなさい。その上で、あした改めて面接する。きょうはこれで帰り給え。」と言うのです。
 青年はいまいましい気持ちで、家路につきました。情ないことになったなあ、と思いました。しかし、やむを得ないので、母親の足を洗うことにしました。大きなたらいに熱いお湯をいっぱい汲んで、母親の帰りを待ちました。母親は、反物の行商をして歩いているのです。
帰って来た母親にわけを話して、遠慮する母親の足を無理に洗うことにしました。
 青年はたらいの向こう側にしゃがんで、何気なく母親の足を握りました。母親の足は女の足ですから、細くて柔らかくて、きゃしゃな足かと思ったら、そうではなくて、石のように堅い、ゴツゴツした足だったそうです。
 その石のように堅い母親の足を握りしめたとき、胸の中に熱いものがこみあげてきて、その青年は母親の足を握りしめたまま、オイオイ声をあげて泣いたそうです。男泣きに泣いたそうです。
 考えてみれば、その青年は一人で大きくなったのではないのですね。母親の柔らかい足が石のように堅くなるということにおいて、それを足場にして、大きく立派になったのですね。
 きょう晴れ姿のお二人も、自分の力で大きくなったのではありません。ご両親をはじめみなさんのおかげで、今日の日を迎えることができたのです。
 お二人がそれらのご恩を心に感じながら、互いにいたわり合い、助け合って、この人生を幸せに生きていかれるよう、切にお祈りする次第です。
(53・10・26 結婚式での祝辞)
いのちのうた
 ー教育と宗教への思い
昭和57年10月20日 初版発行
平成元年2月20日 第8刷発行
著者 竹下哲

仏法をきくということは

2022-12-11
和田稠師

《下はつるべのたとえ》

2022-12-07
唯信鈔文意
 池田勇諦著『教行信証』   に学ぶ 四より抜粋18頁~20頁
★ 還相回向
法性のみやこより、衆生利益のために、この娑婆界にきたるゆえに、「来=らい」をきたるというなり。
★ 往相回向
法性のさとりをひらくゆえに「来=らい」をかえるというなり。

 池田勇諦著『教行信証』
  に学ぶ 四より抜粋18頁~20頁
《参考》
唯信鈔文意
   西 705頁9行目
   東 551頁7行目
   高 686頁12行

《下はつるべのたとえ》

人と生まれて

2022-12-06
歎異抄16条
歎異抄16条
弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ……終わりまで

池田勇諦師

2022-12-01
仏教の救い 5 より抜粋     30頁~32頁
池田勇諦師
「念仏をしながら
他力をたのまぬなり」
  聖典西 688頁6行目
    東 541頁11行目
    高 710頁14行目 
つまり我が身の考え
思いを、自力をたのんでいるわけです。
だから念仏、しながら念仏に背く事しかないこの我が身があぶり出されてくる世界でしょ。
「信じさせていただいております」と言えますか。言いたくてしょうがないんですよ。「信ずる」と言うのが実は疑惑なんでしょう。
信じていますと言いたい。
阿弥陀仏は私にそれを言わせないのです。言ったとたんに、信心が腐り出すからです。仏法でなくて我法になるからです。
    池田勇諦師
仏教の救い 5    より抜粋 
   30頁~32頁
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