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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

美濃部達吉(憲法学者)  美濃部亮吉(東京都知事) 

2020-08-07
父 美濃部達吉
男 美濃部亮吉

『Get Back! 30's / 1935年(s10)』

(美濃部達吉 天皇機関説)
○2.18 退役軍人の菊池武夫議員が貴族院本会議で、美濃部達吉の「天皇機関説」を国体破壊の憲法解釈と非難。25日、美濃部が攻撃に対して反論の演説をする。
○4.9 美濃部達吉の3図書「逐条憲法精義」「憲法提要」「日本憲法の基本主義」が発禁になる。書店には買手が殺到し、古書店のものにはプレミアムがつく。
 

 いわゆる「天皇機関説事件」である。軍部の台頭と共に国体明徴運動が起こり、思想・学問の自由は圧迫されてゆき、天皇機関説は国体に反するとして攻撃を受け始めた。1935年(昭和10年)2月18日、貴族院本会議の演説において、菊池武夫議員が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授)の「天皇機関説」を国体に背く学説であるとして、貴衆両院有志懇談会をつくり機関説排撃を決議した。この菊池議員の演説をきっかけに軍部と右翼による機関説への攻撃が激化する。
 

 同年2月25日、美濃部議員が天皇機関説を平易明瞭に解説し議場からは拍手が起こったが、議会の外では右翼団体や在郷軍人会が上げた抗議の怒号が収まらなかった。そうした者の中には「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂するような低能右翼も多かった。
 

 天皇機関説とは、大日本帝国憲法下において、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの補助を受けながら統治権を行使すると説いたものである。機関説を株式会社に例えれば、それを法人格組織として捉え、社長はその運営執行者とするようなもので、機関説に対抗する「天皇主権説」では、国家を法人として認めないで、いわば天皇の私物とするようなものである。
 

 国家法人説は近代国家においては常識であり、国王・皇帝が支配する国であっても、国家を私物として所有するものではない。天皇機関説でも、国家意思の最高決定権の意味での主権は天皇にあるとしており、天皇の統治権を否定するものではなく、あくまでも大日本憲法上での天皇の位置付けを確認したものでしかない。
 

 天皇の神国と祀り上げることで、統帥権を政府を超越したものとするなど、結局は戦前軍国主義下の軍部独走を許すために利用されただけである。このような「空気」の中で、誰が決めるともなく戦線の拡大は進んで行き、「神国」であればアメリカなどに負けるはずもないという、とんでもない観念が支配したのであった。
 

 このような軍部や右翼の圧力に押されて、政府は陸軍大臣からの要求をのみ、美濃部を取調べることを警察に指示するとともに、美濃部議員の著書『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊を発禁処分とした。美濃部議員自身は不敬罪で告発され、結局、美濃部は起訴猶予処分となるも、貴族院議員を辞職に追い込まれた。さらに翌年には、美濃部は右翼暴漢に銃撃され重傷を負っている。
 

 この一連の天皇機関説事件の中で、岡田内閣は2度わたって「国体明徴声明」を出し、天皇機関説は異端の学説とし撲滅を宣言させられ、あたかも西洋中世キリスト教の異端審問を思わせるような徹底ぶりであった。
 

 美濃部は決して民主主義者でも自由主義者でもなく、天皇主権を大日本憲法上に位置付け、法治国家としての体裁を憲法理論上で確立しようとした憲法学者であった。戦後になっても、美濃部は新憲法の有効性について懐疑的見解を示し、国民主権原理に基づく憲法改正は「国体変更」であるとして反対の立場を取った。これは戦後民主主義の流れの中で「オールド・リベラリストの限界」と嘲笑されたが、美濃部は、右でも左でもなく、あくまで憲法学者としての主張を一貫したに過ぎない。
 

*この年
喫茶店流行/月賦販売盛ん/貿易収支が17年ぶりに黒字/綿布輸出量、史上最高の27平方ヤード/嗜眠性脳炎(ネムリ病)流行
【事物】初の公設保健所、東京京橋と埼玉所沢に/年賀郵便切手(1銭5厘)
【流行語】人民戦線/国体明徴/新官僚/ハイキング/ソシアル・ダンピング
【歌】旅笠道中(東海林太郎)/大江戸出世小唄(高田浩吉)
【映画】忠次売出す(伊丹万作)/お琴と佐助(島津保次郎)/雪之丞変化(衣笠貞之助)/外人部隊(仏)
【本】高垣眸「怪傑黒頭巾」(少年倶楽部)/川端康成「夕景色の鏡(雪国の初編)」(文藝春秋)/吉川英治「宮本武蔵」(朝日新聞)/新潮社「日本少国民文庫」全16冊
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20161002

湯川秀樹

2020-08-07

『Get Back! 30's / 1935年(s10)』

 

(湯川英樹 ノーベル物理学賞受賞) 

*1935.2.- [大阪] 湯川英樹大阪帝大講師が、のちのノーベル賞受賞につながる中間子論を発表する。

 

 1934年(昭和9年)大阪帝大講師の湯川英樹は中間子理論構想を発表、翌1935年(昭和10年)には『素粒子の相互作用について』を発表し、中間子(現在のπ中間子)の存在を理論的に予言した。原子核を構成する陽子と中性子を結合させ、強い相互作用の媒介となる「中間子」が理論的には存在するとした。

 

 戦後の1947年になってから、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からπ中間子を発見し、湯川の理論の正しさが実証された。これにより1949年(昭和24年)日本人として初のノーベル賞受賞者となる。湯川のノーベル物理学賞受賞は、戦争で打ちひしがれた日本国民を勇気づける事件となった。

 

 湯川英樹は1907年(明治40年)1月23日、東京麻布で地質学者小川琢治と小雪の三男として生まれるも、すぐに父琢治の京都帝大教授就任に伴い京都市に移住する。京都市立京極小、京都府立一中、三高、京都帝大学理学部と進み、同じくノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎とは、ほぼ同年代で同じコースを歩んだ。

 

 京都帝国大学を卒業後、京都帝大講師、大阪帝大講師として研究を続け、この大阪時代に「中間子論」を発表する。この時期に、湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となって小川姓から湯川姓となる。父小川琢治は地質学者であり、その子供たちも学者兄弟として有名である。長男の小川芳樹は冶金学者、次男の貝塚茂樹は東洋史学者、三男の湯川秀樹は物理学者、四男の小川環樹は中国文学者として、それぞれ名を成している。

 

 当時は日中戦争中であり、日本人学者は海外から評価されづらい状況だったが、最先端の量子力学研究者らが集まるソルベー会議に招かれ、以後アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つようになった。戦前にも徐々に評価されるようになり、戦後のノーベル賞受賞後には、1953年京都大学基礎物理学研究所初代所長に就任、京都大学及び日本の理論物理学の発展に尽くした。

 

 またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」に、当時の第一級の科学者ら11人連名の共同宣言者として名前を連ねた。1981年(昭和56年)京都大学退官後も住み続けた京都市左京区の自宅で死去、享年74。

 

*この年

喫茶店流行/月賦販売盛ん/貿易収支が17年ぶりに黒字/綿布輸出量、史上最高の27平方ヤード/嗜眠性脳炎(ネムリ病)流行

【事物】初の公設保健所、東京京橋と埼玉所沢に/年賀郵便切手(1銭5厘)

【流行語】人民戦線/国体明徴/新官僚/ハイキング/ソシアル・ダンピング

【歌】旅笠道中(東海林太郎)/大江戸出世小唄(高田浩吉)

【映画】忠次売出す(伊丹万作)/お琴と佐助(島津保次郎)/雪之丞変化(衣笠貞之助)/外人部隊(仏)

【本】高垣眸「怪傑黒頭巾」(少年倶楽部)/川端康成「夕景色の鏡(雪国の初編)」(文藝春秋)/吉川英治「宮本武蔵」(朝日新聞)/新潮社「日本少国民文庫」全16冊

 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20161002

野村克也

2020-08-05

昭和48年パリーグプレーオフ

野村兼任監督率いる南海ホークスが、
西本幸雄監督率いる当時のパリーグの常勝軍団阪急ブレーブスを3勝2敗で降して、
悲願のパリーグ制覇

野村克也、現役生活最高の瞬間であると同時に、自身が語る監督人生最高の采配。

昭和52年オフの野村監督解任から11年後の昭和63年、南海ホークスは身売りされ、

これが結局、南海ホークス最後の優勝に。

藤純子 

2020-08-05
結果的に当たり役になったとはいえ、当時22歳だった藤が主役に抜擢された背景には、当時、岡田茂が仕掛けた任侠路線やエログロ路線が本格化し、極端に男性重視の路線を敷いて女性客を切り捨て、東映の専属女優を大事にしなかったという事情がある。
小川知子は岡田に裸を強要され、
三田佳子は鶴田浩二と確執があり、
佐久間良子は会社の企画に不満があって、
主力女優が次々と東映を退社するなかで、ひとり藤が"仁侠映画の花"としてスター女優の道を着実に歩んでいった。
藤は高倉健主演の『日本侠客伝シリーズ』や鶴田浩二主演の『博奕打ちシリーズ』などで好演を続けた後、『緋牡丹博徒』の主演に抜擢されたが、初主演作はやはり岡田プロデュースの同年作品『尼寺(秘)物語』であった。
しかし同作品は思わぬ不入りで「藤純子ではダメか…」と撮影所にはそういう空気が充満していた矢先の『緋牡丹博徒』での主演抜擢であった。

奥平 昌邁 (おくだいらまさゆき1855-1884)

2020-08-05
 
【奥平 昌邁さん】
(おくだいらまさゆき1855-1884)
江戸時代後期の大名。
豊前国中津藩9代藩主。
官位は従五位下・美作守。
中津藩奥平家13代。伯爵
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