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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

1962年 尾崎行雄 優勝に導いた17歳の「怪童」

2020-08-08
今なお史上最速とも言われるストレートを投げ込んだ右腕は、浪商高で全国制覇した後、中退し、17歳でプロ入りした。球はとにかく速く、そしてマウンドではふてぶてしい。
“衝撃の新人”という形容に、これほどふさわしい男はいないだろう。

後半は指のマメに泣く


 浪商高のエースとして「怪童」の異名を取る。1年夏から3季連続甲子園出場。1961年、2年夏に優勝を飾った。その後、大争奪戦の末、中退し東映入団。まだ17歳だった。

 快速球を武器にオープン戦から好投を続け、4月8日、開幕第2戦となった大毎とのダブルヘッダー1試合目が怪童伝説新章の幕開けとなる。3対3の延長10回、12球団最強とも言われ“ミサイル打線”のクリーンアップに東映・水原茂監督が尾崎を投入。緊迫の場面にも動じることなく、葛城隆雄を投手ゴロの後、榎本喜八山内和弘を連続三振。15球すべてがストレートだった。その裏、東映はサヨナラ勝ちをし、初勝利が転がり込んだが、そのときの言葉がいい。「三振を取るだけで精いっぱいでした」。あどけなさが残り、にこにこと笑顔の言葉だけに記者が驚いた。

 7月11日の完封勝利で早くも18勝。この時点で防御率は1.11、奪三振は146イニングで156個だ。称賛とともに「生意気だ」と批判もあったが、まったく意に介さなかった。

張本 勲

2020-08-08
1959年 張本勲 新人離れしたふてぶてしき男 駒沢の暴れん坊の中に台頭した新人は、強心臓と圧巻のバットコントロールでスタメンに定着し、新人王も獲得した。
 浪商高時代、巨人入りが決まっていたが、熱心に誘ってくれた水原円裕監督が球団社長と対立していたため、土壇場でかなわず、東映入り。ただ、ここで松木謙治郎コーチと出会ったことが運命を変える。

竹久夢二

2020-08-07
Fb中野洋子→昭和パラダイス 昭和パラダイス

竹久夢二 明治17~昭和9(49才)

美人画、昭和人なら誰もが一度は
目にしたことがあると思います。

あの時代に、あの画風。魅力。
49才という若さで亡くなられましたが…昭和を生き抜いていたら
どんな絵を残されていたんでしょうね。
恋多き男性でもあり、波瀾万丈の
恋の遍歴も…

夢二が影響を受けたといわれる
女性達。 雰囲気似ていますね。

マンハッタン計画の具現者

2020-08-07
Fb飯塚 俊一  →昭和パラダイス

75年前の8月6日
忘れてならない祈りの日
ヒロシマで奪われた幾多の命は
帰ってこない...

ロバート.オッペンハイマー。
天才物理学者で類い稀な指導力も持ち合わせていた。
彼の指導により
ウラン型とプルトニュウム型原爆を完成させたアメリカは、冷酷にも、ヒロシマとナガサキをその実験場に選んだ。
後年彼は原爆のあまりの残酷な破壊力に後悔して、核兵器反対運動にのめり込んでいく。
しかし...人類はパンドラの箱を開けてしまった。
あらゆる厄災をこの世に放ったパンドラの箱には、希望だけが閉じ込められている。
箱に閉じ込められた希望を解き放つのは、私たち...の理性と知性でありたい。

新島襄 & 八重

2020-08-07

【19th Century Chronicle 1875年(m8)】-3
  

◎同志社英学校創立
*1875.12.13/京都 新島襄が「同志社英学校(現同志社大学)」を創立する。
  

 新島襄は、若い時にアメリカの地図書や漢訳の聖書と出会い、アメリカへの渡航を志した。友人知人らの協力を得て、箱館から上海経由でアメリカに向かう船に乗り込む。その時の船長に「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、のちに「新島襄」と名乗るようになった。
  

 当地では、渡航した時の船主夫妻らの援助をうけ、ボストンで名門校アマースト大学を卒業、日本人初の学士号取得者となった。そのような努力もあり、当初、密航者として渡米した襄だが、駐米公使森有礼によって正式な留学生として認可された。
  

 明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と出会い、木戸孝允に語学力を買われ、木戸専属の通訳として使節団に参加することになった。以後、使節団と共に、ニューヨークを経てヨーロッパ各地を訪問し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集し、また、文部理事官に随行して欧米各国の教育制度の調査に携わるなど、明治政府の初期の教育制度に大きな影響を与えた。
  

 さらにアメリカで神学校を卒業すると、ボストンで宣教師の資格を得て、明治8年(1875年)11月、日本伝道通信員として横浜に帰着する。その年、京都寺町に自宅を確保するとともに、京都府知事槇村正直や府顧問山本覚馬の賛同を得て、官許「同志社英学校」を自宅に併設し開校する。翌1876年9月、より広い旧薩摩屋敷跡を譲り受け、京都御所と相国寺に南北を挟まれた今出川北側の現在地に移転する。
  

 また同年初めには、山本覚馬の妹八重と結婚している。八重は、会津藩の砲術師範の娘として、会津戦争では銃をとって奮戦した女傑であったが、維新後には、京都府顧問となった実兄山本覚馬を頼って上洛し、「京都女紅場」(女学校の前身、のちの府立第一高女)の教師となっていた。結婚後、八重は、女紅場での経験を生かし、同志社の運営に助言を与えるなど、同志社経営の良き協力者となった。
  

 当時、新島のキリスト教主義の学校建設には、佛教や神道の僧侶神官たちが抗議集会を開き、周囲の住民をも巻き込んで執拗な反対運動が繰り広げ、京都府知事に嘆願書を提出するなど圧力をかけたため、襄との婚約直後に八重は女紅場から解雇されたという。
  

 新島夫妻は、さらには同志社女学校(のちの同志社女子大学)などを設立しながら、大学設立の準備を進めた。1888年(明治21年)、新島襄が起草し、初期の教え子であった徳富蘇峰が添削して、「同志社大学設立の旨意」を発表し、蘇峰自身の経営する民友社発行の『国民之友』をはじめ全国の主要な雑誌・新聞に掲載された。
  

 当時、大学と呼ばれるものは官立の東京大学のみであり、近代の「大学」という学制も確立していなかった。その時期に、正面から大学の必要を論じ、大学のあるべき姿を論じたものとして重要であり、また官立ではなく、民間人による自発的結社という新しい大学の組織原理を提示したという点でも画期的であった。まさに「同志社」とは、「志を同じくする個人の約束による結社」を意味しており、新島の理念を表していた。
  

 新島襄は、大学設立運動中に旅先で倒れ、明治23年(1890年)1月23日死去する。同志社が法的に大学(旧制)として成立するのは、1919年(大正8年)4月に施行される「大学令」をまたねばならず、翌1920年、関西で初めて大学令に基づいて大学に昇格、同志社大学文学部(神学科、英文学科)、法学部(政治学科、経済学科)、大学院、予科を開校した。
  

 大学令で成立した大学の中では、順次設立されていた帝国大学を除くと、私立大学として、新島襄の同志社大学は、福沢諭吉の慶應義塾大学に次ぐ歴史を誇る大学として認知されている。
  

(この年の出来事)
*1875.2.22/大阪 板垣退助を中心とする立志社が、各地の自由民権団体に呼びかけて「愛国社」を結成する。(全国的政党の初め)
*1875.4.14/ 行政機関は左院・右院を廃止し正院に統合、立法機関としては、上院下院になぞらえ「元老院」と「地方官会議」を設け、「大審院」が司法の担うとして、明治天皇から「漸次立憲政体樹立の詔書」が発せられる。
*1875.5.-/北海道 第一回屯田兵が、札幌近郊の琴似に入村する。
*1875.5.7/ロシア ロシアとの間に、「樺太千島交換条約」がペテルブルグで調印される。
*1875.6.28/ 「新聞紙条例」・「讒謗[ざんぼう]律」が公布され、反政府運動・言論の取り締まりが強化される。

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