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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

鈴木大拙

2020-08-19

黒澤明

2020-08-19
完全主義者
かんぜん
言わずと知れた世界の映画巨匠、黒澤明。その代表作に「羅生門」や「七人の侍」、「乱」、「用心棒」などがあり、ヴェネチア映画祭やアカデミー賞など数々の賞を獲得している。黒澤の作品は日本のみならず、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスなど、海外の映画監督にも多大な影響を与えた。黒澤はその生涯で30本の映画を作ったが、そのうち16本もの作品で俳優の三船敏郎とコンビを組んでいる。1957年の「蜘蛛巣城」では、三船が矢に射られ最期は首に刺さって壮絶な死を遂げるシーンがある。黒澤はリアリティを追及するため弓道部の学生を呼んできて、実際に三船に向かって30本ほど矢を打たせたというのだから驚愕である。これにはさすがの三船も「もし間違えて刺さったらどうするんだ!」と激怒したようだ。この黒澤の映画製作に対する厳しい姿勢から、「完全主義」、「黒澤天皇」と呼ばれていた。

井上馨(外務卿)

2020-08-18
◎欧化政策の挫折 *1887.4.20/東京 首相官邸で大仮装舞踏会が催されると、鹿鳴館以来の行き過ぎた欧化主義との批判が高まる。
伊藤の片腕として外務卿に就任、伊藤が我国最初の内閣を組織すると外相として外交を仕切った。
*1887.9.17/ 条約改正交渉の行き詰まりを理由に、井上馨外相が辞任する。

【19th Century Chronicle 1887年(m20)】

◎欧化政策の挫折
*1887.4.20/東京 首相官邸で大仮装舞踏会が催されると、鹿鳴館以来の行き過ぎた欧化主義との批判が高まる。

*1887.9.17/ 条約改正交渉の行き詰まりを理由に、井上馨外相が辞任する。
 

 江戸幕府が欧米列強と結んだ不平等条約の解消は、明治期を通じての政府の懸案となった。修復すべき重要な不平等条約は、「関税自主権の回復」と「治外法権(領事裁判権)の撤廃」であった。「領事裁判権」の完全撤廃は、1894年(明治27年)、陸奥宗光外相により達成された。一方「関税自主権」の完全回復は、1911年(明治44年)、小村壽太郎外相によって達成されるまで、明治末年に及んだ。
 

 条約改正の動きは、明治4年(1871年)の岩倉使節団の米欧巡回に始まる。その第一の目的は、新政府として、江戸幕府が結んだ諸条約の見直しであったが、「未開の国」からの使節団は、改正交渉の相手にしてもらえず、まず欧米の文物や制度を視察してまわることに目的を変更した。
 

 明治11年(1878年)、明治初期の諸制度確立に尽くした大久保利通が暗殺されると、伊藤博文が内務卿として政権の首班となった。井上馨は、伊藤の片腕として外務卿に就任、伊藤が我国最初の内閣を組織すると外相として外交を仕切った。
 

 井上馨はたびたびヨーロッパを視察するなどで、日本が未開国扱いされていることを痛感しており、伊藤と井上は、日本が外交交渉の相手として認めさせるには、欧米に近い文化水準である事を示す必要に迫られた。実際問題として、欧化政策の結果、ある皇族が欧州を訪れたときに、他の欧州王室の一員と同様の礼遇を受けるなど、改善は見られたという。
 

 井上が推進した欧化政策の代表は、明治16年(1883年)に完成した鹿鳴館であった。井上自らが鹿鳴館の主人役を務め、華族・政府高官・各国外交団を集めて夜会などの行事を日夜開いた。1987年(明治20年)4月には、伊藤首相主催で首相官邸で大仮装舞踏会が開かれた。
 

 欧化政策の狂騒を極めたのが、この仮装舞踏会で、内外の名士が趣向を凝らした仮装で参加した。ホストの伊藤夫妻はヴェニチア貴族に扮し、以下、三河万歳・大僧正・弁慶・牛若丸、虚無僧、白拍子、源氏の夕顔などなど、政府重鎮たちがあられもない仮装で乱痴気騒ぎ。あげくの果ては、女好きで鳴らしたホスト伊藤博文が、鹿鳴館社交界の名花と謳われた某伯爵夫人を、裏庭の茂みに誘い込んで怪しげな行為に及ぶというスキャンダルを書き立てられる有り様だった。
 

 この仮装舞踏会は、実際は駐英公使の依頼により会場を貸しただけであったとも言われるが、さまざまな風説が流され、国会開設を控えて、政府批判を強める保守派や民権派は、このような風説を積極的に利用した。民友社の徳富蘇峰ら民権派は、貴族的欧化主義的で上からの欧化だと批判、これらに使われる税金を冗費だと非難した。
 

 一方で、三宅雪嶺ら国粋主義的な保守派は、井上が進める外国人裁判官の起用といった、軟弱な条約改正交渉を批判して、行き過ぎた欧化政策のスキャンダルを交え、伊藤内閣を攻撃した。この時期の状況は「明治20年の危機」とも呼ばれ、両派から挟撃された伊藤内閣は、やむなく井上馨外相を更迭した。民衆に煽り立てられた、井上の鹿鳴館外交への風当たりは厳しいものであり、欧化政策は頓挫することになる。
 

 以後、大日本憲法の発布、帝国議会の開設など、近代国家の制度が確立され、一方で、日清日露での戦勝など、国力を見せつけることによって、もはや欧化政策に頼ることなく、欧米列強と対等な条約を結ぶことになった。
 

(この年の出来事)
*1887.10.3/ 後藤象二郎が丁亥倶楽部を設立し、民権運動諸団体を糾合して「大同団結運動」を起こす。(10.4 各党派の有志が協議)
*1887.10.-/ 高知県の片岡健吉らが、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回の「三大事件建白書」を元老院に提出する。
*1887.12.25/ 保安条例施行。民権運動活動家570名が皇居外3里以遠の地への退去を余儀なくされる。
*1887.6.7/長崎 長崎造船所が三菱に払い下げられる。(のちの三菱造船所)
*1887.6.15/東京 大橋佐平が「博文館」を創業し、「日本大家論集」を出版する。
 

*ブログで読む>https://ehimosesu2nd.blogspot.com/2020/08/19cm21887m20.html

和気清麻呂

2020-08-18
Fb畠山 紘さんの投稿です。    

 おはようございます。

和気清麻呂‥・ご存知ですか?
高直な人柄で、一身の利益を顧みずに忠節を尽くした
産経新聞は、皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物と評した
高直な人柄で、一身の利益を顧みずに忠節を尽くした

清麻呂は楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣と見なされることもあり、戦前には十円紙幣に肖像が印刷された。東京都千代田区大手町の大手濠緑地(気象庁付近)や、岡山県和気町の和気神社境内など、各地に銅像がある。
ある時清麻呂は脚が不自由になって起立できなくなってしまったが、八幡神に拝礼しようとして輿に乗って出発した。豊前国宇佐郡楉田村(現在の大分県宇佐市和気近辺か)に至ると、300頭の野猪が現れて道を挟んで列をなし10里ばかり前駈して山中に走り去った。

野坂昭如

2020-08-16
「オモチャのチャチャチャ」でレコード大賞童謡作詞部門を受賞したあと
小説中央公論に「エロ事師」を連載し始めると、当時の文壇の中央に居た吉行淳之介や三島由紀夫に絶賛され、その後、長編として書き上げて一躍流行作家となった。
野坂昭如の小説家としてのデビュー作。
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