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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

一遍上人

2020-08-23
【一遍とは】
生]延応1(1239).2.15. 伊予
[没]正応2(1289).8.23. 播磨
鎌倉時代の僧。時宗の開祖。 10歳で母に死別し,その後天台を学び,13歳で九州の法然の浄土教の流れである西山派の聖達に師事。 36歳のとき (1274) ,四天王寺,高野山に詣で,熊野で熊野本宮証誠殿に参籠していたところ,「信,不信をえらばず,浄,不浄をきらはず,その札をくばるべし」という啓示を受け,念仏の札を配る念仏賦算の時宗が成立した。以後,13歳のとき改名した智真を一遍と改め,念仏賦算のため,諸国遊行の旅に出た。遊行上人 (ゆぎょうしょうにん) と呼ばれたゆえんである。一遍は,念仏の器には上,中,下の3種類があるといい,最も望ましい像は,妻子をもち家にありながら,しかもそれに執着しないで往生できるもの,それに対し,最も望ましくない形は,それまでの既成仏教のように,妻子も家も万事捨離した出家の形で往生すること,とした。ところで,一遍は妻子や家への執着から離れることができないので,万事を捨てて往生しようとした。ここに,理念のうえでは従来の価値観を逆にしたが,その実践では従来への復古となった。そこに,断食行とか入水往生などという古代仏教の復帰をみるのも当然の理といえる。死の2週間前頃,「一代聖教皆つきて,南無阿弥陀仏になりはてぬ」と述懐し,所持していたすべての書籍などを焼捨てた。そのため,一遍の著作は今日発見されていない。弟子たちの聞き書きである『播州法語集』『一遍聖絵』などによって,その思想を知るしかない。一遍の時宗はそののち,急速に全国に流布盛行したが,真宗の蓮如の段階で急速に衰えた。その理由を教理のないこととみる説がある。一遍は 10世紀の空也 (くうや) を先達とし,踊り念仏をすすめた。また,「捨聖 (すてひじり) 」とも称された。
出典
ブリタニカ国際大百科事典
【時宗とは】
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。
他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町時代までに関しては時衆の名称を用いている。時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。一遍が布教していた同じ時期に、全く別個に一向俊聖も同じような思想を持って布教を行っていた。
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。 時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
時宗(時衆)の語源は、「日常を臨命終「時」(臨終)と心得て、常に念仏を唱える故に「時」宗といわれる」とする説もあるが、時宗総本山の遊行寺のウェブサイトには念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代して念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだ事が起源である、と明記されている。
一遍は聖達より浄土宗西山義を学び、父である河野通広(如仏)は西山上人・証空に師事している。日本浄土教各宗派の中での位置付けは、法然の高弟である証空や聖達を大成者とする西山派を「浄土宗の子」とするならば、証空・聖達の門弟であった一遍の時宗は「浄土宗の孫」という立場になる。
出典Wikipedia
【京都の時宗の寺院】
⚫︎安養寺 (あんようじ)  (東山区) 
⚫︎迎称寺 (こうしょうじ) (左京区) 
⚫︎金光寺 (こんこうじ)  (下京区)
⚫︎正法寺 (しょうぼうじ) (東山区) 
⚫︎染殿地蔵(そめどのじぞう)(中京区) 
⚫︎長楽寺 (ちょうらくじ) (東山区) 
⚫︎白蓮寺 (びゃくれんじ) (山科区) 
⚫︎聞名寺 (もんみょうじ) (左京区) 
【一遍上人絵伝】
一遍上人というと、日本史の教科書に載っていた「一遍上人絵伝」という絵巻を思い出します。
一遍聖絵(いっぺんひじりえ)または、一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)と呼ばれています。
一遍(遊行上人)を描いた絵巻で国宝です。
奥書により、1299年(正安1年)一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草し、法眼の地位にあった画僧の円伊が絵を描いたとあります。独自の踊念仏という信仰を生み出し、全国を遊行して貴賤を問わず広く念仏を勧め、民衆の布教に努めた一遍の活動を忠実に記録し、その活動のようすとともに各地の寺社や名所の景観を取り入れています。
全体的に人物を小さく扱い、背景の自然描写に大きな関心が注がれ、四季の風景を美しく描いた歌絵は名所図絵的な趣を伝えています。
国宝本全12巻は神奈川・清浄光寺蔵(京都・歓喜光寺旧蔵)に収蔵されています。そのうちの第7巻の絵は後補で、元の第7巻は流出後、現在は東京国立博物館に収蔵されています。
【京都にある一遍ゆかりの場所】
一遍は、 弘安7年(1284年)上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なっています。
この染殿院は、四条京極の林万昌堂の脇にあります。
他には 市比賣神社、因幡薬師堂(平等寺)、六波羅蜜寺等があります。また、謡曲「誓願寺」にも和泉式部とともに描かれています。
【謡曲「誓願寺」のあらすじ】
紀州・熊野に参籠した一遍上人は、諸国で「六十万人決定往生」の御札を配るようにという霊夢を得て、都へと上ります。誓願寺に着いて札を配り始めると、多くの人々が集まってきました。
その中に一人の女性が現れ、上人に問い掛けます。
女「この御札を見ると、『六十万人決定往生』と書かれていますが、六十万人より他の人は、往生できないのでしょうか」と、不審がります。
 上人「これは、熊野の夢想にあった四句の文の頭文字を取って、札に書きつけたものです」
女「さて、その四句の文というのは、どういう文句なのですか」
上人「それは『六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離一遍証 人中上々妙好華』の四句の一文字目を取って『六十万人』と書いているのです。どうして往生できる人数を決めるなどということをしましょうか」
女「それはうれしい。人数とは関係なく、南無阿弥陀仏と唱えれば皆往生できるのですね」
いつのまにか夕月が上り、夜の念仏となった。女性がまた上人に話し掛けます。
女「お堂に『誓願寺』と書いている額を懸けていますが、上人が手づから書かれた『南無阿弥陀仏』という文字の額に懸け替えていただけないでしょうか」
上人「これは不思議なことを言われる。『誓願寺』の額をはずして『南無阿弥陀仏』の名号に替えるとは、思いもよらないことです」
女「いや、これもご本尊のお告げだとお考えください」
上人「ご本尊のお告げとは、あなたはいったいどこにお住まいの方ですか」
 女「私の住みかは、あの石塔でございます」
上人「これまた不思議なこと、その石塔は和泉式部のお墓と聞いておりますが、そこにお住まいとは不審なことです」
女「そのようにお疑いにならないでください。私も昔はこの寺に縁があって住んでいたのですから」
と、女性は言って、「偽りはありません、私こそが和泉式部なのです」と告げて、石塔の蔭に消えてしまった。
 上人が額を懸け替えると、あたりに異香が漂って音楽が聞こえてきた。和泉式部は仏果を得て、極楽の歌舞の菩薩となったのである。式部は、誓願寺の由来を語りながら、舞い踊るのであった。
この話は、この寺の縁起を記した「洛陽誓願寺縁起」にも記されています。

伊藤博文と安重根

2020-08-23
標的と鉄砲玉

本居宣長 ・平田篤胤

2020-08-23

佐藤春夫

2020-08-23
Facebook佐々木信雄さんより
【秋刀魚の歌 佐藤春夫】
 久々に秋刀魚が豊漁だというニュースが入ってきた。そこで思い起こす詩といへば・・・
秋刀魚の歌 佐藤春夫
あはれ
秋風よ
情あらば傳へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。
さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てたられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の兒は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。
******
 佐藤春夫の有名な「秋刀魚の歌」の一節だが、これには谷崎潤一郎とその最初の妻千代と、そして谷崎を文学の先輩としてしたう佐藤の、厄介な三角関係が背景にあった。
 谷崎潤一郎は既に新進作家としてスタートしていた29歳の時、芸者だった「石川千代」19歳と結婚式する。「悪魔主義」などという大仰な形容をされた新進作家谷崎にとって、妻としては申し分なくても、女としては平凡な娘であった千代は気に入らなかったようで、娘鮎子をもうけるも、夫婦愛をはぐくむことがなかった。
 15歳になる千代の末妹「せい」は、千代と正反対の奔放な娘であって、これを気に入った谷崎は、千代母子を実家に預けてせいと同棲、せいを思い通りの娘に育てようと、葉山三千子として女優デビューさせたりした。谷崎中期の問題作『痴人の愛』のヒロイン・ナオミは、このせいをモデルにしたものとされる。
 一方、佐藤春夫は谷崎より六歳年少で、文壇デビューを支援してくれた先輩として、小田原に住む谷崎のもとに足しげく通う間柄であった。そんな中で、谷崎の不当な扱いに悩む千代の相談に乗ったりしているうちに、佐藤の千代への同情が愛に変わっていったとされる。一方で谷崎の方では、せいとの結婚を考えて、それを意図的に仕組んでいたふしもある。
 谷崎は千代と鮎子の面倒を佐藤に押し付け、自身はせいに求婚するも「いやぁよ」の一言で拒絶されると、千代との生活によりを戻すことを選ぶ。裏切られ怒り心頭に達した佐藤は、谷崎に絶交宣言をする(小田原事件)。
 その時期の恋情を、佐藤春夫はいささかセンチメンタルに絶唱する、「さんま、さんま さんま苦いか塩つぱいか・・・」
 大正12年関東大震災が起きると、谷崎は京都・神戸といった関西に拠点を移す。やがて、書生として谷崎家に居候していた和田という男と、千代夫人の関係が出来ると、谷崎は千代夫人と和田を一緒にさせようとも考えたが、すでに和解していた佐藤春夫は、若い和田との将来に懸念を抱き、結局和田は立ち去った。この間の経緯は『蓼食ふ蟲』として作品化された。
 そしてやがて世間を驚かせた「細君譲渡事件」が起こる。昭和5年8月、「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、 ・・・」
 このような声明文が、谷崎潤一郎、妻千代、佐藤春夫の三者連名で関係者に送付された。谷崎45歳、佐藤38歳という成熟期の著名文士間での「細君譲渡事件」として、当時の世間をにぎわせた。
 三者満足の結果で他人がとやかく言うことでもないが、事情を知らない世間一般にはとんでもない事だと映ったに違いない。最初の試みから15年、円満離婚に至るまでの谷崎は、対外的には「夫としての立場」を保ち続けたという。

財津一郎

2020-08-28
いが ひろあきさんのコメント
 
財津一郎さん若い頃
「非っ常にキビシ〜ッ!」
「食べてぇ、チョウダィ!」などのギャグ爆烈!
奇怪な動き、
しつこさは最高でした。
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