時機相応
時機相応について 時代の中で、この人は、どう生きたか?
333m、日本一のテレビ塔誕生しました!
【20th Century Chronicle 1958年(s33)】
◎東京タワー完成
*1958.12.23/ 東京都港区芝公園内に東京タワーが完成する。
東京タワーは、東京都港区芝公園にある総合電波塔であり、1958(s33)年当時、自立式鉄塔として333mの世界一高い塔として完成した。2012(h24)年の東京スカイツリーの完成後も、現在日本で二番目の塔である。総合電波塔として建設されたが、この時期に一気に普及したテレビ放送の電波発信塔としての役割が重要であった。その機能は2012年のスカイツリーの完成とともに、地デジ移行と並行して、その役割を委譲した。
スカイツリー完成までの半世紀以上の間、日本一の塔として、富士山と共に日本のシンボル的存在であるとともに、高度成長を続け躍進する日本の精神的支柱の機能も果たしたと考えられる。修学旅行などで東京へ行くというと、東京のイメージとしては真っ先に東京タワーをイメージした。もちろん旅行土産にもタワーのミニ・レプリカやペナントが必ず含まれていたものである。
意外に知られていないが、タワーの建設は、「大阪の新聞王」と呼ばれ、当時は産業経済新聞社などの社主であった前田久吉により進められた。現在でも東京タワーの管理ならびに運営は、独立した日本電波塔株式会社によって行われている。スカイツリーに主要電波塔としての機能を委譲したとはいえ、ラジオや緊急電波など、補完的な電波塔として役割を分担するとともに、いまでも二つの展望台からの眺望は、メガロポリス東京を鳥瞰する最適な場所の一つである。
初代ゴジラの時は、まだ東京タワーはできていなかったので、ゴジラはアンギラスと大阪城で対決した。巨大都市を象徴する建造物を破壊するのは、怪獣映画の最大の醍醐味であり、東京タワー完成後の1961(s36)年に制作された「モスラ」では、さっそくモスラはその幼虫が東京タワーに繭をつむぎ、羽化するときにタワーをへし折るというシーンを見せてくれる。さらに翌年、アメリカからの助っ人キングコングを招聘しての「キングコング対ゴジラ」では、キングコングが美女を抱えて東京タワーに上るという、懐かしのシーンを再現してくれた。
(この年の出来事)
*1958.2.24/ 第2次越冬隊を送るために南極に向った観測船宗谷は、昭和基地に接岸できず。15頭の樺太犬が置き去りにされる。
*1958.5.22/ 2大政党体制下で初の衆議院議員選挙が行われ、自民党が実質的に勝利する。
*1958.11.27/ 皇太子と正田美智子さんの婚約が発表される。
◎学校制度の刷新
【19th Century Chronicle 1872年(m5)】
◎学校制度の刷新
(東京大学の創設)
*1872.旧3.13/東京 明治天皇が、大学東校(現東京大学)に行幸、学校行幸の始めとなった。
東京大学の系譜は、学制の確立していない時期の最初の官学だけに、きわめて錯綜した流れをとった。江戸幕府直轄の教学機関として昌平坂学問所(昌平黌)があり、儒教朱子学を正規の学問とした学問所であった。明治になると「昌平学校」と改称され、さらに高等教育および学校行政を担当する「大学校(本校)」として、高等教育の中枢に据えようとしたが、儒学派・国学派の内紛で廃止されることになる。
神田湯島聖堂に位置した昌平学校は、大学本校として「東京大学」の源流ではあったが、本体としては廃校とされたため、学問的に継承されることはなかった。むしろ、この地に併設された「東京師範学校」や「東京女子師範学校」が、それぞれ後の「東京教育大学(現筑波大学)」と「お茶の水女子大学」の源流となった。「お茶の水」の名称は湯島・お茶の水に由来する。
昌平学校に代って東京大学の実質的源流となったのは、「大学南校」と「大学東校」であった。幕府の蕃書調所に起源をもち、「開成学校」とされたものが「大学南校」となった。その流れから洋書・洋学を扱い、主として外国語と、その内容から文・理にわたる洋学の中心であり、現行の法文理三学部の母体となった。
一方、幕府の医学所に始まる「医学校」は、「大学東校」に改称されるとともに西洋医学にシフトしたが、当初のイギリス医学からドイツ医学中心の医学に変更し、その後の日本医学のドイツ医学重視の流れを決定づけた。南校と東校はそれぞれ「東京開成学校」「東京医学校」と名称変更したあと、明治10(1877)年、法・理・文・医4学部よりなる「旧東京大学」に統合改編された。
東京大学沿革略図 http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/b03_02_j.html
(学制整備)
*1872.旧4.14/京都 京都に「新英学級及女紅場」が開設される。この最初の女紅場は女学校の前身とされ、のち京都府立「京都第一高等女学校」を経て、現在は京都府立「鴨沂(おおき)高等学校」となっている。「女紅場(女工場)」は、女子に対する手芸の教授施設として、以後、全国各地に設置された。
*1872.旧4.15/ 東京芝増上寺内に「開拓使仮学校」が設置された。当初から北海道開拓に当たる人材の育成を目指し、明治8(1875)年、札幌学校として札幌に移転、以後、「札幌農学校」と改称して現「北海道大学」の前身となった。
*1872.旧5.29/東京 教員養成を目的に「師範学校」が創設される。]
*1872.旧8.2/ 国民皆学をめざして「学制」が公布される。「大学・中学・小学」の3段階の学校制度を設け、それぞれ学区が定められた。
「学制」は、明治5(1872)年8月2日に発された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令であり、全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指した。「教育令」の公布により、1879(m12)年9月29日に改変された。
(明治改暦/太陽暦の採用)
*1872.旧11.9/ 太陽暦の採用を布告する。太陰暦明治5年12月3日を明治6(1873)年1月1日とする。
明治5年11月9日、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」とする改暦ノ布告が公布された。それまで「太陰太陽暦(天保暦)」が使用されていたが、「明治5年12月3日をもって明治6年1月1日とする」(グレゴリオ暦1873年1月1日)と定められた。
公布から1カ月の猶予もなく性急な新暦導入が行われたのは、明治政府の財政状況が逼迫していたことが、その理由とされる。旧暦のままだと明治6年は閏月があり、13か月となっていて、月給制に移行した官吏への報酬が年間13回支給となる。そこで、新暦を導入して12か月とし、しかも明治5年12月は2日しかなく支給無しとし、結局月給は11か月分で済ますことになった。新暦導入により新政府は窮地を脱したが、はたしてこれで、給与生活者は損をしたのかどうか(笑)
(この年の出来事)
*1872.旧1.29/ 初めて全国戸籍調査が実施される。この調査で、人口は3311万825人とされた。(壬申戸籍)
*1872.旧3.10/京都 第一回京都博覧会が、本願寺・知恩院・建仁寺を会場として開かれる。13日には余興として、都踊り・鴨川踊り・東山名所踊りの共演があり、都踊りは片山春子(三代目井上八千代)に企画され、祇園歌舞練場で毎年続く行事となった。以後、京都博覧会は毎年開催された。
*1872.旧7.19/東京 参議西郷隆盛が陸軍元帥となり、近衛都督を兼務する。
*1872.旧9.12/ 新橋-横浜間に日本最初の鉄道が開通し、開業式が挙行された。
*1872.旧10.4/群馬 官営富岡製糸工場が開業する。フランス製機械を導入して、機械製糸工場の初めとなった。
◎学校制度の整備
【19th Century Chronicle 1887年(m20)】
◎学校制度の整備
*1887.4.18/宮城・石川 文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決める。
*1887.10.5/ 文部省が図画取調掛を「東京美術学校」、音楽取調掛を「東京音楽学校」と改める。(のちに統合され、現「東京芸術大学」となる)
1887年(明治20年)、文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決め、さらに熊本に第五高等中学校の設立が決まる。前年、東京に第一、京都に第三高等中学校が設立されており、1894年(明治27年)の高等学校令により、それぞれが「高等学校」となる。いわゆる旧制高等学校の「ナンバースクール」の陣容が整った。(別表一覧参照)
同1884年、文部省内に「図画取調掛」が設置され、岡倉覚三(天心)・フェノロサが西欧の図画教育の実態調査を委嘱され、欧州の調査旅行に派遣された。2人の報告に基き、1887年10月、日本最初の美術教員・美術家養成のための機関として「東京美術学校」が設立された。
同時に、文部省の「音楽取調掛」もまた「東京音楽学校」に改組され、日本の音楽教育を担う機関となった。東京美術学校が、伝統的日本美術の保護が学校のルーツであったのに対し、東京音楽学校のルーツは西洋音楽の輸入であったが、以後、両者とも和洋の伝統をふまえた芸術を担うことになった。
旧制専門学校「東京美術学校」と「東京音楽学校」は、日本で最も歴史ある芸術分野の最高学府として位置づけられたが、戦後の学制改革にともない、1949年(昭和24年)、「東京美術学校」と「東京音楽学校」は統合され、新制「東京芸術大学」となった。
(この年の出来事)
*1887.10.3/ 後藤象二郎が丁亥倶楽部を設立し、民権運動諸団体を糾合して「大同団結運動」を起こす。(10.4 各党派の有志が協議)
*1887.10.-/ 高知県の片岡健吉らが、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回の「三大事件建白書」を元老院に提出する。
*1887.12.25/ 保安条例施行。民権運動活動家570名が皇居外3里以遠の地への退去を余儀なくされる。
*1887.6.7/長崎 長崎造船所が三菱に払い下げられる。(のちの三菱造船所)
*1887.6.15/東京 大橋佐平が「博文館」を創業し、「日本大家論集」を出版する。