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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

坂口安吾

2020-09-02
剛健な身体も、戦後カストリ文化の象徴でもあるヒロポンやアドルムといった過激な覚醒剤・睡眠薬で蝕まれおり、1955年(昭和30年)脳出血で突然死、享年48。
 紙屑に囲まれた仕事場の座卓で、下着姿のままでペンをとる坂口安吾の光景もまた、林忠彦の名を世に知らしめた一枚である。上記の織田作や太宰の姿や安吾の仕事風景は、「無頼派」とされる文士たちの文学作品を知らなくても、その作品世界を髣髴とさせる写真だった。

太宰治

2020-09-02
林が「ルパン」で知り合った小田作之助のスナップを撮っていると、「俺も撮れよ」とからんできた酔っ払いが、次の写真に納まった太宰だったという。
1948年(昭和22年)、38歳で三鷹の玉川上水に入水して没する。
織田作之助
1947年(昭和22年)肺結核のため33歳で没。

林忠彦

2020-09-02
【写真家林忠彦と無頼派作家】
 これは「紫煙と文士たち」と題した写真展の 展示作品集である。林忠彦という戦後間もない時期から活躍した写真家で、日本の風俗や文士・風景など多岐にわたる写真を撮影した。
 兵隊靴を履いた足でスツールにあぐらをかいて、めずらしく快活そうに酒を飲んで談笑する太宰治を写した有名な一枚の写真、この写真を撮った写真家として林忠彦の名前を知った。
 まだ戦後闇市が多く残る銀座にあったショットバー「ルパン」には、戦争を生き抜いた文士たちが集まった。なかでも「無頼派」と呼ばれる作家が談笑する場として有名になったのは、やはり林忠彦の作品の印象が圧倒的である。

重光葵(シゲミツ マモル) 外務大臣

2020-09-02
東京湾に停泊中の米国戦艦ミズーリー甲板上です。
相手は、D.マッカーサーでした。

仁科芳雄

2020-08-23
 
『Get Back! 30's / 1939年(s14)』-2
(理研のサイクロトロン)
○2.23 [東京] 理化学研究所の仁科芳雄研究室に世界最大級のサイクロトロンが設置される。
 1931年理化学研究所で仁科研究室を立ち上げた仁科芳雄博士は、当時国内で例を見ない量子論、原子核、X線などの研究を行なっていた。当時未解明であった原子核の構造などを研究するためには、高性能の粒子加速器が必須であり、1937年、仁科研究室では世界で二番目の小型サイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させた。そしてさらに1939年2月には、200トンもの巨大電磁石を備えた大型サイクロトロン本体を完成させ、1944年1月から実験を始めた。
 仁科は、米国の科学技術の進歩を熟知し日米開戦(太平洋戦争)には反対していたが、やがて1941年末に日米間で太平洋戦争が開始される。一方、1938年には原子核分裂の現象が発見され、理論上膨大なエネルギーを得られることが知られていた。核分裂反応を起こすには、ウラニウムのような大きな原子核に、高速に加速された高エネルギーの粒子をぶつける必要があり、その加速装置としてサイクロトロンが必須であった。
 1941年日米開戦が迫るなか、陸軍は秘密裏に理研に研究を依頼し、仁科研究所で原子爆弾の理論的可能性の検討に入った。当時、原子核研究は理研の仁科芳雄グループと大阪大学の長岡半太郎グループが双璧であった。海軍では長岡グループに検討を依頼するが、こちらは早々に実現不可能との結論を受けて断念している。
 1942年12月日米が開戦すると、仁科は各分野の有能な研究者を集め、アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年の1943年頃に、ウランの濃縮分離によって原子爆弾が作れる可能性を報告書によって軍に提示した。ここから本格的に、仁科研究室を中心に原子爆弾の開発研究がおこなわれることになった。
 この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれたが、1945年、戦局悪化のもと米軍の空襲によって設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる。そして期待された巨大サイクロトロンは、資材不足などで満足な利用も出来ず、戦艦大和と同じような不運な終局をむかえる。占領政策で戦前日本の軍事技術を壊滅させるべく、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令により、サイクロトロンは解体され東京湾に投棄された。この処置には、米国の科学者たちからも批判が寄せられたという。
 米軍によって広島・長崎に「新型爆弾」が投下されると、仁科博士は調査団の一員として現地を調査し、これが原子爆弾であると断定した。放射線を計測する満足な装備もなく、レントゲンのフィルムが放射線に感光したことから判定したという。長年の放射線研究や、この広島長崎原爆調査時の被爆などが原因となったのか、1951年60歳、肝臓癌で亡くなる。
 「理化学研究所」は1917年(大正6年)に創設された物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う国内唯一の自然科学系総合研究所である。海外では"RIKEN"の名称で知られ、鈴木梅太郎、寺田寅彦、中谷宇吉郎、長岡半太郎、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄など多くの科学者を輩出した。戦前は理研コンツェルンと呼ばれる企業グループを形成したが、太平洋戦争の終結と共にGHQに解体された。
 1958年(昭和33年)に特殊法人「理化学研究所」として再出発し、現在は「国立研究開発法人理化学研究所」に名称変更されている。理研は大学の研究室のような制約を受けず、潤沢な研究資金でかなり自由な研究を行えた。戦後になると、大学では産業界との癒着が批判され産学共同研究が難しかったが、理研ではそのような制約もなくさまざまな産業製品の開発にも寄与した。
 「理研ヴィタミン」に始まり、合成酒「利久」、理研ゴム(オカモト)、陽画感光紙(リコー)、リケンのふえるわかめちゃん、リケンのノンオイルドレッシングなどなど、身近にある様々な製品を商品化している。あの「小保方さん」も理研の所属だったし、二重国籍じゃ駄目なんだけど、「二位じゃだめなんですか?」の発言で話題となった純粋日本国籍スーパーコンピュータ「京」も理研のプロジェクトだったわけ(笑)
 なお、理化学研究所の森田浩介グループディレクターらが発見し、2015年12月に命名権を得ていた113番の新元素の名称が「ニホニウム」とされた。欧米以外の国で元素を命名するのは初めてであり、今後、教科書などに載る周期表113番目にはニホニウム(Nh)の名前が書き加えられる。
(付記)
 戦前のサイクロトロン開発は、理研仁科研究室と同時的に、阪大菊池正士研究室、京大荒勝文策研究室でも進められていた。
*この年
闇取引が横行、摘発された違反は20万918件/男性はカーキ色の国民服、女性はモンペ着用が推奨される
【事物】集団就職/白紙召集令状/警防団
【流行語】複雑怪奇/日の丸弁当/勤労奉仕/産めよ殖やせよ国のため
【歌】上海ブルース(ディック・ミネ)/父よあなたは強かった(伊藤久男・二葉あき子・霧島昇・松原操)/上海の花売り娘(岡晴夫)
【映画】兄とその妹(島津保次郎)/土と兵隊(田坂具隆)/残菊物語(溝口健二)/望郷(仏)/格子なき牢獄(仏)
【本】高見順「如何なる星の下に」(文芸)/天野貞祐「学生に与ふる書」/羽仁五郎「ミケ」
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