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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

遠藤周作

2020-08-20

『海と毒薬』遠藤周作
 太平洋戦争中、撃墜された爆撃機の搭乗員であった米軍捕虜が、ひそかに生体解剖の実験対象にされたという衝撃的な事件が、終戦後明らかになった。この事件を題材にしたことは間違いないが、著者はこれをセンセーショナルな題材として扱うことなく、細心の注意を払い抑制された筆致で描いている。
 

 タイトルは「海と毒薬」であるが、これに「罪と罰」という対句を重ねると主題は明快になってくる。しかし外形的には、その行為は明確に罪であり、関係者はすでに罰せられているので、ここでそれを再度問いなおすことに意味はない。軍部および医学界の首謀者は、裁判により明確に罪を問われ処罰された。しかしながら、医学助手や看護婦として受動的に関与した脇役にとって、「内面的な罪」はきわめて曖昧となってくる。著者は、これらの受動的に関与した「弱きひと」の内面に焦点を定める。
 

 遠藤周作の作家的テーマは、ずっと一貫している。自我の確立をまたずにカトリックの洗礼を受け、その一神教的世界を深く内面化しつつも、一方で汎神論的な日本人としての心性も強く引き継いでいる。そのような日本人にとっての「神」とは何か、それを一貫した主題として作品化しており、この作品も例外ではない。
 

 二人の医学研修医ないし医学生と、もう一人、離婚して生活のために復帰した看護婦の内面が描かれる。彼らにとっては、関与した事件において、それが罪に値することははっきりと認識されており、処罰されるであろうことも当然と受け止めてられている。しかしながら、なんとなく流れに乗って関わることになり、主体的に参画したわけではない。かといって、拒否できる余地もあったのに、はっきりと拒否もしなかった。
 

 まわりが虫けらのようにどんどん死んでゆく戦争末期において、いずれ自分たちも死んでゆくのだという彼らの意識を、この「なんとなく」という抗いがたい惰性が、どんよりとどす黒い「海」のように取り巻いており、目の前の「毒薬」に手を出すのにもほとんど抵抗がない状況にあったわけである。
 

 理屈ではたしかに罪だと考えているのに、心情ではどうしても腑に落ちない。このような日本人的心性にとって、キリスト教的世界でもっとも理解できない概念が「原罪」ではないだろうか。主体的に行ったわけでもないのに、なぜ罪なのか。何ゆえ、遠い昔のアダムとイヴの世界の罪を背負わなくてはならないのか。
 

 仏教でも似た概念に「業(ごう)」というのがあるが、輪廻転生の世界観のもとで引き起こされる一連の事象であって、必ずしも罪に相当するものではない。因果応報とはいえ、必ずしもその因果が直接的に繋がるものではなく、めぐり合わせの悪さみたいなものに支配された世界観である。その場合、罪を引き受けるのではなく、それが「業」だとしてあきらめるのである。
 

 「これは、はたして罪なのか?」という問いを、遠藤周作は繰り返し問いかける。それはキリスト教との深い関わりの中で出てきた疑問であり問いであるが、たとえわれわれがキリスト教徒ではなくても、キリスト教世界で発生した「近代」の洗礼を受けている以上、もはや無関係ではいられない問いである。あちこちで、その姿を変えて登場して来る問いである。
 

映画『海と毒薬』(1986年/熊井啓) ベルリン国際映画祭・銀熊賞受賞
https://ja.wikipedia.org/…/%E6%B5%B7%E3%81%A8%E6%AF%92%E8%9…
 

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【参考】
*1948.3.11 [神奈川] 横浜軍事裁判所で、九州大学生体解剖事件の軍事裁判が始まる。(1945.5 米軍捕虜8人に対して行われた生体実験殺人)
 

 戦争末期の1945年5月、撃墜された米軍のB-29爆撃機が九州阿蘇山中に墜落し、生存搭乗員9名が捕虜となった。指令部からは、尋問のため機長だけ東京に送り、後は各軍司令部で処理すべしという指令が出され、西部軍司令部は裁判をせずに、残された8名を死刑と決定した。これを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医と石山福二郎主任外科部長(教授)は、生体解剖に供することを軍に提案し認められた。
 

 生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われ、軍から監視要員が派遣され、指揮および執刀は石山教授が行った。終戦後GHQが事件について詳しく調査し、九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。首謀者の一人とされた石山教授は、生体解剖については否認したうえ、調査中に独房で遺書を書き記し自殺し、小森卓軍医は空襲のため死亡している。
 

 1948年8月に横浜軍事法廷で、西部軍責任者2名、九大医師3名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。これらの手術が銃殺刑の代わりの、生存を考慮しない生体実験手術であることは、立ち会った関係者の目には明らかであった。後に作家遠藤周作は小説『海と毒薬』を著し、不可避的に立ち会わされた医学生や看護婦の目を通して、危機的状況の下では、惰性に流されて倫理感を喪失してしまう日本人の性質を描き出している。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20141025

手塚治虫と山下清

2020-08-20
天才と神との出会い
Facebook Syoichi Oonishiさんより

渡哲也という人

2020-08-30
共演者 室井滋の独白
 

 10日に78歳で死去した俳優・渡哲也さんの追悼番組「あの日 あのとき あの番組 俳優 渡哲也さんをしのんで」が30日、NHK総合で放送され、2007年のNHK土曜ドラマ「新マチベン~オトナの出番~」で共演した女優の室井滋(61)が渡さんをしのんだ。

 渡さんに会う前、室井は「憧れの大スターで、お顔の中に星がある人。お顔の中に花がある人はたくさんいらっしゃるんですけど、星がある人は私の中でけっこう特Aみたいな感じで。勝手に自分でそういうふうに思っていて」というイメージを持っていたという。

 「お目にかかったらホントに星があるかなって思ってたら、やっぱりすごく、わっ、ホントに星があるって思って、胸がいっぱいになりました。キラリと」と、そのスーパースターぶりを証言した。

 現場では「じっと私を見つめてくださるというか、何もおっしゃらないんですけど、それがまたドキドキしちゃうというか」と、その目ぢからにときめいたことを告白。

 当時、渡さんは体調がすぐれない時期だったが「すぐお座りになればいいのに、絶対に座ったりなさらないんですよね。きちっとなさってて。ダラダラってふうには絶対ならなくって。逆に私たちににっこりなさって、僕は大丈夫ですよみたいな、まずそういう雰囲気を朝来られたら(出した)」と、プロフェッショナルに徹していたという。

 また、渡さんの魅力の一つとして「お声がすてきで、ちょっと響く、包み込むような、包容力のあるお声。楽器でいうとホルンみたいな感じでしたね」と、声を挙げた室井。

 番組では1978年の「ビッグショー」で、大ヒット曲「くちなしの花」を歌った姿も放送。これを聴いた室井は「声が震えるような、ビブラートっていんですか、声が震えるようなね、ドキドキしました。黒いワイシャツにああいうネクタイがお似合いになりますね、かっこいい」と、ときめきを隠せず。

 また、俳優として「あんなふうな日本男子っていう人っていうのは、昔の日本人の良さみたいなものを俳優として表現できる人ってだんだんもしかしたら減ってきてるかな。その昔ながらの良さみたいなものを、渡さんが大事になさったものを、私たちももう1回ちょっと考えて、そういう日本人にしか持っていない味わいをね、私も出していきたいなというふうに思いました」と、渡さんの残したものを引き継いでいく意志を示していた。

ソ連軍、掟破りの樺太侵攻!

2020-08-20
蘇聯軍侵攻により樺太眞岡局女子電話交換手九名自決致しました。
英霊の本日の出来事

昭和20年8月20日の本日、蘇聯軍侵攻により樺太眞岡局女子電話交換手九名自決致しました。

大東亞戰爭末期の樺太の戰いで、眞岡郵便局の電話交換手が集團自決した事件である。
當時日本領だった樺太では、蘇聯軍と日本軍の戰斗が、昭和20年8月15日の玉音放送後も続いていた。
眞岡郵便局の電話交換手(當時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。
8月20日に眞岡に蘇聯軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。
眞岡郵便局事件、また北のひめゆり(事件)とも呼ばれる。
自決した電話交換手以外に残留していた局員や、當日勤務に就いていなかった職員からも、蘇聯兵による爆殺、射殺による死者が出ており、眞岡局の殉職者は19人にのぼる。

「事件の経緯」
昭和20年8月9日に蘇聯が對日参戰し、8月11日から樺太へも蘇聯軍の侵攻が始まった。
8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決め、8月15日に玉音放送で國民にも公示されたが、樺太では蘇聯軍が侵攻を止めず戰斗が続いた。
昭和20年8月10日、樺太廰・鐵道局・船舶運營會・陸海軍等関係聯絡會議で、樺太島民の緊急疎開要綱が作成され老幼婦女子、病人、不具者の優先的輸送計画が決定された。
8月12日、札幌に樺太廰北海道事務所が設置され、翌13日、大泊港から第1船(宗谷丸606名)が出帆した。
一方、眞岡町を含む西海岸方面の疎開者は15日、眞岡港から海防艦(能登呂)、漁船等で出港するなど、島民の北海道への緊急疎開が開始された。
8月16日、眞岡郵便局長は豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との女子職員に對する緊急疎開命令を通知し、女子職員は各地区ごとの疎開家族と合流して引き揚げさせることにした。
電話交換業務は女子職員の手により成り立っており、引き揚げ後の通信確保のため眞岡中學の1~2年生50人を急ぎ養成することで手筈が決められた。
一方、同日眞岡郵便局の朝禮で主事補の鈴木かずえにより残留交換手に関する説明がなされた。
主事補は緊急疎開命令が出されて職場を離れる交換手が出ている現状を話し、仮に蘇聯軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けてもらえる者は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を説いた。
鈴木の言葉に誰もが手を挙げ、聲を出して残る意思を現した。これに對し鈴木は、本日は希望者を募らないとし、一度家族と相談の上で班長に伝えるよう指示。
後日希望を聞くと告げた。
8月17日、電話担當主事が「全員疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と、局長に報告したため、局長は蘇聯軍進駐後生ずるであろう事態を説くとともに説得にかかったが、応じてもらえなかった。
最終的には、局長が豊原逓信局業務課長との相談で、逓信省海底電線敷設船(小笠原丸)を眞岡に回航させ西海岸の逓信女子職員の疎開輸送に當たらせる了承を得たので、同船が入港したら命令で乗船させることとし、20人だけ交換手を残すことになった。
しかしこの計画は予想以上に早い蘇聯軍の上陸で日の目を見なかった。
先に引き揚げた交換手は、疎開命令が出た後もみな「(通信という)大事な仕事なのでもう少しがんばる」と言い張ったが、局長からは「命令だから」といましめられた。
そして公衆電話から電話交換室に別れの電話をかけると、「頑張ってね」「そのうち私達も行きますからね」「内地へ行ったらその近くの郵便局へ聯絡してすぐ局へつとめるのよ」と残留する交換手たちからかわるがわる励ましの言葉をかけられた。
なお、近年作家の川嶋康男が著書で残留要員選定を命じられたとする斎藤春子の証言があるとしている。
が、後述のように時期が版ごとに變わっていたり、最低必要人員だとする人数を切っても何人もあっさり引き揚げが認められていたと、記述に辻褄の合わない点が多い。
川嶋によると斎藤は昭和20年のある日(具體的な日付は不明。また月も「一瞬の夏」では8月、「永訣の朝」では7月と記述が異なる)、上田局長に最低でも24、5名の残留要員を選考するように命じられたという。
だが、その後残留交換手を募る目立った動きはなく、斎藤は立ち消えになったのかと思ったという。
なお、斎藤は同時に残留組が24、5名となった後にも引き揚げの申し出を受けて自分が二人を残留組から外したとも証言しているという。
また、そこからさらに斎藤自身が残留組から外れることとなる。
斎藤は妹・美枝子とともに残留組に志願していたのだが、母親は上田局長に、娘二人を預けたままでは引き揚げられない、一人は聯れて還りますと電話をかけた。
18日に上田局長に呼び出された斎藤は電話の旨を知らされ、「美枝子さんと二人で相談してどちらか一人引揚げるようにしてください」と告げられたという。
斎藤姉妹は互いに自分が残ると押し問答を繰り返したのち、姉である斎藤が諦め、引き揚げることとなった。
また、川嶋は希望者がいない場合は責任番號順(交換手の経験年数によって付けられる番號順)に残るよう主事補から聞かされたとする証言(葛西節子)もあるとしているがこちらも事実と食い違っている。
最終的に決定した残留交換手20名は比較的経験年数の少ない10代の交換手が多くを占めていた。
20名中10代が全部で何人だったかは不明だが、8月20日當時の高石班11人中6名が10代であり、上野班にも少なくとも1名10代の女子交換手(藤本照子・當時17歳)がいた。
また、前述の斎藤春子は昭和8年入局の古参交換手であるが、前述の通り残留交換手が24、5名からさらに絞られた後に引き揚げ組に加わっている。
8月19日朝、非常體制が敷かれる。
電話・電信業務は、昼夜を通して行われるため、通常3交代制であたっていたが、この時から非常勤務體制となった。
電話交換手の夜間勤務は上野主事補を班長とする上野班と、高石主事補を班長とする高石班に分けられた。
8月19日午後7時過ぎ、電話交換手は夜勤体制になった。
この夜、當直の電話交換手は高石班長以下11名の女性であり、この他に、電信課には、電信主事・平井茂蔵を筆頭に、職員7名の男女(男性5名、女性2名)が勤務していた。
8月20日早朝。
蘇聯軍艦接近の報告が入ると、高石班長は郵便局長・上田豊蔵に緊急聯絡したのを始め、局幹部に緊急聯絡を行った。
緊急聯絡を受けた電話主事・菅原寅次郎は電話交換手・志賀晴代に出勤を求め、電話交換手は12名となった。
非常事態に際し局員たちは郵便局へと向かったが、上陸した蘇聯軍の攻撃は激しく、民間人に對しても無差別攻撃が加えられた。
電信受付の折笠雅子は郵便局へ向かう途中射殺され、避難先の防空壕に手榴弾を投げ込まれて爆死した局員などもいた。
上野班の交換手だった藤本照子も「決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、蘇聯兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした」と語っている。
上田局長も郵便局へと向かったが、栄町二、三丁目の十字街で避難民が背後から撃たれて山膚を転げ落ちるのを目の當たりにした。
十字街には局長の他5、6名が釘付けされていたが、そのうち眞岡署木村巡査部長が弾丸の中を駆け出し、局長の目の前で撃たれて倒れた。
局長と由田与三吉は、巡査部長を家の陰に引きずり込もうとして路上に飛び出し、局長は左手に貫通銃創、由田は右足に盲管銃創を負った。
局長は由田らと図り、若い男性に棒の先に白布を縛り付けさせ、蘇聯兵の目に触れるように振らせた。
これにより、局長らは助かったものの、直ちに海岸の倉庫に聯行された。
緊急聯絡からおよそ1時間後、蘇聯軍艦が眞岡灣に現われ、2艘の舟艇が上陸を試みる(露西亜側資料によれば、上陸開始時刻は午前7時33分である)。
蘇聯艦隊から艦砲射撃も始まった。
眞岡上陸作戰について蘇聯側戰史は「今や蘇聯軍の任務は、いかに迅速に樺太南部地区を占領して日本軍隊とその物資財貨の本土引揚を阻止するかということにしぼられた」と述べていた。
なお、艦砲射撃に至った経緯ははっきりしていないが、蘇聯側が先に空砲を撃ったという点では、概ね一致している。
実弾を蘇聯側と日本側のどちらが先に撃ったかについてはわからないとする証言・見解が多い。
この當時、眞岡郵便局には平屋建ての本館と、2階建ての別館があった。
電話交換業務は別館2階で行われていた。
8月20日に蘇聯軍艦からの艦砲射撃が開始されると、眞岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立することになった。
高石班長が青酸カリで服毒自決、続いて代務を務める可香谷が自決(注意:自決の経緯については激しい銃砲火の中だったことや生存者が少ないことなどから、証言が錯綜しており、高石班長はむしろ若い交換手をなだめたとするものや、青酸カリを分け合って年齢の高い順に飲んだとするものがある)。
この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ或いはモルヒネで自決した。
この間、電話交換手は、泊居郵便局、豊原郵便局などに電話聯絡している。
この後、伊藤は、既に7名が自決し、自分も続くことを泊居郵便局に聯絡。
更に、蘭泊郵便局へも同様の聯絡をした。
この時点では、伊藤のほか境、川島、松橋、岡田の4名が生存していた。
伊藤は、続いて、内線電話で電信課へ自決を聯絡し、服毒。
この時点で、松橋も自決をしていたので、殉職者9名、生存者3名となった。
急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出し、本館へ移動させた。
一方、本館では、戰斗が始まって郵便局舎も被弾するようになり、被弾を恐れた女性達は、奥の押入れに隠れた。
境、川島救出後暫くして蘇聯兵が現われると、最初は男性局員のみが応對し、女性はそのまま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現した。
金品の略奪はあった。
その後、局員は港の倉庫へ移動した。
電話交換手のもう一人の生き残りである岡田は、その後、港の倉庫に移った。
事件から10日以上経ってから遺體は仮埋葬され、12月に火葬・本葬が行われた。

「事件後の眞岡郵便局」
事件から1ヶ月程経つと眞岡の町も平静を取り戻し、進駐軍命令で郵便局も業務を再開した。
局の各部署には元の局員が就業すると共に、蘇聯の局員も配置された。
業務は先ず露西亜語を學ぶことから始められた。
間もなくして、露西亜語による電話の取次ぎを日本人局員により行えるようになった。
給与は日本時代よりも多かったが、蘇聯人局員は更に高給だった。
蘇聯人が業務に慣れるにつれ、日本人局員は蘇聯人の部下として配属されるようになった。

「慰靈碑」
北海道稚内市の稚内公園にある「殉職九人の乙女の碑(九人の乙女の像)」はこの事件を慰霊するものである。
當初、碑文には以下のように、自決は日本軍の命令であると記されていた(…は省略)。
『昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた眞岡電話局に勤務する九人の乙女は、青酸カリを渡され最後の交換臺に向かった。蘇聯軍上陸と同時に、日本軍の命ずるまま青酸カリをのみ、…』
しかし実際には軍命令は無く、生存者もおり、公務殉職として叙勲しようとの機運も高まった事から、次のように書き換えられた(…は省略)。
『…その中で交換臺に向った九人の乙女らは、死を以って己の職場を守った。…静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた…』
自殺した9名は公務殉職として、昭和48年3月31日付けで勲八等宝冠章を受勲した。
また、靖國神社に合祀されている。
これとは別に北海道側にあった猿払村の中継所跡にも最後の一文が碑に刻まれている。

(ウィキペディア参照。)

A級戦犯対象者

2020-08-20
公判への移送バスの風景(巣鴨⇔市ヶ谷)
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