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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

ビクトリア女王

2020-09-01
20世紀という時代
Facebook佐々木信雄さんの投稿
◎20世紀が始まる-1
*1901.1.1/ 近代的教育システムを導入し、新時代を担う学校として創設された慶応義塾大学で、「19世紀・20世紀の送迎会」なる催しが開かれ、新世紀の到来を祝った。
*1901.1.22/英 7つの海を制した大英帝国に、60年にわたり君臨したビクトリア女王が死去。
*1901.2.5/ 官営八幡製鉄所スタート。近代化をめざし、第1溶鉱炉に火が入る。
  20世紀の最初となるこの年、大英帝国に63年にわたって君臨したビクトリア女王が死去し、7つの海を制した大英帝国繁栄の歴史に一つの区切りがついた。女王の治世末期には、さしもの大英帝国の国力にも陰りが見られ、ドイツ、アメリカ、日本などの後発が、その地位を揺るがすようになると、まもなく栄光の孤立を捨て日英同盟を結ぶなど、列強間の力のバランスを保つ努力にむかう。

永井荷風

2020-09-01
Syoichi Oonishi昭和レトロ  女好きで助平な普通のオッさんではないです

笠置シズ子

2020-08-28
僕が知った時はおばさん役の脇役女優でした。でもエルビスよりも十年早くロックンロールの前身ブギウギを歌って登場し、戦後の明るさを体現したアイドルでした。美空ひばりが敬愛したシンガーでしたね

道元

2020-08-28
さて、今日は 「道元忌」です。
曹洞宗の開祖・道元の1253(建長5)年の忌日です。お名前は聞いたことはあるけれど、どんな方かご存知でしょうか。
【 道元(どうげん)】
写真引用
Wikipedia
[生]正治2(1200).1.2. 京都
[没]建長5(1253).8.28. 京都
鎌倉時代の禅僧で,日本曹洞宗の宗祖。号は希玄。内大臣源通親と太政大臣藤原基房の娘の子。宇治木幡(京都府)に生まれるが,幼くして両親を失う。13歳のときに,外叔父の良観を頼って比叡山を訪ね翌年の建保1(1213)年,剃髪して仏門に入る。園城寺の公胤にも学ぶが,天台宗に疑問を持ち,建仁寺に赴いて栄西の弟子・明全に参じた。その後,貞応2(1223)年,明全と共に宋に渡る。諸山を遍歴したのち,入宋2年目に天童山の如浄 に師事,学ぶこと3年,そこで悟りをうる。安貞1(1227)年,28歳の夏に帰国。仏法の正門は座禅にあるとし,寛喜2(1230)年ごろに『正法眼蔵』を書き始めた。34歳で京都・深草に興聖宝林禅寺を開き,説法と執筆にいそしむ。徹通義介などが相次いで入門してきたが,道元に対する天台宗からの圧迫は激しくなり,寛元1(1243)年7月,越前(福井県)に移り翌年に大仏寺を開いた。のち永平寺と改め,同寺を孤雲懐奘に譲り,54歳の夏に入寂。 道元は知的な宗教思想家として知られるが,それは彼が,座禅と修行を重んじたことと矛盾しない。比叡山で,「本来本法性 天然自性身」(人はみな本来仏法をそなえており,そのままですでに仏である)なる言葉に出あい,では,人はなぜ修行しなければならないのか,と疑問を持ったことが,彼の仏道究学の出発点となる。後年,入宋して如浄のもとで座禅に励むうちに,如浄が居眠りする僧を叱責するのを聞いてたちまち悟りをえ,「身心脱落」の一語を得た。以来,自己に本来そなわっている仏法も,修行によって初めて現れ成就するものだという確信が,その仏法の基盤となる。この「身心脱落」の境地は,いいかえれば,世界の真理の体得の境地でもあった。修行によって自己の身心が澄み切った水のごとく透明になるとき,そこに世界の森羅万象が隠れなく映し出されることになる。 そのさまは,『正法眼蔵』1巻の「仏道をならふといふは自己をならふ也。自己をならふといふは自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは,万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは,自己の身心をよび他己の身心をして脱落せしむるなり」と語られている。 道元においては,このように悟りと修行と済度(未だ悟らぬ人々を救うこと)がすべてひとつながりとなっている。また,その悟りは,各人の勝手な思い込みによるものではなくて,釈迦から代々の仏祖を通じて「正伝」してきたものとしてとらえられている。自らの教えを,ただ「仏道」とよんだのも,それが釈迦の教えの正しい伝承・再現であるという自信の故であった。『正法眼蔵』の他,『永平広録』『学道用心集』などがある。
出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
道元さんは、藤原四家のひとつ、松殿の流れをくむ方でした。
○道元ゆかりの京都
⚫ 誕生山妙覚寺(通称誕生寺)
誕生寺は、道元禅師の生誕地を顕彰するために大正時代に創建、昭和になって完成した新しい寺院で
・住所
京都府京都市伏見区久我元町3−1
・アクセス
京都市バス「久我」下車徒歩約2分
⚫ 道元禅師示寂の地(駒札より)
建長5年(1253)、病の療養のために弟子懐奘を伴って上洛し、この地(下京区高辻通西洞院西入)にあった俗弟子覚念の屋敷に滞在し、同年8月に54歳の生涯を閉じた。
下京区高辻通西洞院西入永養寺町
⚫ 道元荼毘の地・曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺蹟之塔
西行庵南、高台寺境内北の墓地内に、道元荼毘の地があります。かつてこの地は、建仁寺三味処であったという。現在は、「曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺蹟之塔」の石標、宝篋印塔が立てられ、日本曹洞宗開祖・道元ゆかりの地になっている。
墓は永平寺 にあります。
京都市東山区下河原町
『京都道元禅師を歩く』百瀬明治 杉田博明 西山治朗(写真) 京都新聞社
【京都の曹洞宗の寺院】
曹洞宗の本山は、福井県の永平寺です。
京都市内にあるよく知られた曹洞宗の寺院です。
⚫︎詩仙堂
徳川家康の家臣、石川丈山の山荘跡ですが、
曹洞宗の寺院でもあり丈山寺といいます。
京都市左京区一乗寺門口町27
市バス「一乗寺下り松町」下車 徒歩約7分
叡山電車「一乗寺駅」下車 徒歩約15分
⚫︎源光庵
1346年に臨済宗大徳寺の徹翁義亨の隠居所として開基されましたが、その後、1694年に卍山道白により曹洞宗に改宗されています。
現在、源光庵は庫裏改修工事のため、拝観を長期休止しています。拝観再開は2021年秋頃を予定しています。
市バス鷹峯源光庵前 下車

F.サガン と ビュフェ

2020-08-20
 

 「フランソワーズ・サガン」は、18歳で出版された『悲しみよ こんにちは』で文壇に登場し、以後、プチブル階級の男女の複雑関係を描き続けた。若年での成功で、パリ、サン=ジェルマン=デ=プレで文学者ら名士らと交遊したが、当然悪い取り巻きも集まり、ドラッグ・アルコール・ギャンブル、バイセクなどゴシップクイーンとしても名を馳せた。晩年は経済破綻と薬物中毒に悩まされつつ、69歳で死去。

 

 「わたしが大嫌いなものはお金で買うことのできるものではなく、お金によって作られる人間関係やお金が大部分のフランス人に課している生活態度なのです」――プチブルに生まれ、プチブルから一歩も出ようとせず、プチブルの裏表世界を知り尽くした彼女の言葉であった。

 

 「悲しみよこんにちは」を読んで18歳の少女の才能に驚いた私は、さらに『ブラームスはお好き』を読んだ。新潮文庫版のカバーは、当時ブームだったベルナール・ビュフェのリトグラフがデザインされていた。「ブラームスはお好き」は、イヴ・モンタン&イングリッド・バーグマン主演で『さよならをもう一度』(1961)として映画化されたようだ。

http://blog.goo.ne.jp/wa…/e/7d3e55ca4f4b9fca99497a57a235f268

 

 「ベルナール・ビュフェ」は、パリで権威のある新人賞・批評家賞を受賞、若くして天才画家として有名になった。鋭く直截的な輪郭線、モノトーンに近い明瞭な色彩で、無機質で機能的な都会生活での不安や苛立ちを表象した。日本でもバブル期、大企業のオフィスに最適な絵画として、リトグラフ作品がよく掲げられていた。

 

 ビュフェは、あまりにも早い時期に名声を得すぎたため、さらに、その素人にも分かりやすい画風のせいで、後年の作品ではマンネリ化が指摘され、飽きられていった。孤独にさいなまれる中で、パーキンソン病をも患い、71歳で自らの命を絶つ。

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