本文へ移動

時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

五代友厚

2020-08-16
大阪復権の功労者

【19th Century Chronicle 1885年(m18)】

◎明治の二大政商 岩崎弥太郎・五代友厚
*1885.2.7/ 土佐出身で、三菱会社の総帥岩崎弥太郎(52)没。
*1885.9.25/ 薩摩出身で、関西の経済界の発展に尽くした五代友厚(51)没。
 

<五代友厚>
 「五代友厚」は、薩摩藩の上級武士の次男として生まれ、質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、聖堂に進学して文武ともに学んだ。安政元年(1854年)、ペリーが浦賀沖に来航すると、五代は、まさにこの時とばかりと意志を強めたとされ、開国論者の立場に立って、長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され航海術を学ぶ。
 

 文久3年(1863年)、生麦事件によって発生した薩英戦争では、乗船していた藩船ごとイギリス海軍の捕虜となるが、小舟にてイギリス艦から脱出する。ただし武士魂を重視する薩摩国元では、捕虜となったことが批判され、しばらくは薩摩に帰国できなかったという逸話もある。
 

 慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国を含む欧州各地を巡歴、この時の経験が、のちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。慶応2年(1866年)には、薩摩藩の商事を担う役職を任され、長崎のグラバーと提携して事業を始めるなど、実業家の手腕を発揮し始めた。
 

 戊辰戦争が勃発すると、五代は薩摩武士として西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。その結果、明治維新となると、新政府の参与職外国事務掛となり、大阪に赴任すると、渉外担当として諸事件の外交処理にあたった。さらに大阪に造幣寮(現造幣局)を誘致して初代大阪税関長となり、大阪税関の基礎を築いた。
 

 明治2年(1869年)に退官すると、民間人として実業界で手腕を発揮した。薩長藩閥政府との結びつきも強く、明治8年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らの「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。
 

 大阪財界の再建にも寄与が多く、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現大阪市立大学)などの設立に関わり、民間としても、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現南海電気鉄道)などを設立した。その功を讃えて、鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前には、五代友厚の銅像が建立されている。
 

 民間実業家としての五代は、早くから富国策としての鉱山業に着目し、明治政府から多くの鉱脈の発掘許可を得ると、各地の鉱山で採掘を展開し、「鉱山王」とも称せられ、これらは五代が政商と呼ばれる因ともなるが、五代の死後にはほとんど遺産は残されず、むしろ借金が残ったと言う。現大阪商工会議所の起点となる「大阪商法会議所」の設立にみられるように、五代友厚の功績は、商都大阪の再建に尽くした業績に示されたと言うべきであろう。
 

岩崎弥太郎

2020-08-16
スリーダイヤモンドの元祖

【19th Century Chronicle 1885年(m18)】

◎明治の二大政商 岩崎弥太郎・五代友厚
*1885.2.7/ 土佐出身で、三菱会社の総帥岩崎弥太郎(52)没。
*1885.9.25/ 薩摩出身で、関西の経済界の発展に尽くした五代友厚(51)没。
 

<岩崎弥太郎>
 明治前半の動乱期に、政商として名を馳せた二人の財界巨星が、相次いで亡くなった。「岩崎弥太郎」は、土佐の地下浪人の長男として生まれた。郷士身分さえ売り渡して、最低辺の武士として極貧の中で育った。やがて、蟄居中の吉田東洋が開いた私塾で学び、後藤象二郎らの知遇を得ることで、頭角をあらわす契機となった。
 

 坂本龍馬が暗殺されたため海援隊が解散されると、あとを引き継ぐ形で、私企業として設立された九十九商会の経営者となり、外国船が牛耳る海運業で、唯一国内海運業として奮闘した。明治6年、「三菱商会」へ社名変更すると、本社を大阪から東京に移し、本格的に政府に食い込み、多大な利益を上げるようになる。
 

 明治新政府が貨幣の全国統一化に乗り出し、各藩が発行した藩札の整理のため、新政府が買い上げるとの方針を事前に察知した弥太郎は、藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を伝えたのは、新政府の高官となっていた盟友後藤象二郎であり、早くも、弥太郎は政商としての才を発現させた。
 

 明治7年(1874年)の台湾出兵では、三菱が政府の軍事輸送を一手に引き受け、政府も外国船を購入し運航を三菱に委託するなど、政府と一体となった輸送事業は暴利を得た。さらに明治10年(1877年)の西南戦争では、政府の徴用に応じて三菱は社船38隻を軍事輸送に注ぎ、政府の軍事輸送全般を担った。三菱は、日本の汽船総数の73%を占めるなど、繁栄を極めた。
 

 やがて、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。明治11年紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年の政変では大隈重信が失脚し、弥太郎は強力な政府内の後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨などから三菱批判の声が高まった。
 

 明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥など反三菱財閥勢力が協力し、「共同運輸会社」を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは、苛酷なダンピング競争を繰り返し、その最中、明治18年(1885年)2月7日、岩崎弥太郎は満50歳で死去する。
 

 弥太郎の死後、政府の調停で、三菱商会は共同運輸会社と合併して「日本郵船」となり、弟の弥之助が三菱の総帥として弥太郎の後継となった。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの分野に多角化投資し、新組織として「三菱社」を創設し、これが三菱財閥の祖となった。
 

(この年の出来事)
*1885.1.27/神奈川 第一回官約移民が、ハワイに向けて横浜港を出港する。
*1885.2./- 尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らが発起人となって、文学結社「硯友社」を結成する。
*1885.3.16/ 福沢諭吉が、時事新報に「脱亜論」を発表する。
*1885.5.2/東京 硯友社から、最初の文芸雑誌「我楽多文庫」が創刊される。
*1885.5.9/ 日本銀行が、最初の兌換銀行券10円券を発行する。
*1885.6.6/ 松方正義大蔵卿の建議により、政府発行紙幣を明年1月から銀貨に兌換し、償却数ことを定める。(銀本位制)
*1885.7./- 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社との競争が激化する。
*1885.8.1/ 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社とが、競争停止の政府勧告を受け、両社合併方針の受け入れを示す。
*1885.9.29/ 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併による「日本郵船会社」の設立許可が下り、10月1日より開業。
*1885.11.23/大阪 大井憲太郎らの朝鮮でのクーデター計画が発覚し、逮捕される。(大阪事件)
*1885.12.10/ 文部省が省内に「図画取調係」を置く。のちの東京美術学校。

渡哲也

2020-08-14

渡さんは1941年に島根・安来市に生まれ、兵庫・淡路島で育った。
青学大在学中の64年、浅丘ルリ子(80)が主演した映画「執炎」の相手役に実弟、渡瀬恒彦さん(のちに俳優、2017年死去、享年72)がこっそり応募。
それがきっかけで日活にスタウトされ、65年に映画「あばれ騎士道」の主演で俳優としての一歩を踏み出した。
また、同年に「純愛のブルース」で歌手デビューも飾った。  
裕次郎さんとはデビュー前、日活の食堂で初対面した際に励ましの言葉をもらい感激。
給料の交渉までしてくれたことを知って、さらに心酔し、背中を追い続けた。  
日活がロマンポルノ路線へ転換した71年には、裕次郎さんが設立した石原プロへ迷うことなく入社。
同プロ制作の日本テレビ系「大都会」シリーズ、テレビ朝日系「西部警察」では角刈りサングラスの大門圭介部長刑事を演じ、巨悪との銃撃戦やカーチェイス、爆破シーンの数々は国民をくぎ付けにした。  
歌手としても、73年に「くちなしの花」が150万枚の大ヒットを記録し、74年と93年のNHK紅白歌合戦に出場して同曲を歌った。
一方で病に悩まされ続けた。
74年に胸膜炎を患い、主演を射止めたNHK大河ドラマ「勝海舟」を途中降板。
91年には直腸がん手術でオストメイト(人工肛門使用者)になったことを告白した。

室井滋の独白

 10日に78歳で死去した俳優・渡哲也さんの追悼番組「あの日 あのとき あの番組 俳優 渡哲也さんをしのんで」が30日、NHK総合で放送され、2007年のNHK土曜ドラマ「新マチベン~オトナの出番~」で共演した女優の室井滋(61)が渡さんをしのんだ。

 渡さんに会う前、室井は「憧れの大スターで、お顔の中に星がある人。お顔の中に花がある人はたくさんいらっしゃるんですけど、星がある人は私の中でけっこう特Aみたいな感じで。勝手に自分でそういうふうに思っていて」というイメージを持っていたという。

 「お目にかかったらホントに星があるかなって思ってたら、やっぱりすごく、わっ、ホントに星があるって思って、胸がいっぱいになりました。キラリと」と、そのスーパースターぶりを証言した。

 現場では「じっと私を見つめてくださるというか、何もおっしゃらないんですけど、それがまたドキドキしちゃうというか」と、その目ぢからにときめいたことを告白。

 当時、渡さんは体調がすぐれない時期だったが「すぐお座りになればいいのに、絶対に座ったりなさらないんですよね。きちっとなさってて。ダラダラってふうには絶対ならなくって。逆に私たちににっこりなさって、僕は大丈夫ですよみたいな、まずそういう雰囲気を朝来られたら(出した)」と、プロフェッショナルに徹していたという。

 また、渡さんの魅力の一つとして「お声がすてきで、ちょっと響く、包み込むような、包容力のあるお声。楽器でいうとホルンみたいな感じでしたね」と、声を挙げた室井。

 番組では1978年の「ビッグショー」で、大ヒット曲「くちなしの花」を歌った姿も放送。これを聴いた室井は「声が震えるような、ビブラートっていんですか、声が震えるようなね、ドキドキしました。黒いワイシャツにああいうネクタイがお似合いになりますね、かっこいい」と、ときめきを隠せず。

 また、俳優として「あんなふうな日本男子っていう人っていうのは、昔の日本人の良さみたいなものを俳優として表現できる人ってだんだんもしかしたら減ってきてるかな。その昔ながらの良さみたいなものを、渡さんが大事になさったものを、私たちももう1回ちょっと考えて、そういう日本人にしか持っていない味わいをね、私も出していきたいなというふうに思いました」と、渡さんの残したものを引き継いでいく意志を示していた。

岸田俊子(中島湘煙)

2020-08-14

【19th Century Chronicle 1883年(m16)】 

◎女性民権運動の先駆 岸田俊子(中島湘煙)

*1883.10.12/滋賀 女性民権運動の先駆岸田俊子(中島湘煙)が、大津で「函入娘」の題で演説し、内容が政治演説だとして、集会条例違反で拘引される。
 

 岸田俊子は、万延元年(1861年)12月4日に(1864年とも)、京都の呉服商小松屋の岸田茂兵衛の長女トシとして生まれる。幼少より利発で、新設されたばかりの公立小中学校に入ると、神童と呼ばれた。ときの京都府知事槇村正直に会ったさいに、お前の名には「俊」の字がふさわしいと言われ、以後は俊子と名乗ったといわれる。
 

 槙村らの推挙で、宮中に文事御用掛として出仕し、皇后(昭憲皇太后)に漢学を進講するも、宮中のしきたりに矛盾を感じ、やがて御用掛を辞する。その後各地を遊歴し、高知で自由党員と知り合い、自由民権運動に加わることになった。明治15年(1882年)大阪で立憲政党が結党されると、政談演説会では俊子も弁士として演説、「婦女の道」を説いて喝采を受けた。
 

 江戸時代の「女大学」にいう「女三従の教え」が婦女子の道とされた時代に、その不合理さや女子教育の必要性などを説き、非常に評判となった。以後二年間、先覚者として男女同権論、女権伸長を唱えて全国を遊説し、岡山の景山(福田)英子など、各地の若い女性を鼓舞した。
 

 自由民権運動が勃興したばかりの時期に、男性が大半の自由党員らと接しながら、男女同権で、女権伸長を称えた俊子は、日本における女権論者の先駆といえる。同年代に津田梅子などが居るが、梅子が二度にわたる米国留学から帰国して、英語教師として教鞭を執り始める時期よりも、さらに俊子の活動は先行していた。
 

 全国を遊説するなか、大津で「函入娘」の題で演説したとき、政治演説だとして集会条例違反で拘引留置され罰金刑を受ける。その後活動の場を文筆中心に移し、明治17年(1884)自由党機関紙に「同胞姉妹に告ぐ」を発表、男本位の社会や民権運動の中の女性差別を鋭く指摘し、女性による初の男女平等論とされている。
 

 「同胞姉妹に告ぐ」で、「我が親しく愛しき姉よ妹よ、旧弊を改め、習慣を破りて、彼の心なき男らの迷いの夢を打ち破りたまえや」と高らかに唱えたときは、平塚雷鳥が「青鞜」を発刊し、与謝野晶子や福田英子ら女権論者が寄稿し始める明治末年よりも、四半世紀以上も先行していた。
 

 この時期、自由党副総理中島信行と結婚し、中島俊子となり、雅号として「中島湘煙」と名乗った。俊子の活発な政治活動は二年ばかりであったが、その後も、女性の地位向上をめざす評論・随筆・漢詩や小説を発表し、女性解放を目指す進歩的女性として活躍した。また、この間、フェリス和英女学校でも教鞭を執る。
 

 明治25年(1892)、中島信行がイタリア公使として赴任し夫に同行するが、夫婦ともに肺結核にかかり、病状重く帰国した。夫が先に世を去り、俊子も明治34年(1901年)5月、死去する。享年39(数え年)。

伊藤博文

2020-08-16
◎初代総理大臣 伊藤博文 *1885.12.22/ 太政官制が廃止され、内閣総理大臣と各大臣が置かれ、内閣が構成される。初代総理大臣に伊藤博文が就任する。(内閣制度の確立)
TOPへ戻る