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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

万国博覧会

2020-12-12
1970年3月14日から9月13日の半年にわたって開催された「日本万国博覧会”EXPO'70”」(大阪万国博)
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1970年(s45)】
◎「進歩と調和」をテーマに万国博がオープン(大阪万博)
*1970.3.14/ 「日本万国博覧会”EXPO'70”」(大阪万博)が開催される。(~9.13)
 1970年3月14日から9月13日の半年にわたって開催された「日本万国博覧会”EXPO'70”」(大阪万国博)は、大阪府吹田市の千里丘陵で、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加して繰りひろげられた。戦後高度成長の到達点として、世界第二の経済大国になった日本を世界に披露する象徴的な博覧会であった。
 神戸に下宿していたので、両親をつれて一度だけ観に行った。アメリカ、ソ連、日本館などは長蛇の列で、ほかのマイナーな国や企業館だけを見学した。全般に、ブラウン管テレビをはめ込んだマルチスクリーンの映像だけが目立った。いまだパソコンは登場しておらず、エレクトロニクスといってもテレビ映像技術が中心だったようだ。
 ある意味で技術の頭打ち感のあった時期で、大阪万博でその後に残された技術はあまり思い当たらない。せいぜいが、タカラ・ビューティリオンで黒川紀章の提唱したユニット・ルームぐらいか。その概念が行かされて、カプセルホテルになっている。そして記憶に残されたのは、世界的芸術家岡本太郎の「太陽の塔」と、国民的歌手三波春男歌う、大阪万博テーマソング「世界の国からこんにちは」だった。
「世界の国からこんにちは」 https://www.youtube.com/watch?v=5f1ekoSYGnI
(この年の出来事)
*1970.2.11/ 東大宇宙航空研究所が国産初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功する。
*1970.3.31/ 八幡・富士両製鉄が合併し、新日本鉄鋼(新日鉄)が発足する。
*1970.5.12/ 山口県で検問の警官を刺した男が、広島市で銃を強奪、瀬戸内海汽船の定期観光船を乗っ取る。13日、狙撃隊の警官に射殺される。(瀬戸内海シージャック事件)
*1970.6.23/ 日米安保条約が自動延長される。全国で77万人が反安保闘争を展開する。
*1970.7.18/ 東京都杉並区の高校運動場で、女生徒40人余りが吐き気などを訴えて倒れる。都公害研究所は「光化学スモッグ」と判定する。
*1970.12.18/ 公害対策基本法改正法・水室汚濁防止法など、公害関係14法案が成立し、'70年は「公害元年」とされた。(12.25公布)
*1970.12.20/ 沖縄コザ市(沖縄市)で、米兵の運転する車の事故処理を巡って、米憲兵隊と市民の衝突が起こる。(コザ事件)

痩せたソクラテス達の行動

2020-12-08
闘いの舞台は、東大安田講堂でした。
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【20th Century Chronicle 1969年(s44)】
◎東大安田講堂に機動隊導入
*1969.1.18/ 東大に機動隊が導入され、翌19日、安田講堂の封鎖が解除される。
 1968(s43)年、過激化する新左翼系学生運動とは一線を分かち、東大や日大で始まった「全共闘運動」は、一般学生が中心になって、大学個別の問題を取り上げ、「大衆団交」という形で交渉し、それが受け入れられないときには大学の「バリケード封鎖」という形で実力行使をするという運動を展開し、その活動は全国の大学に飛び火していった。
 そして各セクトに分かれて抗争を繰り返していた新左翼系過激派学生も、全共闘活動に入り込んで、その組織力で一般学生を排除し、各大学の全共闘を支配するようになった。そして各大学固有の問題から始まった全共闘活動は、68年後半ごろには、70年安保闘争を踏まえた反体制反政府運動へとシフトしていた。
 これらの一般ノンポリ学生や新左翼セクト学生らが入り交じって過激化した全共闘活動は、全国の著名大学でバリケード大学封鎖というかたちで、大学の機能を失わせ、バリケード内でセクト同士が主導権争いの内ゲバを繰り返し、大半の大学が無法地帯と化していた。
 そのような状況下で、当時の佐藤政権も動き出し、大学への警察力の投入も不可欠と考え出していた。なかでも全共闘運動の象徴ともなっていた東大では、加藤一郎総長代行と教授会は、1969(s44)年1月、ついに機動隊の出動を要請した。当時は「大学自治」が金科玉条であり、構内に警察権力を導入するのは、大学の自殺行為と考えられていた。
 大学側の苦渋の決断として要請された機動隊は、1969(s44)年1月18日午前7時ごろから、順次、封鎖された大学構内の各棟のバリケードを解除していった。そして午後1時ごろには、まさに東大紛争のシンボルとなった「安田講堂」の封鎖解除に取り掛かった。しかし、強固なバリケードと、事前に準備された上部階からの火炎瓶や敷石の投石、ガソリンや硫酸といった劇物の散布など、学生の予想以上の抵抗に遭った。
 機動隊は強硬手段を取らない方針で臨み、消防車による放水と催涙ガスで学生の抵抗を弱め、人海戦術でバリケードを撤去する戦略で対応したが、当日中には決着を付けられなかった。そして翌日1月19日午前6時30分、機動隊による安田講堂の封鎖解除が再開された。この安田講堂の攻防の様子は、テレビ各局に実況中継され、全国民が見守ることになった。
 2日目も全共闘学生の激しい抵抗があったが、午後4時前に、突入した隊員が3階大講堂を制圧し、日も暮れた午後6時前、ついに屋上で最後まで抵抗を続けた全共闘学生90人を検挙した。警察によると、一連の封鎖解除で検挙された学生は600人以上で、そのうち東大生はわずか38人だとされるが、実際には50人以上は居たものと思われる。
 いずれにせよすでに、一般学生はほとんど全共闘運動から離れており、東大学生も少なく、各セクトが動員した都内他大学の学生や地方の大学の学生が、学内に泊まり込みながら、機動隊に抵抗していたようで、一般学生が各大学固有の問題を提起した当初の「全共闘運動」からは、かけ離れた実態となっていた。
 すでに関西など複数の大学で、各大学全共闘によるバリケード封鎖が始まっていたが、東大や都内大学に寝泊まりしていた地方からの活動家学生が、各自の大学に戻って活動を始めたため、地方の多くの大学でもバリケード・ストライキが展開されることになった。
 しかし東大安田講堂バリケードへの機動隊導入と封鎖解除は、70年安保に向けて燃え上がった反体制運動の決定的な「転回点」となった。そして東大での機動隊導入は、他大学での機動隊アレルギーを解消し、1969(s44)年の春から秋にかけて、大学側が次々と機動隊を導入し、大学は正常に戻って行った。しかし学生たちと大学管理者や教授陣との相互不信の溝は、埋められることはなかった。
 都内の大学キャンパスを拠点にしていた過激派学生は、すべての「城」から追出された「敗残兵」として各地に散らばり、あるいは地下にもぐり、孤立化し、内部分裂し、ますます過激なテロに走り、そして連合赤軍の顛末に見られるような自滅の末路をたどることになる。
 大学に残された後遺症も大きく、当年春の東大入試は国に認められず、前代未聞の東大入試が無い年になった。また、筑波移転反対闘争による激しい学生闘争のあった「東京教育大学」は、紛争解決を契機に徹底的に改組され「筑波大学」となった。

『無知の涙』

2020-12-08
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【20th Century Chronicle 1969年(s44)】
◎連続ピストル射殺犯人 永山則夫逮捕
*1969.4.7/ 連続ピストル射殺事件の永山則夫が逮捕される。
 永山則夫連続射殺事件は、1968年10月から11月にかけての一ヵ月たらずの間に、東京ほかの4都市で連続して発生した拳銃による殺人事件である。永山則夫が在日アメリカ海軍横須賀海軍施設から盗んだ拳銃を使い、男性4人(警備員2人・タクシー運転手2人)を相次いで射殺し、そのあと東京に潜伏し、翌4月7日、別の侵入事件を起こし逮捕されるまで、半年にわたって逃げていた。
 裁判では、犯行時19歳の「少年」であったこと、貧窮の境遇での生い立ちの過酷さ、獄中での改心や文筆活動に基づく情状配慮など、その判決は死刑・無期・死刑と二転三転する。最高裁は二審の無期判決を破棄、差し戻す際に「永山基準」なるものを示した。
 死刑判決の適用に際して考慮すべき基準を示したものであるが、その基準は9項目に及び、しかも具体的な数値(たとえば殺人人数等)は示されていない。しかし殺人の数が複数でないこと、犯行時少年であったことなどが、死刑を回避する理由として挙げられ、そのさいに永山基準が持ち出されることが多い。
 死刑廃止論や少年犯罪者への配慮などの議論で、いずれの立場からも永山基準に言及されることも多い。永山基準が実質的な死刑への判例とみなされている所以である。なお、死刑執行反対の多くの支援者にもかかわらず、1997(h9)年8月、永山は死刑執行された。
(この年の出来事)
*1969.5.26/ 東名高速道路が全線開通する。
*1969.9.5/ 日比谷公会堂で、全国全共闘連合の結成大会が開かれる。
*1969.10.10/ 巨人軍の金田正一投手が通算400勝を達成する。
*1969.10.21/ 国際反戦デーで、社会党・共産党・総評の統一行動が全国で行われる。反日共系各派は、東京・大阪などで、烈しいゲリラ活動を展開、約1,500名が逮捕される。
*1969.10.29/ 発癌性の疑いで、厚生省は合成甘味料チクロの使用を禁止する。

オラは、死んじまっただあ・・・。

2020-12-05
フォーク・クルセダーズ
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【20th Century Chronicle 1968年(s43)】
◎フォーク・クルセダーズとフォークソングブーム
*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。
 この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJであってMCとは言わない)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。
 1967(s42)年4月から私もまた受験浪人となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局「ラジオ関西」の放送だった。
 こちらは京都なので電波状態がよくなく、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォーク・クルセダーズの「イムジン河」をよく流していた。そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。
 フォーク・クルセダーズは、アマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。
 1967(s42)年末ごろ、大手レコード会社からプロデビューの声が掛かり、「加藤和彦」「北山修」が新たに「はしだのりひこ」を加え、「一年間だけ」という約束で再結成して、大手レーベルから出したシングル盤「帰ってきたヨッパライ」が、いきなりミリオンセラーとなった。
「帰ってきたヨッパライ」 https://www.youtube.com/watch?v=ieVYEYNBN-U
 さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。
 そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、ギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。
「悲しくてやりきれない」 https://www.youtube.com/watch?v=XelkLDGMpGw
 フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。
 なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。
「日本のフォークブーム」 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20180930
(この年の出来事)
*1968.1.30/ 南ベトナム全土で解放勢力が大攻勢、テト攻勢を開始する。
*1968.10.8/ 阪神タイガースの江夏豊投手が、シーズン奪三振385の世界記録を達成、最終401を記録する。
*1968.10.12/ 第19回オリンピック メキシコ大会が開催される。

臓器移植ということ

2020-12-05
札幌医大の場合
【20th Century Chronicle 1968年(s43)】
◎札幌医大 初の心臓移植手術
*1968.8.8/ 和田寿郎札幌医大教授が、日本最初の心臓移植手術を行う。
 和田寿郎教授の札幌医大外科チームは、日本初の心臓移植手術を実施し、大々的に記者会見を行った。しかし18歳の患者は83日後に死亡、手術時の輸血による血清肝炎を発症し(売血を使っていたこの時期の輸血ではよくあった)、必ずしも直接の死因が手術にあったとは言えない。
 しかし患者の死亡後、さまざまな疑惑が噴出した。疑惑は多岐にわたるが、患者は心臓移植が必須であったかどうか、ドナーの脳死判定に関する疑惑、当時の心臓移植技術における時期尚早性などが、関係医学界などから提起された。
 まもなく和田医師は殺人罪で刑事告発されるが、不起訴となっている。その後日本で心臓移植が行われるのは1999年であり、和田移植手術は我が国の心臓移植医療を30年遅らせたとも言われる。
 なお、当時札幌医大に在籍し後に作家となった渡辺淳一は、事件をテーマに『小説心臓移植(「白い宴」と改題)』を発表し、綿密な調査取材で定評のある吉村昭も心臓移植を追った小説『神々の沈黙』を書き、この事件にも言及した。
(この年の出来事)
*1968.1.30/ 南ベトナム全土で解放勢力が大攻勢、テト攻勢を開始する。
*1968.10.8/ 阪神タイガースの江夏豊投手が、シーズン奪三振385の世界記録を達成、最終401を記録する。
*1968.10.12/ 第19回オリンピック メキシコ大会が開催される。
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