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時機相応

時機相応について  時代の中で、この人は、どう生きたか?

調所広郷 薩摩藩家老

2020-07-21
為さねばならぬ事は、為さねばなりませぬ!

【19th Century Chronicle 1846-1850年】
 

◎調所広郷と薩摩藩財政改革


*1848.12.18/ 薩摩藩家老調所広郷が、琉球密貿易の責任を取って江戸藩邸で服毒自殺をする。
 

 天保の時期ともなると、各藩ともに財政がひっ迫して危機的状況となっていた。そんな中で、いち早く改革を推進したのが水戸藩であった。「徳川斉昭」が継嗣問題を勝ち抜いて藩主となると、「藤田東湖」ら改革派の藩士たちを登用し、藩政改革を成し遂げるとともに、水戸学の尊王攘夷思想を、幕末の基調となる思想として浸透せしめた。
 

 一方、討幕の主流となった外様の西南雄藩もまた、この時期に次々と藩政改革に乗り出す。長州藩は、「そうせい侯」と呼ばれた藩主毛利敬親のもとで、「村田清風」を起用して財政改革を成し遂げた。肥前国佐賀藩では、第10代藩主「鍋島直正」が、藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成登用するなど、抜群の指揮力を発揮、いち早く反射炉など西洋技術の導入を進めるほどに藩力を強化した。
 

 そして薩摩藩もまた、500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。下級武士の養子から身を起こし、家老にまで上り詰めていた「調所広郷」は、その借金を無利子で250年の分割払いにするという無謀な条件を商人たちに押し付けた。無利子で250年年賦というと、実質踏み倒しに近い処置だが、藩の年収が14万両程度なのに、年間利息だけで80万両では返済不可能であり、今で言えば破産再生処理といったところか。
 

 調所広郷は借入金の処理だけではなく、藩収入を増やす積極策をも展開した。琉球を通じた清との密貿易を推進し、大島・徳之島などの砂糖を藩の専売にして、大坂の砂糖問屋の排除を図ったり、商品作物の積極的な開発など、増収になることは何でもした。
 

 調所広郷が藩政改革に取り組む時期に、薩摩藩は「お由羅騒動」と呼ばれる深刻なお家騒動に見舞われていた。時の第10代藩主「島津斉興」の側室お由羅の方は、世子「島津斉彬」をさしおいて、自分の産んだ「島津久光」を跡継ぎにともくろんだ。斉興もまた、近代的な装備を積極的に導入しようとする斉彬に対し、かつての藩財政破綻を再来させることを憂慮した。そして調所もまた、財政の悪化を懸念し斉興を支持する側に立った。
 

 斉興は一向に藩主の地位を譲ろうとせず、斉彬と久光の跡目争いは幕府をも巻き込むことになった。斉彬派は、水野忠邦のあと幕政を担う老中阿部正弘に、薩摩藩の琉球経由の密貿易を幕府に伝え、斉興、調所らの失脚を図る。嘉永元(1848)年、調所は江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問され、同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死する。責任が斉興に及ばせないようにと、責任を取っての服毒自殺とされている。
 

 斉彬派と久光派の抗争は調所の死後も続けられ、やがて幕府の介入により、嘉永4(1851)年、さしもの斉興も、42年勤めた藩主を斉彬に譲ることになる。広郷は、主導した苛酷な藩政で商人や農民から恨まれ、死後も、斉彬の薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通が藩の実権を掌握したため、調所家は徹底的な冷遇を受けたという。
 

 しかし、幕末の討幕過程で、薩摩藩の財政力と近代軍備は最も大きな役割を果した。それは、調所広郷の財政改革による藩財政の復活無くしてあり得なかったし、後の斉彬や西郷らの幕末における行動の基礎を作り出し、明治以降の日本の近代化に実現に寄与したと、再評価されている。

石原寛治、帝国陸軍軍人

2020-07-21
大東亜共栄という発想

満州事変は、政府や軍中央の承諾なく、関東軍中枢の一部軍人によって計画された謀略であった。 関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作であると発表し、これを口実に直ちに軍事行動に移った。これらの一連の計画は、関東軍参謀の石原莞爾や板垣征四郎らが推進したものであることが、戦後のGHQの調査などから明らかにされている。
 

 帝国陸軍の異端児と呼ばれた石原莞爾は、後年に『世界最終戦論』で展開されたような独自の軍事思想と世界観を持っていた。「世界最終戦」とは、高度に発展した大量破壊兵器により、一気の殲滅戦が引き起こされ短期に決着がつき、世界は統一され戦争は消滅するというものであった。そしてその最終戦を戦うのは、ヨーロッパを凌駕したアメリカと、日本の天皇を盟主とする東亜連盟とされた。
 

 満蒙は日本の生命線であるという陸軍伝統の発想に加え、石原は満州を核として、大東亜連盟の盟主として、来るべき最終戦に備えるという構想をもっていた。中国本土まで支配する発想はなく、やがて突き進んだ泥沼の中国侵略戦争には大反対した。かつて孫文の辛亥革命の一方を聞いて歓喜したように、中国本土には孫文の「中華民国」のような連盟できる安定政権を望んでいたが、事実上は軍閥割拠、共産軍も入り混じる内戦状態となっていた。
 

 日本政府は不拡大方針を発表し、「満州事変」と称して侵略戦争ではないとしたが、関東軍は軍中央や政府の方針を無視して戦線を拡大し、軍首脳もこれを追認するなどで、若槻内閣はもはや関東軍を統制できないところに追い込まれ総辞職、犬養毅内閣に代わった。これ以降、関東軍は満州問題について専行して国策を進め、やがて満州国傀儡政権を成立させることになる。この満州事変は、1937年には全面的な日中戦争に突入し、太平洋戦争終結まで続く「十五年戦争」の始まりとなった。
 

 満州国成立以降、石原は中国戦線の不拡大方針を主張し続けたが軍強硬派を抑えられず、太平洋戦争に突入する年には東条英機と対立し、現役を退任させられることになる。大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦に反対し、戦争末期には東条暗殺計画や早期終戦工作に関わった。これらの東條との対立が有利に働いたのか、石原莞爾は極東国際軍事裁判において戦犯指名から免れた。戦後は病にふせることが続き、1949年8月15日死去する。

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