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親鸞聖人の文及び典拠等

親鸞聖人(しんらんしょうにん)の文及び典拠等

別和讚

2022-10-26
弥陀の誓ひのゆへなれば
不可称不可説不可思議の
功徳はわきて知らねども
信ずるわが身にみちみてり
別和讚
聖人の御和讚ですが、三帖和讚の中には編入されていませんので、別和と申します。
晩年の御作で、あふれるような御信心のお喜びが歌われています。
不可称とは言葉にあらわし難いこと不可説とは弥陀の功徳を説きあらわし難いこと、不可思議とは仏の御誓い大慈大悲の深さは心及ばずということ、しかもそれは凡夫の心ではなく、弥勒菩薩のお心さえ及ばないことで、仏と仏のみぞしろしめすことだと、聖人御自身が解説しておられます
       聞思抄より
《参考》
別和讚  高田聖典  633頁
経典から和讚されているのではという説がございます。
正像末法和讚は正嘉元年、八十五歳
に手がけられた内容、編集ともに
未完成の状態の一帖で、草稿本と
言われています(高田聖典510頁)
国宝本が草稿本とされるのは、内題
首数肩書もない。「正嘉元年丁巳三
月一日愚禿親鸞八十五歳書之」
の奥書きがあ。
翌年九月の奥書きを持つ顕智書写本に比べて収載順序等大幅な異動があり草稿本と呼んで正像末和讚の、形成過程初期段階を示すとされている
親鸞聖人の御真筆は最初の九首で、
第十首からは真仏上人の筆とされています。本文としては三十五首、それから夢告讚一首、別和讚五首
合わせて四十一首になります。

観経疏 玄義分 善導大師

2022-10-25
道俗時衆等=どうぞくじしゆとう
各発無上心=かくほつむじょうしん
生死甚難厭=しょうじじんなんえん
仏法復難欣=ぶつぽうぶなんごん
書き下し文
今の世の僧俗逹よ、おのおの無上心を発(おこ)すべし、生死は厭(いと)い難く、仏法は又喜び難し
観経疏 玄義分 善導大師
今ここにお集まりの出家在家の往生を願う方々よ。
先ずもって各自めいめい菩提心を発すべきです。
しかしすぐれた菩提心を発しえたとしても、自分の力から出てきたのでは、十分ではありません。
迷いの生死はきらってはみても、きらいきれません。
仏法に教えを乞(こ)わねばと知り つつも、ひたすらに仏法を願わせない雑縁が、さとりへの道をさまたげます。
「勧衆偈」勤行に用いられている偈文の冒頭です。
このあとに続く
《横超断四流 願入弥陀界》の前置きです。
       聞思抄より
《参考》
観経疏  玄義分  善導大師
 浄土真宗聖典 七祖篇
         297頁2行目
 真宗聖教全書 三教七祖部
         441頁2行目
横超断四流  教行証  信巻
 浄土真宗聖典(西)254頁3行目
          255頁6行目
          244頁10行目
 真宗聖典  (東)243頁1行目
          244頁2行目
                                       235頁行目
 高田聖典     264頁6行目
          265頁6行目
          257頁5行目

仏智疑惑

2022-10-24
facebook草川廣江さん
仏智を疑惑するゆへに
胎生のものは智慧もなし
胎宮にかならず生まるるを
牢獄に入るとたとへたり
愚禿述懐  第九首
仏の智慧のお働きが信じられない人は、浄土の中の胎宮(たいく)に生まれます。
胎宮は母の胎内のように暖かく包まれたところですが、智慧の光に照らされることができません。
それはちょうど牢獄に入れられたようなものです。
仏智疑惑の罪は重くて、ここに五百年も閉じこめられて、仏法僧の三宝に遇うことも聞くこともできず、空しく過 さねばなりません。 
聖人は一連のこの二十二首の和讚で、仏智を疑う罪をひたすらいましめられます。
       聞思抄より
《参考》
愚禿述懐  第九首 (誡疑讚)
 浄土真宗聖典(西)612頁[七一]
 真宗聖典  (東)506頁(12)
 高田聖典     651頁
化身土巻   尊号真像   大経
聖典《西》
377頁[七]~  645[三]   54頁
 378     13行目  3行目
380頁[一三]
 7行目
471頁[一一七]
 7行く目(後序)
聖典《東》
328頁~   514頁   57頁
 6行目    1行目   13行目
330頁
 5行目
398頁
 7行目
聖典《高》
361頁~   727頁    71頁
10行目    9行目    3行目
363頁
 12行目
435頁
  9行目


完き人の教えには・・・。

2022-10-23
完(まった)き人の教えには、何物かを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない
ブツダ最後の旅
《大バリニッバーナ経》
釈尊のお姿に、涅槃のときの近いことを感知したアーナンダが、「釈尊が何事か特別の教えをのこさずに亡くなる筈はない」と申しあげた時のお答えです。
釈尊は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか「修行僧のなかまはわしに頼っているとか思うことはない」と仰せになるのです。
法を崇(あが)め法を伝えた釈尊には、握拳の中に秘密を残すようなことはなかったのです。
親鸞聖人の、教団に対するお気持にもこの精神が貫ぬかれていました。
       聞思抄より
『聞思抄』
  • 出版社高田派坊守会
  • 刊行年平成2年

阿弥陀経

2022-10-20
地中蓮華(ちちゅうれんげ)
大如車輪(だいにょしゃりん)
青色青光(しようしきしょうこう)
黄色黄光(おうしきおうこう)
赤色赤光(しゃくしきしゃくこう)
白色白光(びゃくしきびゃくこう)
微妙香潔(みみょうこうけつ)
書き下し文
池の中の蓮華は、大きな車輪の如し
 青色(しょうしき)には青光、
 黄色(おうしき)には黄光、
 赤色(しゃくしき)には赤光、
 白色(びゃくしき)には白光
 ありて、 微妙香潔なり
仏説阿弥陀経
《参考》
仏説阿弥陀経
 浄土真宗聖典(西)112頁8行目
 真宗聖典  (東)126頁13行目
 高田聖典     157頁1行目
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