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親鸞聖人の文及び典拠等

親鸞聖人(しんらんしょうにん)の文及び典拠等

阿闍世

2022-12-06
教行証 信文類
我阿闍世の為に
無量億劫に涅槃に入らずとのたまへり
教行証 信文類
極悪人阿闍世は、「観経」の中では救われないままでした。
しかし「涅槃経」では、釈尊の放った大悲の光明によって、身心ともに解脱し、救われたことが説かれています。
そのいきさつに、開山聖人は深く感動されました。
世尊は、
《苦悩にひしがれた阿闍世一人がある限り、自分ばかりが涅槃の寂静に常住することを快くはおもえない。
阿闍世の目覚めるまで涅槃に入らないで、無量永劫かけて呼び続けよう》 と誓われました。
       聞思抄より
《参考》
顕浄土真実教行証文類 信文類
 浄土真宗聖典(西)
    277頁[一一六]~278頁14行
 真宗聖典(東)
    259頁7行目~260頁3行目
 高田聖典
    282頁7行目~283頁5行目
聖典 信巻
 お西様   お東様   高田
 266頁    251頁   273頁
 [一一四]   9行目   9行目
 290頁    268頁   293頁 
 [一一七]   8行目   1行目   
 286頁    289頁   265頁
 13行目     7行目  5行目

すなわち知る、

2022-12-06
往生要集 下 源信和尚
すなわち知る、
出離最後の怨(あだ)、
名利より大なるものはなきなり
往生要集 下 源信和尚
生死を出離するについて、最後に残る怨敵は名利より大きいものはないのです。
聖人も「名利の太山に迷惑して」(教行証信文類)と歎かれました。
この言葉の前に、大きな象が窓から出ようとしたが、尾尻が引っかかってついに脱出できなかった、とのたとえが出ています。
無碍光に照らされるだけで、名利に心を迷わしつつも、難関を越える一道が開けてきます。
        聞思抄より
《参考》
往生要集 下 源信和尚
 浄土真宗聖典七祖篇
        1109頁3行目
 真宗聖教全書三経七祖部
        888頁7行目
聖典
  教行証文類  愚禿悲歎述懐
    信巻
西  266頁3行目   618頁
様   [一一三]    [104]
東様 257頁9行目   509頁11首
高田 273頁7行目 
  655頁11首

信は願より生すれば

2022-12-06
愚禿親鸞八十五歳 之を書く
信は願より生すれば
われら衆生の信は弥陀の願よりおこるなり
浄土高僧和讚 善導讚 第二十一首 左訓
衆生の信心は、わが力によるとのではなく、弥陀の本願のおはたらきなのです。
夢告の和讚には
「弥陀の本願信ぶべし」との力強いお呼びかけがありますが、本願を離れての信はなく、信がなければ本願もその場をえません。
本願が無ければ万事は休するのですが、本願が名号を働きとして、信心を得させて下さるにもかかわらず、
信を得ずに本願をむなしくするのは衆生の罪です。
       聞思抄より
《参考》
浄土高僧和讚 善導讚 第二十一首
 浄土真宗聖典(西)592頁[八二]
 真宗聖典  (東)496頁
 高田聖典     568頁
信は願より生ずれば
 (われら衆生の信は弥陀
  の願よりおこるなり)
 念仏成仏自然なり
 自然はすなわち報土なり
 証大涅槃うたがわず
 (大涅槃をさとらんこと
     疑わずとなり)
夢告讚(正像末和讚巻頭)
 浄土真宗聖典(西)600頁[一]
 真宗聖典  (東)500頁巻頭
 高田聖典
 (国)588頁 正像末別和讚36首
 (顕)635頁 正像末和讚巻頭
弥陀本願信ずべし
 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて
 無上覚をばさとるなり
 (この和讚をゆめにおお
 せを蒙りてうれしさに
 つきつけまいらせたるなり)
正嘉元年丁巳閏三月一日(1257年)
(しょうがんねんひのとみうる)
愚禿親鸞八十五歳 之を書く

唯信抄文意

2022-12-05
われらは善人にもあらず、賢人にもあらず。
賢人といふは賢くよき人なり。
精進なる心もなし、懈怠の心のみにして、内は虚しく、偽り、飾り、へつらう心のみ常にして、まことなる心なき身なりと知るべし
唯信抄文意
親鸞聖人の人間認識をよく知ることのできる言葉です。
聖人の人間観は自己凝視を基本としており、常に
「われら」として語られます。
われらは善人でもなく、まして賢人でもありません。
仏道一筋に励もうという心もなく怠けてばかりで、内面は虚偽.虚飾.へつらいの心に満たされ、真実な心はかけらもないのです。
こうした自己の醜さがさらけ出されるのも、大悲の光明が照らす故でありました。
       聞思抄より
《参考》
唯信抄文意
 浄土真宗聖典(西)715頁6行目
 真宗聖典(東)557頁15行~次
 高田聖典   695頁5行目

善悪

2022-12-04
『歎異抄』後序
善悪、正邪は優劣等
は時と場所立ち位置
時代によって変わります
他の命を奪いて食べていきている身。
そして、差別心、貪り、瞋り、愚痴という三毒、わが身可愛いという我執。
だから如来の教えを聞く、聞いたから善、聞かないから悪とはわからない。全て決め付けられません。
もしこの書を見聞せんもの
「信順を因とし、疑謗を縁てして信楽を願力に彰し妙果を安養に顕さんと。」  化巻最後の御自釈
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